十七、傷跡

 ユイルが魔女として最後にシャルムの街を歩いたのは、二百と数年前。

「それから今まで、まったく昼間には来なかったの?」

 すっかり不機嫌になってしまったユイルを追いかける。宿を出て静まり返った歓楽街を抜け、人気のない裏通りを進んでいた。

 言いながら、リッドは自身の言葉に引っかかりを感じた。

「いや、そんなことはないか。マルシャンの店に薬を売り込みに行ったのはたしか昼間のことだものね」

 営業中の店に突然やってきたというようなことをマルシャンが言っていたはずだ。

「それから契約のときにも一度行っているから、二度か。そのときは平気だったの?」

 問いかけてみるが返事はない。

 宿を出てからずっとこんな調子だ。

 人の気も知らないでと思う気持ちもある。しかし不機嫌が優先しているうちは不都合なものに意識が向きすぎなくていいのかもしれないと、ほどほどに声を掛けながらユイルの後ろを歩き続けた。

 朝方の低い角度の日差しでは、高い家々に挟まれた裏通りには充分な光が入らない。上空の青空がなければ朝が始まったところなのか暮れていく前なのかわからない、時間の狭間に迷い込んだ気分に陥る。

 それがユイルには心地よかったのだろうか。そういう道ばかりを選んで歩いているように見えた。

 しかしよく考えればそうではないとわかる。

 彼女は『見えすぎる』場所を通らないようにしているだけなのだ。

 昼間の中でも、なるべく暗いような場所を歩く。馴染みのない場所を歩く。歩く距離を、時間を短くする。そうして受ける被害をできるだけ少なくしようとしているようだった。

 思えばマルシャンの店は街の外れと言ってもいい場所にある。森から見ればもっとも近い区画だ。彼女にとっては街の中を歩くにしても『見えすぎる』状態が少なくて済む最短距離の場所だったのだろう。

「平気なわけは、ないか」

 リッドはぽつりと言った。

 先を行くユイルの耳には入らなかっただろうと思ったが、「ごめんね」と続けないわけにはいかなかった。

 反省の気持ちもあって遠慮気味に距離を保って歩いていたのだが、気を抜くと追いつくどころか追い越してしまいそうな事態になっていた。

 進むにつれユイルの方が減速していったからだ。怒りにまかせた、荒々しさと豪快さをそなえた歩みは見る影もない。ふうわりと広がるスカートの裾が気になってのことだと思っていたがそれだけではないようだ。

 ユイルは迷いさえ感じるようなよそ者の足どりで、あちらこちらに視線をむける。その様子にどうしても「見えすぎてしまう」というその言葉が浮かんだ。

「買い物、できそう? もしも難しいなら休みながらでもいいよ。ああ、案外大きな通りに出てみた方が気がまぎれるかもしれないよ。まわりが騒がしいといろいろ考えていられなくなったりしない? 僕なんて、られやしないかと気が気がじゃなくて、他のことに気が回らなくなるんだ」

 言うとユイルの足がぴたりと止まった。

 あまりに唐突なことで、後続のリッドは止まりきれず背中に突っ込んでしまうところだった。

 じとっと何か言いたそうな目。

 気遣っていると言わんばかりの言葉選びが気に入らなかったようだ。しかしきつい目を向けただけで指摘まではしてこなかった。

「寄り道をしてもいい?」

 とだけ言ってまた歩き出した。

 リッドはそれにおとなしく従った。

 この街を知っている人間でなければ気づきもしない角を曲がり、細い路地を行き、生い茂る草木に隠れたアーチをくぐる。

「勝手知ったるなんとやらというやつかな。二百年ぶりなんて、君にとっては何でもないみたいだ」

 アーチの低さを見誤って盛大に額をぶつけるリッド。その様子を視界の端でとらえながら、ユイルは長らく続いていた不機嫌を解いた。

 口もとをやさしく緩ませる。

「昔よく、歩いた場所だから」

 ようやく口をきいてくれたかと思うと、淡々とそんなことを言った。

 表通りのように賑やかではないが、いい仕事をする職人の店がいくつかあったのだという。その店を巡るときはいつだって母に手を引かれて、姉のいじわるに頬を膨らませ、そうして歩いていた。

