第6巻 あおによし

 葵が中宮となる。


 その事実は一瞬で皆に伝わり、西丘は大騒ぎになった。特に華の会の者たちはこの世の終わりかとでもいうかのように、悲壮感と焦燥感を募らせた。


 多くの者がお祝いの品を持ってきた。また、前に仕えていた女官も再び仕えたい、という申し出を行ってきた。浅見もその一人だった。


「毅然とした対応を」と赤石から忠告を受けていた葵は、全てのお祝いも申し出も断った。


 中宮になる前日は、今のうちとでもいわんかのように中園が部屋を訪れてきた。中園は葵を上座へと促した。葵は断り、下座に座った。


「そのような中宮様に」と中園は言った。


「まだ、ですから」と葵は言った。


 中園は上座へと座ると、十二単を葵に渡した。


「これは京の呉服屋より取り寄せし……」

「お断りいたします」と葵。

「そうと言わず」

「誰からも祝いの品を受け取ってはおりません。私のような忌み者に贈り物でもしたとの噂が立てば、中園の御身が危のうございますぞ」葵は中園の目をしっかり見て言った。


 中園は赤石に目配せして下がらせた。


「私たちは寺子屋からの中ではありませんか。帝も関白も右大臣も。皆、同じ寺子屋。あの頃、あなたはとても優秀で、追いつけもしなかった。だからあなたがはじめ髪結で驚いたのです。帝も嘆かれるばかりで、左大臣様も私の元へお渡りになるたびに頭を抱えておられました」中園は冷たい目で葵を見ると、けん制するように葵に言った。

「他に何か言いたいことがあれば、明日お願いいたします」と葵は中園をしっかりと見つめて言った。中園は罰が悪そうに退室した。

 

 翌日、中宮として部屋入りの儀が行われた。強気でいた葵も、十二単を早急に自前で用意ができず、結局中園からいただいたものを使用した。


 無事に部屋入りの儀が終了すると、次は挨拶の時間が続いた。


「これより、宮様の第一女官を務めます、浦安でございます。第一女官は、31位のものがすると決まりでございます。私は主に、東野や総務とつなぐ役割をいたします。身の回りのことは、宮様ご指名の女官、赤石にお頼みください」

「あいわかった」と葵は言った。

 中宮の女官はすでに決められた者がなる決まりだった。そのため、赤石しか、葵は選ぶことができなかった。最も信用できる女官など、赤石しかいなかったのも事実である。


 次に挨拶に来たのは女官長、青山だった。浦安はさっと御簾を下ろした。青山は挨拶するやいなや、泣き出した。


「無礼者、宮様のご前で!」と浦安は言った。


「もっ申し訳ございませぬ。ただ嬉しくて、色々と苦労なさられていたのに、女官長としてなにも手助けしてやれず」


「よいよい」と葵は言った。


 次に訪れたのは、3位となった野本ゆうこだった。葵は御簾を下げ、几帳の後ろからそっと長い髪を出した。これが葵のせめてもの復讐だった。


「このたびは無事のお部屋入りおめでとうございます。心から、お祝い申し上げます」


 3位野本はやはりか弱い声でそういうと、さっと部屋をでていった。


「野本殿はどうなるのですか?」と葵は浦安に聞いた。

「どう、とは?」

「その、帝とは……」

「3年訪れないことで離縁が成立することになっています」と浦安は淡々と言った。

「あなたは私が憎くはないのですか」と葵。

「憎い?」

「これまでは野本殿にお仕えしてきたのですよね?」

「ええそうでした。しかしこれからは田上様が私の主人です。それが私の仕事です。私は私がやるべきことをやったまでのことと思っております」


 降格となった、3位野本にはただ一人の女官が残っただけだった。気の毒ではあるが、同情はできない。


「これからは私に忠義を尽くす、そういうことですね」と葵は浦安に言った。

「はい」

「では、一つ教えてください。野本殿は私が謀反を犯したように仕組まれたというのは本当ですか」

「私は自らの仕事をこなすまでです。さきに仕えた主人に関する発言は差し控えさせていただきます」

 その返答に葵はにこりと笑った。


 挨拶が続いたが、問題は4位となった藤本だった。彼女は華の会を意のままに操る存在だ。無下にしてはならぬが、あまりに重宝すれば西丘の権威が彼女に移ってしまう。葵は藤本を許すことなどできず、彼女に政を牛耳らせるつもりはなかった。しかし、彼女の怒りを買えば、3位と組み、再び田上葵を引きずり下ろそうとしてくるかもしれない。中宮と内定した葵に媚びさえ売らなかった気の強さ。さてどうするか。


 4位は黒い唐衣を着て現われた。謁見の際、驚いた表情をしたのは、藤本の方だった。

 葵は、御簾をあげ、着座して待っていたのだ。藤本は深く拝礼した。


「このたびは無事のお部屋入り祝着至極でございます。また、御簾もあげられるなど格別なるご配慮いたみいります。しかしながら、中の宮様であられるような方が私にそのお顔をさらされるはいかがなものかと」

