第31話 ―蒼緒― The Muzzle
上手く息が出来ない。熱風が肺を焼くようだ。だが、息が出来ないのは炎のせいなんかじゃない。
自分は死んだはずだった。だが、生きている。
逃げて、と叫んだ流唯の声が耳から離れなかった。愛する者を案ずる心からの叫びだった。
けれど、燃え盛る炎が思考を焼くみたいに上手く頭が働かない。ただ、血肉を焼く臭いに、流唯も流歌も救えなかったのだと知った。
――徒労だった。流歌の手を握りしめて、特機として人々の命を守りたいと思ったのに。独りよがりだった。誰も救えなかった。それどころか自分は――。
記憶に、ボタンを掛け違えたような破綻はない。思い出せない記憶もない。物忘れくらいはするけれど。おかしなところといったら、右目が見えなくなった事くらいだった。
それだって、事件現場近くの
そのうちにサナトリウムから退院して、医者と顔を合わせる事もなくなった。
それにあまりに
それに考えてみたら、人より耳も鼻もよく利いた。音や匂いのお陰で視界が狭い不都合もさほど困らなかった。索敵能力が高いのは、当たり前の事だったのだ。なにせ化け物なのだから。嫌な予兆を感じ取れるのも、動物の勘だったのかも知れない。
その割に身体能力が低いのは、元々の蒼緒の特性を模倣しているせいなのだろう。
こうなってみると、色々な出来事の符丁が合う気がした。
蒼緒を喰った後、衣蕗を喰わなかった事も。
……そりゃそうだよね。
その頃には既に、衣蕗に淡い恋心を抱いていたのだから。そう思うと、流唯を喰わなかった流歌の――〈狼餽〉の気持ちがわかる気がした。
化け物の気持ちがわかるなんて、やっぱり化け物なのかな?
……椎衣那中佐もそう言っているし。
けれど、この手はあの小さな手のぬくもりを覚えている。お姉ちゃんが大好きだと言って繋いだ手を。その手を握って、守りたいと思った気持ちも。……そう思った――はずなのに。でも現実は〈狼餽〉になった彼女に殺されちゃった。……自分が『ご馳走』だったから。
……………………怖い。
殺された事がじゃない。
自分もいつか、〈狼餽〉になって、誰かを食べちゃう事が。こんなに皆が大好きなのに、食べちゃうのかな?
この記憶も感情もただの擬態で、模倣に過ぎないのかな。
怖くてたまらない。誰か言って欲しい。食べたりしないって。大丈夫だよって。――化け物じゃないって。
視線を上げると、
ただもう、生きていては駄目な気がした。流歌だった〈狼餽〉は焼かれてしまった。……多くの〈狼餽〉と同じように。〈狼餽〉は生きていては駄目なのだ。
それに何より――
衣蕗はもう、庇ってはくれない。さっきまでは庇ってくれていたのに。彼女も色々な出来事の符丁が合ったのだろう。なにせ幼い頃からずっと一緒にいたから、互いに知らない事なんてほとんどない。……知らないのはきっと、隠していた右目の事ぐらいだ。
彼女を裏切ってしまった気がした。蒼緒を守ると言ってくれていたのに。――化け物だったなんて。
ごめんね。私は貴女が
涙があふれた。泣く資格なんてないのに。私は貴女の友達を食べた化け物だった。
――化け物は、どれだけ上手く人間を真似ても、化け物だってね。
椎衣那の言葉が思い返される。その通りなのだろう。
ただ、ひとつだけ不思議に思う事があった。……いや、もうどうでもいいか。人間ではないのだから。
私は――本当の篠蔵蒼緒を喰った私は、死ぬべきなのだ。
椎衣那の指が、引き金をなぞるのが見えた。力が込められる。
けれどその時、衣蕗が口を開いた。
だがその目は誰のことも見ていなかった。――蒼緒の事も。
その声は震えていた。
「……待って下さい、中佐。……でも、蒼緒は、人間を喰ったりしていません。私と一緒にいた間、――ずっと」
椎衣那が目を細めた。
「――この戦闘で嫌でもわかっただろう? 〈狼餽〉は人を化かすって。化かされた結果がこれだ」
「わ、私は化かされたりしていません! ずっと一緒にいたんです! 襲われる前からずっと!」
気がつくと、衣蕗に手を握られていた。――痛いくらいに。
でも、握り返せない。握り返していいのかもわからなかった。
けれど、急き立てられるように、衣蕗が叫ぶ。
「本当です! 蒼緒は人を喰ったりしません! ずっと一緒だったんです! 子供の頃からずっと!」
胸が熱い。涙があふれた。
その手を衣蕗が握り締める。痛いくらいなのに――嬉しかった。
涙で声が震える。けれど懸命に口を開いた。
「あ、あの、椎衣那、中佐。……ほ、本当です。た、食べて、ません。食べた記憶なんてありません。……た、食べたいとも、思いません」
それは、――それだけは本当だった。失明と違って、嘘なんてついていない。蒼緒がさっき不思議に思ったのはそれだった。捕食衝動がない。〈狼餽〉であるなら、それは変だ。
椎衣那が口を開いた。銃口は下げない。
「……仮にそうだとして、一つ考えられるのはそもそも〈女王の
「そんな……! そんな事ありません!」
「〈花荊〉は〈吸血餽〉ほど制約はきつくないし、休日には外出だって許可されている。その合間に喰う事は出来るだろう? 〈花荊〉になる前なら、それこそいくらでも自由はあっただろうしね。下世話な勘ぐりをすれば、服を脱いでから変態して喰って、身綺麗にしてまた服を着れば、証拠は残らない。……だろう?」
「そんな……!」
蒼緒は言葉に詰まった。証明出来るものはなにもない。自分の記憶だって信じられなかった。自分の記憶は模倣でしかないのだ。もしも都合の悪い記憶は「忘れた振り」をしているとしたら?
