第5巻 穂の上かたらふ

 葵は西丘に返された。しかし、葵の部屋は御殿といえるようなものではなかった。女官はいなくなり、道具は撤去され、小袿1つを残して、28位の居室は閉門同然の様相だった。

 

 中宮様は「東野、そして西丘を騒がせた」としてたいそうお怒りであり、当分の蟄居を葵に命じた。


 謹慎が解けても葵の部屋が元のように戻ることはなかった。おつき女官は皆何かと理由をつけていなくなり、運ばれてくる膳を部屋で一人で食べる毎日だった。帝のお渡りもぴたりとやんだ。


 部屋から一歩も出ず、孤独に耐える日々を過ごしていたある日、赤石が葵の元を訪れた。


「葵様」

「赤石……」

「葵様がよろしければ、またそば仕えさせていただきとうございます」

「赤石に迷惑がかかります」と葵。

「私がここにいることが迷惑でございますか」

「赤石……」

 赤石は葵のそばをいつなんときも離れようとしなかった。食事の補佐をし、髪をとき、ともに和歌を詠んだ。赤石の和歌は相変わらず下手なままで、葵はやっと笑うことができた。


 風呂となれば、赤石は葵の背を流した。首元に残った傷に、赤石は言及することはなかった。


 風呂を出て、居室に戻る途中の渡り廊下から、正門前の庭を見ることができた。

 

 梅の花が咲く準備をしている。その梅の木の下で、華の会がお茶会を催していた。3位藤本様、6位中園様らが、色鮮やかな内気を着て一同に会し、それはもうこの世の極楽かともいえるほど、華やかだった。藤本様が珍しく笑っている。その様子を意味深げに葵は見た。


「私が間違っていた」


 そういうと小袿をはいで、裸足のまま、庭へと出た。


「葵様!」


 葵は赤石の制止を振り切って、華の会の前へと出ると、その場でひれ伏した。華の会の人たちは一瞬驚いた顔をし、そして、葵をにらみつけた。


「私が間違っておりました。これからは3位藤本様をはじめ、皆様のご指導にあずかりとうございます」と葵。


 しばらく無言の間が続いた後、藤本がお湯を淹れたての茶を持って立ち上がった。葵の浅い呼吸が絶え間なく続く。葵は話続けた。


「藤本様がはじめにおっしゃられた、中宮様に仕えよとの言葉を私は忘れておりました、私はそのことを恥じ……」


 華の会に中宮野本様は属していない。しかし、華の会は野本様を後ろ盾にしていることは明らかだった。中宮様の権威を笠に着る華の会と、それを良いことに意をくませる中宮は持ちつ持たれつの仲なのだ。今回の事件も、中宮様のご威光を組んだ、華の会によるものであることを葵はようやく理解した。


「やっとわかったの?」


 藤本はそう言うと、お茶を葵の頭にかけ、茶碗を落として割った。葵は突然のことに、ぎゅっと目をつぶることしかできなかった。


「田上さんが片付けてくださるそうよ。お開きにいたしましょう」と藤本。


 葵はただ唇をかみしめることしかできなかった。


 葵は立ち上がると、髪が濡れたまま、割れた茶碗のかけらを広い集めた。ひざが痛い。悔しい。でも我慢するしか生き残る道はない。私には権力も実力も何もかもないのだから。片付けは赤石が手伝ってくれたものの、終わる頃には疲労困憊だった。


 田上は部屋へ戻ると倒れるようにひざをついてしばらく動けなくなった。


「葵様、葵様!」


 赤石の声に振り向くと、そこには二位尼様がいらっしゃった。


「二位尼様!」葵は急いでひれ伏した。突然の来訪に理解が追いつかず、次は何をされるのか、と葵は目を見開いていた。


「赤石、下がりなさい」と二位尼様。


 葵は二位尼様と部屋の中で二人きりになった。


「私がなぜ尼となったかわかりますか?」


「いっいいえ」葵は震える声で答えた。


「そうせざるを得なかったからです。中宮、野本ゆうこのせいです。私は、ここ西丘に入る際、一番の成績を収めました。つまり、中宮は私だったのです。それを聞きつけた野本家が、私の実家へと押し寄せ、中宮の座を辞退するよう迫ったのです。当時野本家はゆうこの兄が東野の帝として権勢をふるっており、その力は絶大なものでした。それに加え、私の姉、ぼたんは中宮であったものの、謀反の罪を着せられて、西丘を追い出された。野本家はそこをついてきたのです。現在、姉のぼたんを東京へと追いやられております。我々は姉の命を守るためにも、野本家の要求を受け入れることしかできませんでした。せめてもの抵抗に、私は尼となりました。帝はお優しいことに私がここに住まうことを許されたのです。葵さん、今中宮はあなたを忌み者として帝から遠ざけようとされている。あなたに残された方法はただ1つ、わかりますか?」


「いっいいえ」


「中宮となることです。来る文月にある試験において、西丘で一位となることです」


「そうは申されましても、もうあと半年しか準備時間がございません。私は、帝に今一度お会いしたい。それだけなのです。それができれば、ここ西丘を離れてもいいと思っております。ですから……」

 葵は涙で袖を濡らしながら頭を下げた。


「それほど、帝を慕っていることはよくわかりました。しかし、もはや中宮にでもならない限り、帝はあなたの元へ来訪できぬでしょう。中宮、そして野本家があなたを目の敵にしております。それに、これは私からの願いでもあるのです」


「二位尼様の願い?」


「私の敵を討ってほしいのです。私もできる限り助けましょう。願いを聞いてくださいますね」

 

 葵は断るすべがあるわけなかった。腹をくくるしかなかったのだ。


 それから二位尼様からの指導が始まった。毎日のように、尼様のところに行き、二人で勉学を行った。尼様は自身の持つ分厚い本を広げると、葵に講義をした。尼様は上座から一歩も動かれることはなかったが、遠く離れた葵にも、その声ははっきりと聞こえた。てっきり静かな人だと思っていた葵は驚いた。


 尼様は非常に優秀で、葵は始めついていくことなどできなかった。しかし、その指導のおかげで、徐々に力が伸び始めていることが葵自身にもわかった。


 指導は他の者には内密に行われた。計画がバレれば、元も子もないからだ。しかし、帝の寵愛を失った葵に関心を持つ者などおらず、内密にすることなどたやすいことだった。


 華の会が花見をしだしても、つゆに入り部屋の中で歌会に講じるようになっても、葵は勉強をした。


 そして来る文月。髪結の頃は、大部屋で一斉に試験を行った。試験監督は京から派遣された者たちとの紹介があった。おそらく採点も京で行われているのだろう。


 御髪下ろしの試験はそれぞれの居室で行われた。誰もいない部屋で試験を受ける方が、葵の性には合っていた。試験は二位尼様のご指導のおかげもあり、まるで本を見ながら書き写しているかのようにすらすらと解くことができた。手ごたえは十分だった。


 十五夜の日に、結果が言い渡された。普通であれば、髪結いの表使いが部屋を訪れ、結果を記した紙を持ってくる段取りだった。


 しかし訪れたのは、東野の代官だった。代官は、上座に立つと、帝からの誓詞を読み上げた。


「田上葵を中宮に任ず」

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