第32話 ―衣蕗― The Last Wish

 衣蕗いぶきは弾かれたように走った。心臓が痛んだ。切れた胸の傷痕も痛い。

 蒼緒あおの持つサブマシンガンの本体レシーバーを力一杯掴むと、その瞬間銃声が鳴った。弾は蒼緒の額を掠めた。鮮血が飛沫く。そのまま取り上げる。その手は、――蒼緒の手は震えていた。糸が切れたように彼女がその場にくずおれた。

 

「うぁっ、あ、あ、あ、ぁぁぁぁぁああああっ」


 蒼緒が慟哭した。額の傷が見る間に塞がって行く。

 衣蕗は心臓が壊れるかと思った。ドッドッドッと痛いくらいに早鐘を打つ。二度も彼女を――いや、三度も彼女を失うなんて嫌だった。そんなの嫌だった。

 

「なんでそんな事するんだよ!」

 

 怒りを込め、声の限り叫ぶと、びくりと蒼緒の身体が震えた。

 

「っ、ごめ……なさ、わた、私っ、……っ私っ、どうしていいか、わからなっ……っ、て。わた、し、忘れてるだけかも。ぎ、擬態してるから、食べても、忘れた振り、し、してるだけかも知れない……っ」

「そ――」

 

 ――そんなはずないだろ、とは言えなかった。蒼緒の涙に涙が込み上げる。歯を食いしばって嗚咽を飲み込む。

 確たるものは何一つない。

 信じていると言ったところで、なんの慰めにはなりはしない。

 それでも――


 蒼緒は、蒼緒だ。


 それだけは誓って言える。

 

 ずっと一緒にいた。ずっとずっと。――彼女がたとえ〈狼餽〉だったとしても。十二年ずっと。彼女が喰っていないと言うのなら喰っていないと信じられた。

 

 十二年前のある日、衣蕗は母親に捨てられた。たくさん叩かれたりもしたけれど、それでも衣蕗は「お母さん」が大好きだった。だけど、ある日唐突に芝居小屋の前に置き去られた。それ以来母親に会った事は一度もない。

 日が暮れてお巡りさんや知らない大人に色々な場所をたらい回しにされ、怖くて寂しくて不安でたまらなくて、手を引かれるままに歩き続けて真夜中に養護施設に預けられた。あの日から。誰とも口を利こうともしない自分の側で、つかず離れずいてくれたあの日から。

 ずっとずっと。

 蒼緒は蒼緒だ。

 泣いてばかりだった衣蕗のそばに、一晩中いてくれた。大人たちみたいにどうしたの、お母さんはどこ行ったのなんて聞かない、困った顔もしない。ただ小さな縫いぐるみを近くに置いて、一晩中そばにいてくれた。目を覚ました次の日、二人で大風邪を引いた。

 その後、彼女が養護施設の前に捨てられ、母親の顔さえ知らない事を知った。

 寂しくて不安でたまらなかった自分を助けてくれたように、今度は自分が蒼緒を救いたかった。

 だから、サナトリウムのベッドで、蒼緒が目を覚ました事がどんなに嬉しかったか。衣蕗ちゃん、っていつものように名を呼んでくれたのが、どんなに嬉しかったか。

 森で襲われてからの日々だって、彼女は彼女だった。

 棒切れを振って剣術の師範せんせいになると誓った日だって、蒼緒は笑わなかった。衣蕗ちゃんすごいね、衣蕗ちゃんなら絶対なれるよって、言ってくれた。その時は、蒼緒を守るためだとは恥ずかしくて言えなかったけれど。それでも初段に合格した日そう告げると、泣いて喜んでくれた。

 そうだ。庭に落ちていた棒切れを振ったあの日から、剣を握る理由は変わらない。


 ――今度は私が蒼緒を守る。

 

 衣蕗は膝を着くと蒼緒を強く抱きしめた。

 〈狼餽〉かどうかなんて関係ない。


「大丈夫だ。蒼緒は蒼緒だ。蒼緒は私が守る」


 そう告げた。

 そう告げて、サブマシンガンを握り直した。立ち上がる。こんなにも銃が重いと感じたのは初めてだった。

 顔を上げて椎衣那を見た。出会ったその日から変な上官だと思った。ヘラヘラ笑ってばかりで、とても上官とは思えなかった。雪音も紗凪も、なんでこんな上官をかばうのが理解できなかった。

