第5話 やらせてください
「す、すみませんっ」
「……」
彼女から無言で見つめられ、心臓が破裂しそうになる。
ちなみに今の状態を、時系列順に説明すると――
①恩羅さんの下半身を抱きしめて床に倒れこむ
②あわてて恩羅さんの下半身から手をどかす
③でも腰がまだ痛いので立ち上がれない
④そのため、仰向けに倒れる恩羅さんを見下ろすように、両肩付近に腕を立てている
⑤互いの顔と顔の距離――30cm程
その答えは――
普通に大人の男女のシチュエーションで考えたら、今からキスしておっ始めますよってな格好をしているのだ。
まさか、機密書類の棚卸からこんな展開になろうとは……!
神の悪戯。
この使い古された言葉以外、思いつかない!
「あ、あの、恩羅さん」
「……なに?」
「お、おれ……」
彼女は黙って頬を赤らめる。
やばい、どうする。心臓がばくばくする。もう、言うしかない。だって今日を逃したら、いつ会えるかわからない。まだまだアクフス禍は終わらない。二人を引き裂くウィルスは今日も元気に誰かを殺している。いつ何時、その脅威が俺たちにも牙を向くかもしれない。
それに、タイミングがいいことに、今は会社に俺たち以外誰もいない。
「お、恩羅さん。俺は前からあなたと……」
「あなたと……」
彼女も一緒になって続きを促す。
そして、辿り着いた答え。
それは――
「あなたと、やりたいと思ってましたああ――!!」
ましたあ……
ましたああ……
ましたあああ……。
エコーのようにオフィス中に響いた欲望と性欲のハーモニー。
思わず言って……しまった。
この絶叫をうけて、彼女は目を閉じてわなわな震えだす。
「最っ低!」
「痛っ」
ばちんと頬に平手打ちをくらい、大きくのけぞった。どうでもいいことだが、その反動で腰が動くようになった。不幸中の幸いとはまさにこのこと。
彼女はすくっと立ち上がると、何も言わずにすたすたとデスクに戻っていく。
しまったあ――!!
俺はなんてこと言ってしまったんだ!
彼女があまりにも俺を誘惑してくるから、思わず本音を叫んでしまった。
もうだめだ。すぐにセクハラで訴えられて、この会社をくびになるか、よくても島流し的に地方に飛ばされるかどちらかだ。
思い出した。
そういえば、うちの営業所で一番辺鄙な場所に網走があったな。
そこかもしれない。絶望が冷たい風とともにひたひたとにじり寄る。
ふえええ――
ん? なに、その声。
耳をすますと、「ふええええ~ん」と彼女がすすり泣く声が聞こえてきた。
泣かせてしまった……。
さあっと血の気が失せていくと、妙に冷静になることができた。
てゆうか、俺の島流しなんかあとだ。まずは、彼女を傷つけてしまったことを謝るのが先だ。
極寒の網走から都会のオフィスに舞い戻り、一目散に彼女のもとへと急ぐ。
恩羅さんはデスクに突っ伏したまま、「ふええええーん」と子供のように泣いていた。
こんな状況にさせてしまったとはいえ、俺は素直に可愛いと思ってしまった。
嗚呼、俺は彼女とやりたいのはもちろんなのだが、本当は彼女と仲良くなりたいんだった。あまりに恩羅さんが、色気爆発でエロ過ぎて誘惑してくるから、あらゆるプロセスをすっ飛ばしてセックスへと突っ走ってしまった。
「恩羅さん、すみませんでしたっ!」
当然、彼女の前で土下座。
そして、正直にこう言った。
「俺は、本当は恩羅さんのことが好きなんです。でも、あんな感じで肌が密着してしまい、ついつい本能の赴くままに、あんなことを口にしてしまいました。本当はあなたと仲良くなりたいんです。どうかこの通り――」
お許しくださいと何度も床に額をこすりつける。土下座って案外気持ちいもんだな、と馬鹿なM気とともに額がじんじん痛み始めると、祈りは通じた。赤子のような泣き声はぴたりと止み、
「それ、本当?」
「はい、本当です」
顔を上げると、ちらりと突っ伏した腕の隙間から彼女の瞳が見えた。
よく見ると、恩羅さんは泣いていなかった。普通、人間は涙を流したあとは、目が赤く腫れるものだがその痕跡もなかった。赤いのは情熱的な髪の毛だけで、それ以外はなんかあったの?って感じでけろりとしていた。
あれ? 嘘なき……?
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