十八、もうひとつの現実

 止めようとする。何としても走り続ける。

 そんな根比べが終わったとき、二人は聖堂前の広場にたどり着いていた。

 肩で息をする二人に、すれ違う人たちの視線がむけられる。どれも気づきはするけれど気には留めないといった様子で、リッドたちに注目するような人間はいなかった。

「ね? 案外気づかれないものだろ」

「そうかもしれないけど、わざわざ視線を集めるようなことしなくてもいいでしょ」

 ユイルは呼吸を整えながら辺りを見回している。なんだか賑やかねと言って首をすくめた。

「今日は聖堂前広場に市が立つ日だからね。必要なものはだいたいここで揃えられると思うよ」

「市場は王城前じゃないの?」

 ユイルが言う。

 はてとリッドは首を傾げた。

 王城前にそんな場所があっただろうか。

「ああ、あれか」

 馬をつないでおけそうな敷地はあったが、立地的にもガヤガヤと人が集まり賑やかにするような場所ではなかった。

 二百年のうちに変わったのねとユイルが言う。

「今のファブールなら僕の方が詳しいみたいだね。いい店へ案内するよ」

 リッドはにっこり笑って、いっそう騒がしい雑踏の中へユイルを誘った。

 シャルムの市は街の住民が日常的に使う場所なのだが、活気や熱気は季節毎の祭りのそれにも負けないほどで、何の知識もないよそ者が立ち入ればたいした時間もかからぬうちに疲労困憊になってしまう場所だ。

 品揃えは悪くない。掘り出し物もたまにある。しかし大通りに構える店に比べて特別使い勝手がいいというわけではない。

 客の大半は店主たちとのやりとりを楽しみ来ているのだ。

「おい、こら、調査員。更新の手続きをしたのに何の音沙汰もないとはどういうことだ」

 乾燥肉を売っていた中年の男がリッドを見つけ、実に攻撃的な口調で言ってきた。挨拶もままならないということはこの市ではよくあることだ。

「だから、僕は調査するだけの人間で、それ以降のことはまた別の担当が――」

「そうだよコレール。最初からそう言ってるじゃないか。どうしてあんたはリッド相手にはそんなに偉そうに喋るんだろうね。お役人に相手にされないから八つ当たりしてるんだろ」

 助けに入ったのは女房のオネット。大柄の男の耳を力いっぱい引っ張って、リッドの前から避けさせた。

「すまないね、リッド。あんたもよそから来て面倒ごとを押しつけられてるっていうのに。お詫びにこれ、持ってって」

 大きな肉の塊の影で小さくなっている旦那をよそに、肉屋の女房は細かく切った燻製肉を油紙に包んで手渡す。

「ところでその子はどちらのお嬢さん?」

 見ない顔だねと全身をくまなく眺める。

「ええと、」

 ユイルが口ごもったところで、リッドはすかさず言った。

「王室御用達の更新の関係で会ったお嬢さんだよ」

 言うなりユイルに肩を小突かれたが気にしない。

「王室御用達。じゃあ職人とか料理人? シャルムで商売している人間はだいたい知り合いだと思っていたけど、まだまだ知らない人間がいるもんだねえ」

 オネットは感心したように笑って言ったが、言いながら途中で何かに気がついたようで、もう一度ユイルをじっと見た。

「知らない職人って、もしかして」

 ユイルが身構える。

「あれかい? そうだ。そういえばなんとなく薬草の匂いがするような……。やっぱりそうだ。あんた、正体不明の調合屋だろ!」

 さすがは市場の商売人だ。その声はよく通り、両隣の店の主人はもちろん、買い物中のご婦人方にも、そぞろ歩きの旅人たちにも届いたようで、市場の喧騒の中に質の異なるざわめきが駆け抜けた。

 どこだ、どこだと人々が騒ぎ出す。

「なんてことしてくれたの」

 人々の目を盗みリッドに耳打ちをするユイル。

 リッドは悪びれもせず、

「審査のときにこうなるよりは良くない?」

 と言った。

「そうかもしれないけど……」

「正体不明の調合屋を演じる訓練にはもってこいじゃないか」

「そのためだけにこんなことを?」

「いやあ、楽しそうだという気持ちも少なからずあったけれど」

「……いい人だと思っていたのに、あなたってそういう人なのね」

 冗談のつもりで言ったのに、ユイルはぷうっと頬を膨らませてしまった。その反応すらも楽しんでいると知ったら、二度と口をきいてくれないかもしれない。

 リッドはにこりと笑ってユイルに囁いた。

「君に見せたいものがあるって言ったろ」

「これがそれだって言うの?」

「そう。昼間だと見えすぎてしまう、もうひとつの『現実』さ」

 ひそひそ話をできたのはそこまでだった。

 騒ぎの震源地を突き止めた人々は肉屋の前に群れを成し、あっという間にユイルを取り囲んだ。

 自分でその事態を招いておきながらこれはまずいなと頭を掻く。ユイルがもみくちゃになってしまわぬよう守らなければならないのに、リッドは人の波に押されて揉まれて思うように動けなくなっていた。

 そんなリッドの腕を掴みひょいと引き寄せたのは腕力自慢の肉屋の主人だった。一方、

「はいはい、押さないで。そこ、近づきすぎ。ほら、触るんじゃないよ」

 女房のオネットがその場を仕切りはじめる。

 自分の声で人が集まったことに責任を感じているらしい。他の店の主人たちにも声を掛け、顔なじみの客にはロープを持たせ、店の前に『正体不明の調合屋』のお披露目会場を整備した。