 今日、その理由がわかった。――もう遅いけれど。

 いや、遅いかどうかは関係ない。


「中佐、」


 衣蕗はゆっくりと銃口を上げた。椎衣那に向けて。そうする事が正しいとは思えない。でもそうするしかなかった。蒼緒を――〈狼餽〉を退治すると言うなら。

 

 ――だが、

 椎衣那に向ける前に、銃ごと後ろから抱きしめられた。自分よりもずっと細く弱い腕に。

 

「衣蕗ちゃん、だめだよ。そんなもの人に向けちゃ」


 ああ、やっぱり、

 

「っ、蒼緒、だって、……椎衣那中佐は蒼緒を……っ、」

「……だめだよ。私は衣蕗ちゃんにそんな事して欲しくない」


 その声は震えていた。震えているくせに。

 奥歯を噛み締めた。ぼたぼたと涙が落ちた。感情の行き場がない。怒りなのか悲しみなのかそれすらもわからない。ただ涙がぼたぼたと落ちて行く。

 やっぱり、蒼緒は蒼緒だ。

 食いしん坊で、運動音痴で、――だけど、優しくて。ばかみたいにお人好しで。

 こんな時にまでお人好しにならないでいいのに。

 

「……っ、蒼緒……。じゃあ、どうすればいいんだよ! 嫌だ!蒼緒を死なせたくないっ!」


 誰も答えなんて、正解なんて出せない。

 衣蕗は銃を落とすと、蒼緒を抱きしめた。血で濡れた外套が冷たかった。どんなに抱き締めてもあたたかくならない。冷たくなるばかりだった。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。


「……衣蕗ちゃん、ごめんね。私……〈狼餽〉で。……私、いつも肝心なところで、失敗ばっかりで皆んなに迷惑かけて。…………ごめんね」

「っ、失敗じゃないだろ! あの時、私がちゃんと蒼緒を守れなかったから! っ、だから……っ、」

「ううん、衣蕗ちゃんは守ってくれた。ありがとね、庇ってくれて。私、本当に嬉しかった」

「蒼緒……っ、どうすれば、いいんだよ」


 きつく抱き締めた。でもどうすればいいかなんて何もわからない。椎衣那中佐が悪くない事だってわかってる。彼女を撃って逃げたところで、逃げ場所なんてないのもわかってる。鬼ごっこの本当の鬼は軍そのものだ。逃げおおせるはずがない。――自分が、〈吸血餽〉として発症して、軍を選んだのと同じように。軍という箱庭から逃げたところで、生き延びられる場所なんてどこにもない。

 殺処分か、あるいは人体実験か。そうなるに違いなかった。


「うあ……っ、ぁぁぁぁぁぁああああああああああっ」


 さっき、涙も声も枯れたと思ったのに、涙が止まらなかった。蒼緒も身体を震わせて泣く。

 ――どれほど泣いたのかわからない。

 不意に足音がした。ゆっくりと近づいて来る。椎衣那の足音ではない。聞き慣れた足音だった。

 近づいて、止まって。

 何かを拾い上げる。すぐに銃だとわかった。さっき衣蕗が取り落としたサブマシンガン。

 衣蕗は固く目を閉じた。まなじりの涙を落とし、ゆっくりと顔を上げた。


「……………………雪音」


 顔を上げると、雪音が立っていた。サブマシンガンを手にして。

 泣きはらしていた。こんな雪音の顔は見た事がなかった。

 彼女が振り向いた。

 視線の先には紗凪がいた。

 紗凪は雪音を見つめたまま、否定も肯定もしなかった。でも、決して目を逸らさなかった。

 雪音が口を開いた。


「……私が」


 そう言って、一度セーフティをかけ、弾倉を抜いて残弾をチェックした。チャージングハンドルを引いて、薬室に弾が装填されているのを確認する。

 ――その手は震えていた。

 銃を手にして震える雪音なんて見た事がなかった。冷静な彼女しか見た事がなかった。

 セーフティに指をかけ、徐々に彼女の呼吸が荒くなる。彼女を見て、蒼緒が言った。


「雪音さん、……ごめんね。わ、私が自分で、で、出来ればいいんだ、けど、こ……怖くて。…………あ、ありがとう」

 

