第28話 ―椎衣那― Burst into Flame

 椎衣那は、異臭と、流唯が燃え上がるのを見て、掛けた液体がエーテルだと察した。ジエチルエーテル。吸入液体麻酔薬だ。揮発させた気体を患者に吸わせて肺を満たし、眠らせる。鎮痛作用があり、手術でもよく使用されるが、引火性が強いのが難点だった。

 

「澪、雪音! 水を!」

 

 流唯の火を消さねばと、外套を脱いで彼女の着物を叩いたが、〈女王餽〉がガソリンまみれだったために、あっという間に炎に巻かれた。外套も燃える。まるで消火しようとする椎衣那を拒むように。

 

「この子は……ぁ、流歌よ。私のぉ……流歌ぁ」

「っ!」

「――――」

 

 炎に巻かれながら彼女は微笑んでいた。重荷を下ろした顔だった。

 

「……くそっ」

 

 雪音がかめに溜められていた水を桶に移して駆け寄ろうとしたが、それを手信号で制止した。最早消火は不可能だった。

 それに、……燃える流唯の姿を雪音に見せたくなかった。

 

「……くそっ」


 それで、察した。

 ここはやはり、〈女王餽〉の巣だったのだ。

 以前から、蒼緒たちのように餌として人間をおびきよせ、姉妹だけの村だと安心させておき、人間を喰っていたのだ。

 時に姉がエーテルを使って人間を眠らせていたのだろう。今回もそのつもりだったが、しくじった。

 なにせ対狼餽部隊が相手だったのだから。


 ――蒼緒は流唯が〈狼餽〉になったと言っていたが、恐らく見間違えたのだ。流唯に呼び出され、その後を流歌が追い、流唯の影に隠れたまま隙をついて〈狼餽〉に変態した。それを流唯が変態したと、勘違いしたのだ。

 

 それと、落ちていたもう一つの薬品瓶に目をやる。塩莫――モルヒネだ。

 姉は病気だと聞いた。持っていた注射器といい、こちらは恐らく自分に打っていたのだろう。今となっては何の病に冒されていたのか診察すらしてやれないが、末期だったのだろう。麻薬で痛みを紛らわせねばならないほどに。

 今も、モルヒネを接種した後だったのだろう。彼女の表情に、炎への恐怖は感じられなかった。恐らくは、〈狗モドキ〉を流歌と思い込んだのも、モルヒネの影響が作用していたのかも知れない。

 椎衣那が刺された注射器にも、元々はモルヒネが入っていたのだろう。と言っても刺されたのは空の注射器だったが。


 風向きのせいで、炎が母家に引火する。防ぎようがなかった。

 木造の母家はよく燃えた。雪音が紗凪の身体を支えて母家から距離を取った。

 

 衣蕗は呆けていて立ち上がれない。

 澪は、母家から距離を取りながら、衣蕗たちを見守っていた。その目は、椎衣那がサブマシンガンを拾うのを見て、――混乱していた。どうして椎衣那が衣蕗を――と。


 椎衣那は改めて銃口を衣蕗に向けた。

 そう、我々は対狼餽特務機攻部隊――野犬殺しストレイドッグ・カーネイジだ。

 化け物は退治しなくてはならない。――絶対に。――例外なく。これまでそうして来たのだから。


「衣蕗、そいつから離れるんだ」

 

 もう一度、繰り返した。

 ビクリと衣蕗が肩を震わせる。銃への恐怖からではない。混乱からだ。

 そりゃそうだろう。いきなり上官から銃口を突きつけられたら。

 

「そ……そいつって、なんだよ……。あ、蒼緒の事、ですか? 何でですか、中佐。蒼緒は……」

「離れるんだ、そいつが目を覚ます前に」

「…………は?」

 

 衣蕗が腕の中の蒼緒を見た。――死んでいる。

 再び衣蕗がこちらを見た。

 何を言っているのか理解出来ない顔をしている。

 椎衣那は銃口を逸らし、衣蕗の足下に威嚇射撃をした。乾いた発砲音が響く。

 

「……その死体を置いて、離れろ、二ノ宮大尉。これは上官命令だ」

「……気でも触れたんですか、ちゅ――」

「離れろぉ!」

 

 再び連射で威嚇射撃する。びくりと衣蕗の身体が震えるのがわかった。だが、彼女は死体から離れない。それどころか蒼緒を庇うようにして、抱いたまま半身になる。


 ああ、畜生。

 このまま、事が済めば良かったのに。

 なんでだ。

 なんでいつも上手くいかないんだ。いつもいつも!


 グリップを握る手に力を込めた。

 とにかく、首を斬り落とすか脳を破壊しなければならない。くそ。吐きそうだ。このくそったれな世界のせいで。

 脳だ。脳を撃たなきゃならない。片目の椎衣那では精密射撃は出来ない。至近距離で撃たなければ。


 椎衣那は一歩踏み出した。衣蕗が警戒するのがわかった。けれど彼女は丸腰のはずだ。日本刀は〈女王餽〉を殴りつけたせいで根本から折れている。おまけにそのつかは離れたところに落ちている。

 胸糞が悪い。心臓が早鐘を打つ。

 引き金にかけた指に力を込めた時だった。恐れていた最悪の事態になった。


 蒼緒だった死体が動いた。



          *


 

 くそったれ。


 衣蕗が目を見開く。彼女の腕の中で、死体が動く。

 いや、もう死体じゃない。折れたはずの首が元に戻っていた。血まみれの手が宙を掴み、そして。


 目が開いた。


「……っ、」

 

 衣蕗が息を飲む。

 

「あ……蒼緒……?」

 

 だが、呼びかけに返事はない。その目はうつろだった。わずかに眼球が動くが、意志や生気は感じられない。

 椎衣那はその目を見た事があった。

 吐き気が込み上げる。

 くそったれ。本当にこの世界はくそったれだ。

 

「わかっただろう、衣蕗。彼女は――それは、人間じゃないんだよ」

 

 衣蕗の肩がビクリと震えた。

 

「人間じゃ――ない?」

「そうだ。言っただろう、治療は意味がない、って」

 

 衣蕗が目を見開いた。

 

「……っ、」

「それは、人間じゃないんだよ、衣蕗」

「そんな……っ、なんで……っ、」

 

 彼女は混乱し、到底受け入れられそうにない。だが、これが現実だ。

 

「そこをどくんだ。それは、生かしてはおけない。わかるだろう?」

 

 ビクリと震える。

 

「……っ、な、なんで……っ、なんで、中佐……」

 

「それは、化け物なんだ」


「っ、」

 

 ――化け物。

 自分たちが最も嫌う言葉だ。散々投げかけられて来た言葉だから。

 吐き気が止まらない。

 

「わかったなら、手を離して下がれ。退治する」

「……っ、嫌だ! 蒼緒を退治なんて……!」

「衣蕗!」


 彼女の名を叫んだ時、蒼緒の目がギョロリと動いた。

 生気は感じられない。

 口を開く。あ、あ、と言葉にならない声を発する。

 

「あ……蒼緒……?」

 

 手が、動く。不安定な動作で動く。

 そして、

 身体を抱いた衣蕗の肩に手がかかる。

 ゆっくりと蒼緒だったものの口が開いた。――衣蕗の喉笛に喰いつこうとして。


「衣蕗、逃げろ!」


 椎衣那は走り出しながら、サブマシンガンのトリガーにかけた指に力を込めた。――が、飽くまでも衣蕗が蒼緒を庇う。

 

「くそっ!」

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