「これは覆らない。篠蔵蒼緒に擬態する〈狼餽〉は殺処分にする」
「っ、」
蒼緒も衣蕗も震えた。怖い。
衣蕗が蒼緒を力任せに引き寄せた。痛いくらい抱き締めて、それから椎衣那に向き直った。
「やめてください! 蒼緒は! 仲間でしょう?」
「……私はね、これでもそれなりの期間、現場で戦って来たんだ。人間に擬態した〈狼餽〉を倒したのも初めてじゃないよ」
「……やめて」
椎衣那の言葉を雪音が止めた。
後方では澪が顔をしかめていた。炎の照り返しを受けながら。
雪音が言う。絞り出すように。
「やめて。そんな事、言わなくていい」
「言わないとわからないだろう? 私はね、前の〈花荊〉が〈狼餽〉に喰われたんだ。目の前で、バリバリと。骨が砕ける音もこの耳で聞いた。悲鳴すら上げられずに彼女は死んだ。私がヘマをして、彼女が前線に上がって来てしまったために。それから何が起こったと思う? 奴はね、擬態したんだよ、彼女の姿に。私の〈花荊〉の姿に! そして襲って来た。……私はね、〈花荊〉の姿をした〈
「やめて! 違う! 貴女は私を庇ってくれたの! 新人で何も出来なかった私を庇って! 私がやるべきだった! でも出来なかった! 怖かったの! だから貴女が――……」
雪音が泣き出す。あの気丈な雪音が。
椎衣那は唇を噛み締めた。
「……それでこの体たらくだよ。目も、身体も大怪我しちゃってね。……いまだに銃を持つと手が震えるよ。それでお払い箱になって、配属されたのが内部監査部だ。スパイだ。こそこそこそこそ皆の事を嗅ぎ回ってるクソ野郎だ」
「違う……。貴女は……っ」
雪音の声は、涙で声にならなかった。うわ言のように違うと繰り返す。
椎衣那は続けた。
「……実を言うとね。私と雪音は従姉妹なんだ。ま、従姉妹と言ってもうちの家格は花總の下の下だけれどね。花總の末の息子がどこぞの下級華族の娘を孕ませてね。それで産まれちゃったってわけ。……で、私の方が先に発症して、その後数年したらなんと雪音が発症して軍に接収された。花總は家系から二人も〈吸血餽〉が出て、あまりの外聞の悪さに、二人とも病気で死んだ事にされたよ。……で、私から上に言って同じ班にしてもらったんだ。花總の御本家の御息女様にいっちょ御指導してやろうかなって腹づもりでね。……そうしたら、いざ出撃してみたら〈花荊〉の一人は喰い殺された上、〈吸血餽〉も戦闘不能の大損害。……ひどいもんさ」
それを聞きながら、雪音は泣いている。
椎衣那は彼女に言いかけた。
「私は――……」
けれど、そのまま口をつぐんだ。
蒼緒も衣蕗も言葉を失った。
誰も何も話さなかった。
その間、母家も蔵も燃えていた。柱や家財が燃え、時折大きな音を立て、どこかが崩れる音がした。
そして〈女王餽〉も流唯も燃えた。異臭が鼻を突く。
……どこで何を間違えたんだろう?
あの日、ピクニックに行かなければ良かったのかな? そうしたら〈狼餽〉に食べられなかったのかな。
ああでも、そうじゃない。
私は、――いや、偽物じゃない本当の私も、産まれた時から半分化け物なんだ。
――最初から、産まれて来るべきじゃなかったんだ。
ねえ、でも。
椎衣那中佐。
私、気づいちゃったんです。貴女が私に向けた銃は、最初から
貴女が現場にいた頃は優秀な軍人だったと聞いていました。撃つつもりの銃にセーフティがかかったままなんてあり得ないですよね。
蒼緒は、立ち上がった。
「……蒼緒?」
衣蕗が声をかけるが、振り向かず歩いた。椎衣那の脇を通り抜け、そして彼女が置いたサブマシンガンを拾い上げた。
間違いなくセーフティを外した。
そしてこめかみに銃口を当てる。手が、とうしようもなく震える。
「……蒼緒っ!」
――きっと、こうするのが正しいのだ。だって私は
指先に力を込めた。
――パン、と乾いた銃声がして鮮血が吹き出した。
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