第6話 組織

「よかった、よかった」


 恩羅さんは何かに納得したように、うんうん頷いている。

 俺は立ち上がり、何が何だか分からず彼女の隣に座った。そして、恐る恐る訊いた。


「怒って、泣いてたんじゃなかったんですか?」

「別に怒ってないわよ。泣いてもないし」恩羅さんは真っ赤な毛先をくるくる遊ばせる。「だって、わたしが魅力的に映ったんでしょ?」


 はいと素直に首を縦に振る。


「あまりに魅力的だから、その……、なんていうか、やりたいって思ってしまいました」

「じゃあ、いいじゃない。女として見られてるってことだし」


 あ、あれ? どういうこと? 怒ってるんじゃないの?

 ぽかんとだらしなく口を開けてしまう。呆けた俺に彼女ははっきりとこう告げた。


「怒ってないから安心して」


「そ、そうなんですか。じゃあ、セクハラで俺を訴えるとか……」

「セクハラあ? ないない」彼女は、首と手を交互に横に振る。

「よかった~」

 

 ついさっきまで、極寒の網走で、睫毛まで凍らせながら出勤している光景が目に浮かんで絶望していたところだ。ほっと胸を撫でおろすと、へなへなとデスクに突っ伏した。


「なんだ、そんなこと心配してたの。そんなのするわけないじゃない。別に、わたしは子供じゃないからね。その……なんだ。や、やりたくないより、やりたいって思われた方が華があっていいじゃない。それに、わたしが手令くんでも、あんなシチュエーションだったら、さっきみたいなこと言っちゃうと思うよ」


「で、ですよね」

「当たり前じゃない」


 恩羅さんは、あははとあっけらかんに笑う。

 俺が鈍感なのかそうでないのか定かではないが、ひとつ、疑問に思っていることをそのまま口にした。


「もしかして今までのことって……、わざとですか?」


 彼女の眉がぴくりと動く。


「わ、わざとじゃないわよ」


 恩羅さんは顔を赤らめて、そっぽを向いた。

 あれ? 違うの? じゃあ、いったい?


「なんで、誘惑ばかりするんですか?」

「え、なに」

「いや、恩羅さん、わざとですよね。今日だって、ずっと気付いてましたよ」

「なによ、それ」

「なによって……。どう考えてもわざと手を握ったり、胸をチラ見させたり、ふとももむちむちさせたり」

「むちむちって、それはわたしのせいじゃ……」

「まあ、そうなんですが、さっきから誘惑ばかりしていたじゃないですか」

「そ、それは……」

「それは?」


 その続きを待った。

 彼女は俺にそっぽを向けて、うなじだけを見せている。その白く透き通ったうなじに、虫に刺された赤い跡があり、ぽりぽりと掻いた。どうでもいいが、この人でも虫に刺されるんだなと妙な親近感を覚えた。


「に、任務よ」彼女はぼそりと言った。

「任務う?」


 予想外の回答に、思った以上に大きな声でオウム返しをしてしまった。その様子に恩羅さんはびくっと肩を震わす。そして、あたふたを隠せぬまま、ばっと額の汗を弾いた。


「そ、そうなのよ。任務なのよ」ああもうっと唸りながら真っ赤な髪をがしがし掻く。「もうこうなったら、こっちも全部話すしかないわね」


「……なんか、部長から言われていたんですか?」

「部長じゃないわよ」

「あれ? そうなんですか。じゃあ、誰ですか?」


 彼女は黙った。というより、答えに窮しているように映った。

 そして、こんな一言を。


「組織よ」


「組織? 人事部とかですか?」

「うちの会社じゃないわよ。別の組織よ」


 ……どういうこと?

 キツネにつままれたような顔をした俺の疑問に答えるべく、恩羅さんは続ける。


「ある組織から頼まれていたの。手令くんを誘惑しろって」


 とりあえず俺は「はあ」とだけ答えた。


「ごめんね。いくら聞かれても、その組織の名前は手令くんには教えられない。こればっかりはだめなのよ。それはわかって。お互いのためだから。シャレにならないぐらい危険なやつらなの」


 これは……。

 はっきり言うとかなり胡散臭いのだが、いつになく真剣な眼差しの前では、話を合わせるのが大人の対応だろう。


「わかりました。それで、その組織から、なんで俺を誘惑しろって言われたんですか?」


「ワクチンよ」


「ワクチン?」


 恩羅さんは黙って頷き、「そう。ワクチンよ」と繰り返した。


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