第8巻 わすらるる
皇子が順調に育ってきた頃、表使いが葵の元を訪れた。
「葵様にお便りがまいっております。故郷で、集まりをするため、ご来訪されたし、とのことでございます」
「集まり?」
「田上様」と浦安は小声で言った。
「なんでしょう」
「田上様これは、お断りをするのが慣例です」と浦安。「その言質を取りに、表使いは来たのです」
「でも、久しぶりにお会いしたい気持ちも」
「何を申されますか。故郷ということは、どのような身分のものがおられるかわからぬのです。中宮となられたからには、みだりに下々の者にお会いすることは相成りませぬ」
「といいましても」
「十二分にわかって、西丘へとやってこられたのでしょう」
「聞かなかったことにいたします」と表使いは言うと下がっていった。
「え……」表使いの言動を葵は理解できなかった。
「つまり行って良いということです。お忍びで」と浦安は説明した。
故郷に帰るのは何年ぶりのことかわからなかった。牛車で二時間も離れていたが、その苦労はまったくいとわないくらい、心が躍っていた。
場所は故郷のお寺。参加者は皆、礼節を守ってはいたが、西丘のものほど堅苦しくない。中宮、葵が来ると聞きつけたからか、大勢の人が集まった。
「いや、うちらの中から宮様が出られるとはね」、「ほんと、故郷の誉れだわ」と人々は葵に酒をついで回った。
その日は綺麗な月だった。酒で場があたたまって来た頃、酔い覚ましに、葵は縁側へと出た。そこには長谷部都人と、親友の中野芽依がいた。芽依は、西丘よりは少し身位の低い、岡崎の館で、女中をしていた。
「故郷の誉れです」と長谷部は葵に言った。
「自慢です」と芽依は言った。
月を見ながら3人は酒を酌み交わした。
「やはり、故郷は落ち着きますね」と葵は言った。
「行きたくて西丘に入ったとはいえど、やはり肩身を狭く感じることがあります」
「中宮様でもそうですか」と長谷部は言った。
「ああ、あの時代に戻れたらいいのに」
葵は思わず本音を滑らせた。月がきらりと光った気がした。葵はまっすぐ庭を見つめながら言った。
「思い出した」
「僕も」
「私は前から」と芽衣。
思い出した。あの頃を。そう、本来、葵は高校生であったことを。それがいつからか、このような生活に変貌を遂げたことを。葵はセーラー服を着て女子校の西丘高校に、長谷部は学ランを着て、男子校の東野高校に通っているはずだった。それが今やなぜか平安装束を身にまとい、身分社会の中、携帯一つない生活をしている。
「え、いつから」と葵。
「わからない」と長谷部。
「私もわからない」と芽衣。「女官の仕事が忙しかった時に、やめたいって強く思った時があったの。あの頃に戻りたいって。ちょうど一年前くらいの頃かな。その日も月が綺麗で、その時、私は思い出した」
「周りに結構いるのかな、気づいてる人」
「いたとしても聞けるか?」
「かまかけたりとか」と葵。
「私たまにしてるよ」と芽衣が言った。「月だよ。昔を覚えてない人は、望月っていう。思い出した人は、満月って言う」
「満月、そういえばそうか。平安時代は望月って言っていたんだっけ。周りにいたかな、満月って言った人」
葵は必死に探した。
呆然としたまま西丘へと帰った。赤石が葵の寝床の準備をして待っていた。
「おかえりなさい、ませ。どうなさいました?」と赤石は困惑した表情で言った。
「今夜の月は、満月ですよね?」
赤石は一瞬驚いて、時が止まったように動かなかった。そして、その場に泣き崩れた。
「そうですよね、まあやちゃん」
「いつからお気づきに?あ、いや、いつ気づいてた?」
「たった今、思い出した。まあやちゃんは?」
「2年前くらいかな」
「ちょうど私が御髪下ろしとなった頃」
まあやは泣きながら頷いた。
「ありがとう。高校の頃から、まあやちゃんとは、ずっと仲良かったもの。それで、私を守ってくれていたのね」と葵はしゃがんで、まあやの肩を抱き寄せた。
「だって、4位様って藤本ゆうひちゃんでしょ?スクールカーストのトップオブトップ。あの仲良しグループのリーダーに勝てるわけないんだもん。すごく心配だった」
そういえば、中園も藤本ゆうひと同じ仲良しグループだった。
「まあやちゃん、これからは友達としてよろしくね。他にもいるのかな、気づいている人」
まあやは涙を拭った、
「怪しいのは、その4位様よ。藤本ゆうひちゃん」
藤本ゆうひは、校内で権力を持った子だった。可愛くて優秀なゆうひに誰もがついていったし、ゆうひに嫌われまいと皆必死だった。もちろんスクールカーストの中の下くらいの葵は、ゆうひと当時全く縁がなく、その名を知ってるくらいで話したこともなかった。
「ゆうひちゃん、茶器割ったでしょ。そんなこと、この時代の人は絶対にしない。それに、一時期記憶喪失と言っていた。怪しすぎるよ。だから私、あの子にかまかけたことがあるの。ちゃんと満月と答えていた」
葵は、すぐさま藤本ゆうひを呼び出した。突然の夜中の呼び出しにゆうひは困惑していた。葵は御簾を下げずに着座して待っていた。皆下がらせたうえで、葵のそばで控えていたのは浦安ではなく赤石だった。ゆうひはその異様な光景に顔をしかめた。
「夜分遅くにどうなさいましたか?」とゆうひは恐る恐る言った。葵はふっと息を吐くと、決意を固めて言った。
「ゆうひちゃん」