 すれ違う人たちも知っている顔ばかりで、会釈を交すだけの人もいれば、親子を呼び止めては長話を始めてしまう人もいた。その人と会った時には、姉はわかりやすく不満そうな顔をした。大人たちの会話は子どもにはつまらないし、何より目当ての店に早く向かいたいのだ。ユイルにはそれがはっきりわかるのに、不思議なことに母たちはそんなことにまったく気づきもしなくて、姉はふてくされた顔で母の服の袖を掴んでいた。

 だけどユイルは母と街の人の話が終わるのを待っている時間も好きだった。そこに立っているだけで街のいろんな音が聞こえてきた。

 ――そんなかつての日常を、ユイルは今まさにその瞬間を体験しているかのような色合いで話してくれた。

「今も変わらず、たくさんの音があるわ」

 森とは違う音。夜の闇の中では聞くことができない、音。ざわざわと届くその音が心地よくて、ユイルは自然と笑顔になっていた。

 しかしリッドから見ればその笑顔は幸せだけをのせたものには思えなかった。目の奥にすんと沈んだ色がある。

 間違いではなかったようで、ユイルの歩みが遅くなった。

「ここはよく来た場所」

「ああ、そうだと言ったね」

「でも誰ともすれ違わないわね」

 ユイルは苦々しく笑った。

 人通りがないわけではない。

 彼女が言う『誰か』は特定の『誰か』なのだろう。

 路地の風景は今もある。

 しかし、母や姉と一緒に来た店には知らない看板がかかっていて、当たり前ではあるが、顔なじみの家はまったく知らない誰かの持ち物になっている。

「二百年だからね」

 リッドは言った。

「そうね。二百年だものね」

 道の両側に隙間なく建ち並ぶ家々を見上げてユイルが言った。

「あのバルコニーにはいつもやさしいおばあちゃんが座っていて、下を通る私たちを見つけると笑顔で手を振ってくれたわ」

 一年中、バルコニーには白い花ばかりが飾られ、それに埋もれるように魔女の加護をうけたお守りチャームが備えられていたという。

 今もそのバルコニーはたくさんの花で飾られているけれど、白い花ではなかった。色とりどりの花が賑やかにあって、開け放たれた窓からは幼い子どもの声が聞こえた。

「あの家の玄関に刻まれたおまじないの言葉も、あそこの家に分けてあげた森の植物も、みんなみんな、なくなってしまった」

 彼女は言ってから「二百年だものね」と笑った。

「魔女の存在が消えてしまったって、不思議じゃないわ」

 靴底で石畳を踏みしめる、その感触まで味わうように、ユイルは一歩一歩を大事そうに歩いた。

「やっぱり明るい時はダメね。見えすぎてしまうもの」

「がっかりした?」

 後ろを歩きながらリッドは聞いた。

 先ほどよりも二人の間隔は近い。

 リッドの問いを受け止めたユイルは「そうね」と一度は言ったが、すぐにその言葉を打ち消した。

「がっかりなんて、それじゃあまるで何かを期待していたみたいじゃない」

 歩みは止めず、わずかにこちらを見た。眉間に皺が寄ってるように見えた。

「違った?」

「どうしてそう思うの?」

「君は森を大事にしている。それは確かだ。だけどシャルムやそこに住んでいる人たちのことも同じように大事にしているんじゃないかと思ってさ」

 かつての街の景色を語ってくれたそのときの顔つきを思うと、なおさらそう感じた。

 しかしユイルは怪訝な顔をこちらに向ける。

「私たちを追い出した街や民を?」

 悪ぶって言う。それはまったく様になっていなくて、リッドは思いがけず笑ってしまった。

「憎んでいるのなら、よく効く薬を作ったりしないと思うんだけどなあ」

「お金のためって言ったでしょ」

「お金を稼ぐ方法なら他にいくらでもあるよ。例えば隣国に出向いて『魔女の薬』として売った方が今よりも簡単に、大量に稼ぐことができるさ」

「それは……思いつかなかったわ」

 ユイルは顔を背けた。リッドはもちろん言葉通りには受け止めなかった。

「街から魔女が消えたことが悲しい。だから見たくない。それってさ、普通は仲間や自分に起きた悲劇を思ってのことだと考えるけれど、それだけじゃなかったんだよね」

「何が言いたいの?」

「君は未来を摘み取られる気がして、それでこの景色と向き合うのを避けていたんだろ」

 意味がわからないわと、ユイルは嗤う。