「言っておくが見世物なんかじゃないんだからね。興味本位のやつは今すぐ帰りな。言いたいことがあるやつはここに並んで順番に」

 テキパキと事を進めるオネット。

 ユイルは皆の視線を一身に集めながらもうどうしていいかわからない様子だった。人垣の中にようやくリッドの姿を見つけると今にも泣き出しそうな顔で「早く来て!」と声を上げた。

 リッドはコレールの力を借りて人の波を縫い、彼女の隣へ躍り出る。

「大丈夫?」

「大丈夫なわけないじゃない。これは……どうするのが正しいの?」

「楽しめばいいんじゃないかなあ」

「リッド。私は真面目に聞いているのよ」

「僕も大真面目に答えているよ」

 言ってリッドはユイルの両肩をトンと叩いた。

「力を抜いて、目の前で起きたことに素直に反応すればいいんだ。困ったら僕を頼ればいい」

「あなたを頼るの?」

 その一言には「本当に頼りになるのか」という疑念が含まれている。

「それはもう。大船に乗ったつもりでいていいと思うよ」

「……わかったわ。今はそうするしかないものね」

「手始めに手でもつないでみますか、お嬢さん」

 心細さの解消にはもってこいだよと続けると、冷ややかで鋭い視線がリッドを突き刺す。

「悪いけど、あなたの冗談に何だかんだと言い返す余裕は今はないのよ」

 弱気なのか強気なのかわからない発言にリッドは声を出して笑った。

「とにかくさ、普通にしていればいいんだよ。ほら一人目だ」

 ゴホンと咳払いをして一人目がユイルの前に歩み出る。

「ええと……」

「肉屋のオネット三十八歳。あんたに言いたいことがある! たくさんある!」

 何かの演説のように、胸を張り力強く声を上げた。おおっと歓声が上がる。

「でもみんな待ってるからその中から一つだけ」

「は、はい」

「こんなに可愛らしい調合屋さんだったんだね! どんな事情があるか知らないが、正体隠すなんて勿体ない! サービスするから今度からはいつでも遊びにおいで!」

 興奮気味に言ってユイルの体を抱き寄せた。

 ユイルは「え? え?」と発するばかりで何の言葉も返せない。

「さっき自分で『触るんじゃないよ』って言ってなかった?」

 リッドが言うとオネットはキッと睨みつけて、

「私はいいの。勢い余ってしまったから」

 と冷静に答える。

 そう言ってしまうくらい彼女には思うところがあったらしい。

「だってさ、あんなにいい薬を作っておきながらふっかけるようなこともしないし、こんな薬も欲しいあんな薬も欲しいってワガママ言っても親切に応えてくれるし。いつか会ってみたいと思っていたんだよ。会ってさ、あんたすごいねって、いつもありがとねって言わせてもらいたかったんだよ。ありがとう。いろいろ事情はあるんだろうけど、あんたがこうやって私たちの前に出てきてくれたおかげでお礼を言う機会をもらえたんだ」

 興奮しすぎて感極まったのか、オネットはぐすっと鼻をすする。

 ユイルの体から離れると、あらためて「ありがとう」と言った。それに「これからもよろしく」を付け加える。

「泣くほどのことかい? いくらなんでも大袈裟じゃないかなあ」

 リッドはそう言って笑ったが、意外なことに鼻をすすったのはオネットだけではなかった。

「なんであんたが泣くんだよ」

 オロオロと取り乱すオネット。そのすぐ目の前で、ユイルが大きな目いっぱいに涙をためていた。

「何? 大丈夫?」

 リッドが声を掛ける。

 ユイルは驚いたような顔を見せたかと思うと、たちまちのうちに眉をハの字にさせた。その動きにともなって、たっぷりたまっていた涙はついにつうっと流れた。目尻から一筋、頬を伝った。

 その涙がきれいなラインを描く顎の辺りへと届く前に、ユイルは手の甲でそっと拭った。拭ったことでようやく自分が泣いているのだと自覚したようだった。

「やだ、私ったら……。だって、こんなこと言われるの初めてで、」

 どうしたらいいのと尋ねてくる。

「こんなこと言ってもらえるなんて思っていなかったから」

「そんなことはないでしょ」

 正体不明の調合屋への感謝の言葉は行く先々でこれでもかと託された。

「それを君にも伝えたはずだよ」

「直接言われたのは初めてだもの」

 だからどうしたらいいのかわからないのだと言う。

「嬉しいと思ったならありがとうと言えばいいし、いつも僕に言うみたいに『当然でしょ』って偉そうにしたっていいいんだよ」

「私、そんなことしてないじゃない!」

 人々の目を気にしながら顔を真っ赤にする。

 リッドはそれを見てはははと笑った。

「それだけはっきりものを言えるんだから、君なら大丈夫でしょ。ほら。こんなにたくさんの人が君の言葉を待っている」

 リッドはにんまり笑って市場内に目を遣った。『正体不明の調合屋』に会おうとする人の長い列がずっと向こうの方まで続いていた。

「君はシャルムの人気者だからね」

「私が?」

「そうだよ。知らなかった?」

「そんなの、知るわけないじゃない。だって私は――」

 『魔女なのに』とでも言おうとしたのか。言いかけた口の形を保ったまま、ユイルの目は行列の尻尾を探していた。リッドも同じように人の列をたどる。市場の客も、話を聞きつけてやってきたものも、幼い子どもも、年老いたご婦人も。いろんな顔がそこに集まって、キラキラとした瞳でユイルを見つめていた。

「これが、あなたが見せたいと言っていたもうひとつの現実」

 ユイルの目がまた潤んだように見えた。

「悪くはないだろ?」

「そうね。とっても嬉しいわ。でも、」

 しかしユイルは言い淀む。

 一呼吸置いてから、「申し訳ないわ」と悲しそうに言った。


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