時が止まったようだった。藤本ゆうひはじっと葵を見つめ、そして、肩を震わせて泣き出した。その泣き方はまさに平安貴族といったもので、昔を覚えているにも関わらず、しぐさが板についていた。これならば誰もゆうひが怪しいと勘ぐることもできまい。
「孤独で、ずっと」ゆうひはやっとのことで声を絞り出した。
「いつからですか?」と葵は言った。
「はじめから」
「はじめ?」
「あの日、私は生徒会の仕事で地下の倉庫にいたの。すると突然黒い煙に包まれた。気がつくと、私は長袴に袿を着ていた。それから事の次第に気がついた。初めは冗談だと思ったし、夢だとも思った。でもこれは現実だと日が経つにつれて思い知らされた。記憶喪失ということにして、必死に図書室で勉強して、なんとかこの時代に慣れようとしてた。気がつくと。私は順応をはじめた」
「順応?」
「平安貴族になりきった。そんな自分を抑えられない時期もあった。ちょうどあなたをいじめていた頃よ。そんな自分がずっと怖かった」
ごめんなさい、ごめんなさい、とゆうひは泣き叫んだ。葵は下座に降りると、ゆうひをそっと抱きしめた。
「ゆうひちゃん、ずっと寂しかったのよね。秘密を一人で抱えるなんて孤独なことだよ。本当に、ありがとう」
「葵ちゃん、私を許してくれるだなんて、優しいのね」ゆうひは起き上がった。「でも葵ちゃん。簡単に声をかけちゃだめよ。敵がどこに潜んでいるかわからない」
「敵?」
「だって思わない?この時代を作り出した敵がいるに違いない。私はずっとその仮説を立てて戦っていた。申し訳ないけど、突然御髪下ろしになって、寵愛を得て、中宮になったあなたを疑っていた。違うとわかったのは、あなたに挨拶に行った時。私を警戒するあなたをみて、あなは黒幕ではないと確信したの」
「誰かが意図してこの時代を作り出したってこと?」
「そうよ。それもとても近くにいる。だっておかしいじゃない、名古屋が首都だなんて、そんなわけないでしょ。首謀者は権力を持ちたかったのよ。だから敵は確実に名古屋内にいる。もっというなれば、御所ね」
「もしかして、金山悠生?」と葵は言った。
ゆうひは頷いた。「それ以外説明のしようがない。まず、微妙に、平安時代という設定からずれている。江戸時代の慣習とか、そういったものが入り混じっている。だからたぶん、この世界を作り出したのは、専門家ではない、子供なんだと思う。それに、高校生が帝って変じゃない?だからたぶん、犯人は高校生。最後にこれはほぼ確定的なことなんだけど、勉強の人が身分の高い世界って、頭の良い人しか思いつかない設定でしょ。だから、東野高校の金山君って説が一番正しいのかなって」
「でもなんのために?」
「さぁね。本人に聞いてみないと理由はわからない」そういうと、それ以上ゆうひは何も言わなかった。
「金山だけなのかな?」と赤石は言った。
「というと?」とゆうひ。
「だって、黒い煙を見たのは、ここ西丘でしょ?そして、その現場にいた、ゆうひちゃんだけが記憶が残っている。ということは、世界を作り替えた犯人は西丘にもいるのでは?」
「確かにそうね」とゆうひは言った。
それから葵は赤石、ゆうひと昔語りをした。
「野本ゆうこちゃんはたしかに頭良かった。中宮かぁ。成績1番とか2番だったもんね」
「高校の頃からあの子はミステリアスだったよね。ゆうこちゃんが三位に落ちてもついていったあの女官って、高校でもゆうこちゃんと仲良かった子だよね。時代が変わっても、人は変わらないね」と赤石。
時代が変わっても、という言葉がなんだかおかしくて、葵は笑った。
「次に、二位尼様の、のばらちゃんね、あの子高校の時は勉強ばかりしているか、図書委員の仕事してるかっていう、おとなしい子ってイメージだったなぁ。尼様になるのか」とゆうひ。
「なんか野本家の因縁で尼になったとかのばらちゃん言ってたな」と葵は言った。
「中園は、たしかに6番くらいかも」とゆうひは言った。
「私、中園と塾一緒だった。あ、だから寺子屋一緒だったんだ。よくできたつくりだね。なんなら金山も塾一緒だったよ。飛び抜けて頭よかった。右大臣の東雲くんも、賢かったし、女好きだった。うん、前の時代とほとんど変わらない」ふと、金山と奈良に行った時を思い出した。記憶を取り戻した今だと、突然、金山を気持ち悪く感じた。
「この世界を終わらせましょう」とゆうひは唐突に言った。
「敵もわかった。味方もわかった。この世界を作れたのだから、きっと元に戻す方法もあるはず。金山なら、その方法をきっと知っている」
「仲間が必要ね」と葵。「今日の同窓会、同じく思い出した人2人と出会った。しかも1人は東野にいる」
ゆうひは笑顔で頷いた。「この際言うけれど、提案があるの。葵ちゃん、あなたへの提案よ。帝を譲位させて、あなたの子を即位させましょう。そうすればしばらくはわたしたちもここにとどまることができる」
「譲位」
「実は、関白様から提案を受けていたの。秘密裏に、中宮様の許可を取れと。なかなかタイミングがなくていいあぐねていたのだけどね」
葵はきょとんとした。
「さすがは三位様頭が切れますね」と赤石は言った。「葵ちゃん、あなたから、帝に提案してほしいってことよ。これが政治力、さすが高校で権力を持っていたゆうひちゃんなだけある」
「わかった説得してみる。帝にとってもいいお話でしょうし」葵は戦う決意を固めた。
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