 それはまるでその話を今すぐ打ち切れという合図のようにもとれたがリッドはやめなかった。ずっと抱いていた違和感を彼女にぶつけた。

 大事な魔女の紋様に刃を突き立ててでも守りたかったのは、森だけなのだろうかと。

「僕は思うんだ。君は『ファブールの魔女』でありたいんじゃないかってね」

「だから期待をしていたって言うの?」

「ああ。今でもこの街は魔女を受け入れてくれる、そういう兆しが街のどこかにあるんじゃないか、という風にね」

 リッドは穏やかに笑って言った。

 どこかで道を間違ったのか。

 それともユイルがいた頃とは大きく姿を変えてしまったのか。前方には続く道はなかった。

 二人は路地の奥、行き止まりに立っていた。

 仕方なく振り返ったユイルはリッドの顔を見るなり苦々しく笑った。

「おかしいわね。反論の言葉が何にも浮かんでこないわ」

 ユイルはふうっとひとつ息を吐いた。

「あなたの言う通りよ。……笑っちゃうでしょ? 二百年前にあんなことがあったっていうのに、仲間が酷い目に遭ったというのに、私、またこの街で魔女として堂々と生きられる日が来たらって、どこかでそんなことを夢見ていたの」

 おかしいでしょ、とユイルは繰り返した。リッドは「そんなことないよ」とフォローしながら「どうしてそこまでこの街にこだわるか、僕にはまったく理解できないけれど」などとつい付け加えてしまう。

「でも、そういうことなんだろうなとは思っていたから」

 正体不明の調合屋として審査を受けると言ったときの会話を思い出す。人間と比べゆっくりと進む魔女の年の取り方を考えればすぐに無理が出ると指摘すると、ユイルは「今はそれでいいのよ」と言った。答えをはぐらかしただけだと思っていたが、それこそが本心だったのだろう。

 今はそれでいい。

 でもいつかは――!

 それがユイルの願いだった。

 そんな夢を抱いていた少女には、この街の今の姿は受け入れがたいものだっただろう。淡い期待の火を吹き消してしまうような景色が広がっているのだから。

「だから来たくなかったんだね」

「もちろんわかってはいたんだけど。でも実際に目にしなければ夢を見ていられると思っていたの」

「そうか」

 リッドがそう言ったとき、ユイルの目はもうリッドを見てはいなかった。リッドの後方、今二人で歩いてきた道を見遣っていた。

 リッドも振り返り、同じように路地の風景に目を遣る。

「目は覚めてしまった?」

 どこかの家の窓から真っ白な布が降ってきた。片手で掴めるくらいの大きさの布は頭にかぶるものであったか、それとも手を拭うものであったか。どうにもならない染みが残ってはいたが洗い立てのいい香りがした。

 リッドは上を向いて左右の窓を探った。

 右前方の建物、三階の窓辺で手を振る女の姿があった。その女はすぐに姿を消した。急いでこちらに向かったのだろう。

 彼女が降りてくる前に。

 リッドはユイルを見た。言葉にはしなかったが、もう一度視線で問いかける。

 ユイルは困ったように笑った。

「わからない。夢からまったく覚めてしまえば楽なのに、覚めるどころかさらに奥深くに迷い込んでしまったみたい。何にも見えなくなってしまったわ」

 表情とは裏腹に、彼女の声は切なく響いた。

 洗濯物が落ちてこなかったなら、それを取りに来た女が底抜けに明るい笑顔の持ち主でなかったら、リッドもユイルの感傷に引き摺られていたかもしれない。

 だから拾いに来た彼女が言うよりも早くリッドは「ありがとう!」と声を上げた。その声に白い布の持ち主とユイルが揃って驚いた顔になる。

「どうしたの?」

 何が起きたのかとユイルが目を丸くする。

 リッドは笑顔を作ってユイルの隣りに並んだ。

 もちろん、隣りに並んだだけでは終わらない。「えいや!」と強引に彼女の手をとった。

「次は僕の番だ」

 リッドは有無を言わさず、彼女の手を引いたまま走り出す。

「ちょっと! 急に何なのよ! 待ってってば! 私、そういう気分じゃないのに……それに、そんなに走ったらスカートが……ああ、見えちゃう――リッド!」

 リッドの足を止めようと、何だかんだと言葉を投げつけるユイル。しかしリッドはそのままうしろが静かになるまで走り続けた。


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