第3巻 身の浮きほどぞ

 帝のお渡りの知らせが届いてから、葵は忙しくするばかりだった。


 まずは体を丁寧に洗われ、髪を綺麗に梳くと、良い香りのする油をつけた。そして白い寝着に着替え、居室の下座で来訪を待った。


「お越しでございます」

 外で控えている女官が言うと、葵は深々と頭を下げた。


 帝は上座へと着座すると、女官が酒を持ってきて、さっと下がった。

「表をあげよ」と帝は言った。

「このたびは……」

「お久しいですね」と帝は優しい声で言った。

「覚えておいでですか」

「ええ、よく覚えております。寺子屋が同じだったこと。あの頃私はあなたを超えることなど到底叶わなかった。昨夜は大変驚きました」

「その節は!」

「ああ良いのです」と帝は制した。「おかげでこうしてまた出会えたのですから」


 二人は酒を酌み交わした。綺麗な月が姿を見せていた。

「綺麗ですね」と帝。

「ええ、綺麗な望月ですこと」

「あの日も望月でした」

「あの日?」

「東野にゆくことが決まった日のことです。あなたが西丘に決まった日でもあります。とても嬉しかったのです。あなたが西丘で」

「と申しますと?」

「またいつか出会える日が来るということではありませんか。西丘の者には東野の者しか会うことが叶いません」帝は葵の手を握った。「私はあの頃からあなたのことを好いていたのです」


 夜が更ける前に帝は帰っていった。ちょうど、昨夜、帝とぶつかった、あの時間だった。この刻は出てはならない、という規則だったが、帝が通られる時間などだということが葵にはようやく理解できた。


 朝、いつもと同じように葵は目が覚めた。まるで、夢でもみていたかのように、葵は終始上の空だった。いつもより早く、浅見は居室に現れた。


「それで、昨夜は?」と浅見は興味津々で聞いた。

「あ、え、そうですね、終始敬語で話されて、生きた心地がしませんでした」

 浅見は笑った。

「葵様、敬語おやめくださいませ」


 その日から、葵付きの女官志望者増えた。皆、総務との掛け持ちとなり多忙になるにも関わらず志願してきたのだ。志望者は田上が髪結の頃、たまに会話する者たちだった。赤石が入念に諮問を行い、厳選した女官6名をあらたに雇った。


 御髪下ろしの何名かから葵に贈り物が届いた。皆、「よろしければ」とか「葵様に似合うと思い」と言っていたが、その魂胆はわかりやすいものだった。驚いたのは、中園から十二単が届いたのに対し、藤本からはなにも届かなかったことだ。3位としての意地があるのだろう。


 食事も少々豪華になった。季節ものや、花などの飾りが増えた。また、東野で採れた野菜が頻繁に入るようになった。滋養をつけていただかなくては、と帝からの一言が添えてある。

 

 帝からの贈り物は食べ物ばかりではない、着物や道具などといったものが頻繁に届けられるようになった。


 廊下を歩けば、誰かに声をかけられた。皆口をそろえて「今をときめく田上様」などと褒めそやし、「なんて美しい」と付け加えた。葵はそれが嫌になり、めっぽう部屋を出ることがなくなった。


 そんなある日、田上は中宮様に呼ばれた。

「表をあげよ」と中宮野本様付き、第一女官の浦安が言った。


 中宮野本ゆうこはやはり姿を見せず、御簾のさらに後ろにある貴重から髪を出すばかりであった。

「なかなかご挨拶にうかがえず、大変申し訳ございませんでした」と葵。

「よいのです」

 野本はか細い声で言った。

「帝を頼みます」

「下がられよ」と浦安は言った。

 

 葵は拍子抜けをした。もっと怒鳴られ、詰められると思っていたからだ。外に出ると、3位藤本様がいらっしゃった。藤本の部屋は中宮様の隣だった。


「田上殿」と藤本は言った。その目つきは鋭いものだった。

「お久しゅうございます」と葵。

「なかなか部屋を出ておらぬと聞く。体を壊しますぞ」と藤本。

「ご心配にはおよびません。滋養のつくものを食しておりますので」

「そう」

 そういうと、藤本は部屋へと戻っていった。


 帝のお渡りは頻繁に行われた。そのたびに周りからの気遣いが増えていった。28位の居室は女官であふれ、生け花や袿といった美しいもので覆われ、”葵”という名前から藤壺の御殿などと言われるようにまでなった。


 葵はありがたく思う一方で、政、特に、西丘での決めごとに口を出さぬように気をつけていた。意見は言わず、3位藤本に譲るよう、細心の注意を払った。


 雪が降る季節になった頃である。葵が生け花をしていると、外が何やら騒がしいことになっていることに気が付いた。そして、突然、ことわりもなしに、多くの兵が土足で現れた。

東野の兵だった。


「28位田上葵に謀反の疑いあり、東野までご同行願う」

 葵は戸惑った。

「謀反?」と葵。

「昨日の儀式に出席しなかったな」と兵は厳しい口調で言った。

「昨日?」

 葵は浅見を見た。浅見は首を振った。

「昨日儀式などとございましたか」と赤石は厳しい口調で言った。

「3位様から伝え聞いたであろう。今年は帝の生誕の儀礼を執り行うと。儀式の存在を知りもしないなど謀反に違いあるまい!田上葵を引き立てよ!」


 葵は袿を剥ぎ取られ、縄で縛られると、魔の廊下を通り、女官たちの視線を浴びながら、休館にある小さな勝手口へと連れて行かれた。


 そして罪人に使用される輿に乗せられて、遠い東野へと連れて行かれた。

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