 声も身体も震えていた。衣蕗はその身体を抱き締めた。ありがとうなんて言うな。言わないで。守りたいのに守れない。守る術なんてない。雪音は悪くない。叫ぶ。

 

「待って! 待って、雪音。待って、お願いだから、待って……! 待って、待ってよ……!」

 

 しゃくり上げて上手く声が出ない。

 わかってる。雪音は衣蕗には決して引き金が引けない事を理解して、だからこそ代わりに銃を手にしたのだ。わかってる。そんなのわかってる。

 きっと立場が逆なら自分だって同じようにしている。……相棒だから。入隊した時から一緒に戦って来た、先輩で相棒だから。


 衣蕗は蒼緒を強く抱き締めた。衣蕗には蒼緒は撃てない。でも、その代わりに。

 

「――私も、すぐに逝くから」


 蒼緒が小さく息を吐くのがわかった。

 不意に蒼緒が言った。


「雪音さん、少しだけ、待って、……くれる?」

「……ええ」

「……衣蕗ちゃん、一つだけ……ううん、二つ、お願い聞いてくれる?」


 蒼緒が顔を上げてそう言った。衣蕗も顔を上げる。――なんでも聞く、そう思いながら。


「……何だ?」

「あのね、もし聞いてくれるなら、…………一度でいいから、」


 

 ――キス、してくれる?


 

「……え?」


 驚いた。

 ……キス?

 

「っ、い、嫌なら、いいんだけど。ご、ごめんね、変なお願いし――」


 蒼緒の頬に手を触れた。やわらかくて、あたたかい。

 彼女が驚いた顔をした。


「……嫌なわけないだろ」


 囁いて、顔を近づけた。


「衣蕗ちゃ、」


 近づけた唇に、彼女の吐息を感じた。嫌なはずない。吐息ですらこんなに――……愛おしいのに。


「……蒼緒」

「いぶ――」

 

 そして、生まれて初めてのキスをした。唇が触れ合う。

 ……ほっぺたよりもっとやわらかくて、あったかい。

 ……でも、涙でしよっぱかった。

 ……でも、


「好きだ、蒼緒」


 好きだと思った。

 

 でも、好きだけど、もう、――最後で。

 涙があふれた。泣きたくないのに。もっと蒼緒の顔を見ていたいのに。


「……もっと早く、蒼緒の気持ちに気づいてやれば良かった。……気づきたかった」


 そう言うと、蒼緒の瞳からも涙があふれた。

 言われて初めて気づくなんて、ばかだ。誰よりも一番大事に彼女を想っていたのに。誰よりも一番大事に想っていてくれたのに。自分の気持ちにも、彼女の気持ちにも、ずっと気づきもしないで。


「……ごめん」

「……ううん、衣蕗ちゃん、ありがとう」


 それからはにかんで蒼緒が言う。

 

「大好き、だよ」


 ――可愛いと思った。誰よりも。猫っ毛の金髪も、大きな丸い青い瞳も、やわらかな唇も、ふっくらした頬も、華奢な肩も、細い腕も、薄い腰も、全部。


「私も大好きだ、蒼緒」

 

 それからもう一度、触れるだけのキスをした。


 衣蕗は、言われる前からもう一つのお願いが何かわかっていた。ずっと一緒にいたんだからそのくらいわかる。


「もう一個のお願い、私には死ぬなって言いたいんだろ? ……でも、一人じゃ聞けない」

「え?」


 衣蕗は顔を上げた。蒼緒を伴って立ち上がる。

 真っ直ぐに椎衣那を見つめた。


「椎衣那中佐。私は私の命に――、生涯賭けて誓う。蒼緒は人を喰ったりしていないし、これからも喰ったりしない。〈女王の嬰児〉が何かはわからないけれど、少なくとも蒼緒が特別な〈狼餽〉だって言うなら、これからだって喰わない可能性があるはずだ。万一の時は、その時は私が――止める。絶対に。今の、雪音みたいに」

 

 雪音を見つめて、頷き合った。

 そしてもう一度、椎衣那を見つめた。


「だから――」

 

「……だから、蒼緒ちゃんを生かしてくれって?」


 椎衣那の言葉に衣蕗は頷いた。

 蒼緒は表情を固くしている。その肩をぎゅっと抱いた。


 椎衣那が口元を歪めた。

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