「藤本、面を上げよ」


 藤本はさらに驚いた表情をした。


「やはり藤本殿はお美しいですこと。昔からその美しさには気づいておりましたが、御簾なしにまじまじと見ると、やはり格別でございますね。昨年格別なるご指導を賜りましたこと、いたみいります。やっと感謝を表すことができ、嬉しく思います。藤本殿のお会いできぬ日々が続き、どう御礼を申し上げようかと、考えあぐねていたのです」葵は藤本を睨みつけるように、野太い声で言った。


「……」


「今後とも、よろしく」葵はにこりと笑った。


 夜になると、帝、金山悠生の再任を祝う宴が東野にて執り行われた。

 葵は居室近くには正門前の庭に出ることのできる扉があった。そこに、葵の牛車はぴたりと横付けされていた。


 葵の牛車はいつもとは違う車寄せに到着した。中宮専用の車寄せだ。その車寄せから出ると、葵は扇を大きく開いた。

 28位の頃とは違う廊下を通ってたどり着いた先には、関白ら参議が多くひれ伏す間があった。参議とは御簾で分けられている。御簾の上座側の手前には几帳があり、そこには金の糸で刺繍が施された座布団が敷かれていた。葵は着座した。参議の顔はまるで見えない。葵は貴重から自身の長い髪をちらりと見せた。


 しばらくすると帝がいらっしゃった。悠生と葵は久しぶりに対面することと相成った。悠生も葵も、見つめあった瞬間に顔がほころんだ。


 宴が終わった帰り際、葵は右大臣に声をかけられた。


「その節は」という葵を右大臣は制した。

「あの頃となにも変わりませんな。寺子屋の頃と」

「顔がですか?」と葵は意地悪く言った。

「ええ」と右大臣はまた意地悪そうに言うと笑った。

「本日の疑えに3位野本殿が来られなかったのは残念なことです」と右大臣は言った。

「ご病気なのでしょう。休ませてあげては」

「謀反を疑われぬとは、田上葵様はあの頃と変わらずお優しい」と右大臣はにやりと笑った。

 

 その日の夜、金山悠生が西丘を訪れた。

 葵は寝着に着替えると、少し離れた場所にある寝所へと入った。この寝所は、帝と中宮のみが使用できる場所であった。


 帝が来られ、葵は下座で3つ指をついた。


「葵」


 待ちかねた、とでもいうように、帝、悠生は葵に近づいた。


「よくぞ、よくぞ、ここまで」

 

 そういって、葵の方に触れようとした瞬間、葵がのけぞった。


「葵?」


 葵の脳内は、拷問の日々や、その時うけた辱めで頭がいっぱいになつた。そしてついには過呼吸を起こし、泣きながら倒れ込んだ。


 そういう日が何ヶ月も続いたある日、葵は東野へと呼び出された。

「中の宮様」

 声の方へと目をやると、庭であの顔の良い青年が控えていた。

「私をお手討ちにしてくださいませ」

「というと?」

「私は中の宮様のお体を」

 葵はふふっと笑った。

「あなたはあなたの仕事をこなしたまでのこと。誠実な方ですこと。名は?」

「長谷部都人でございます」

「長谷部……表をあげよ」

 長谷部は顔をあげた。

「やはり。都人」

「お覚えですか、田上葵様」

 長谷部都人は同郷の幼なじみだった。東野にいるということは風の噂で聞いていた。

「浦安、このものに褒美を」

 そういうと、葵は、帝のもとへと向かった。


 帝は右大臣も呼んでいた。

「ということがありまして」と葵は都人のことを話した。

「お元気そうでなによりですが」と右大臣は言った。それを合図かというように、悠生は話始めた。

「葵、奈良へいかないか?」と悠生。

「奈良?」

「ひとときの旅をともに」

「よろしいのですか?」

「あまり伏せっていても体に悪いでしょうしな」と右大臣は言った。「私もご同行させていただきますぞ」

「奈良、良いですね。ちょうど桜も見ごろでしょうし」


 こうして帝、右大臣、葵の3人によるお忍びでの旅がはじまった。

 春日大社を訪問したのち、近くの寺へと一行は泊まった。夕方になると、葵のもとへ、帝が尋ねてきた。浦安を下がらせると、帝は葵に耳打ちをした。

「街へ繰り出さないか」

「どのように、必ずばれますよ」と葵は言った。

「変装をしよう」

 こうして、帝と葵は従者の目を盗んで、商人に変装した。

 葵と悠生は街中を歩いた。まるで普通の夫婦のようであった。葵はその時間が幸せで仕方がなく、悠生の背をずっと見つめていた。

「実は連れて行きたいところがある」

「はい」葵は笑顔で言った。

 帝が入っていったのは、普通の扇子屋だった。

「お待ちしておりましたよ」と女将は笑顔で答えた。

「ささ、奥の座敷へ」

 女将は二人を部屋へと通すと、お茶を出した。

「こちらが」と悠生。

「東雲くんから聞いております。奥様の葵様ですね。さあ、遠慮なしにお茶を」

 葵は悠生に目をやると、悠生は笑顔でうなずいた。葵はお茶を飲んだ。

「それで、奥様は……」

 だんだんと女将の声が遠のいていく感覚があった。

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