第2巻 空に乱るる
髪結として働いていた葵からすると、御髪下ろしとしての生活は心穏やかといえど面白味のない毎日だった。
朝は美しい漆器に載せられた質素な朝食が運ばれてきた。漬物、白米、お味噌汁。それに綺麗に小骨の取られた焼き魚。それが終わると、髪を梳いてもらい、長袴に小袿に着替えた。お昼を過ぎれば3階にある中庭で花を愛でた。
「ほら、右大臣様がいらっしゃった」29位様が中庭から階下の正門を見て、葵に言った。
「また別の女のところに行かれるのね」
「わかるのですか?」
「長らくここから眺めているとわかるものです」
ほら、というと、右手に赤い花を持っていた。何がほらなのか、葵にはわからなかった。
「あらあちらは関白様ね」と29位様。「3位様のところへ行かれるのだわ。3位様はこのところ、記憶喪失になっているとか。関白様のこともすっかりお忘れになって、お受け入れなさらないそうよ」
「そうですか」
「いくら記憶喪失とはいえ、私にしてきたことが帳消しになるわけではありませんのに」と29位様は突然怒って言った。
夕方には部屋で和歌を読んだ。
「赤石殿、和歌の練習をなさった方が良いのでは?」と浅見は意地悪く言った。
「下手、ですか?」と赤石は言った。
「ええ、ほらここ、満月の、って。どう言う意味ですか」と浅見は笑った。
それでも気が臥せってくると、一階にある蔵書がまとめられた部屋で本を読んで過ごした。人はこれを風流と呼ぶのかもしれないが、退屈な日々を過ごした。こうなってくると、確かに、誰か東野の人が部屋に訪れてくれないか、と葵は思うようになった。
御髪下ろしとなり、良かったこともあった。十二単を着なくてもいいことだ。身分の高いものは、日常生活では小袿を着ることを許されていた。
お風呂に浸かることができるのは、1月に1度であった。お風呂は離れにあり、新館と離れを廊下がつないでいた。この廊下は吹き通しになっており、正門前のお庭に直接出ることができる。逆に言うと、冬場は大変寒い場所だ。
この離れには、舞台も併設されていた。舞台は、中宮様再任のお祝い等、祭礼で使用された。この舞台の下に風呂場がある。風呂場といえども、湯舟に浸かるわけではない。白いお風呂用の衣服に着替えたのち、そのうえからかけ湯をするのみだった。御髪下ろしとなれば、女官の手伝いがあるため、髪結の頃に比べれば、大変楽な作業だった。
28位となって一か月がした後、初めての御髪下ろし会議が行われた。この会議は女官を伴ってはいけない決まりになっていた。また、正式の場であるため、重い十二単を着る必要性があった。葵は1人で、その会議場となる一階の広間へと向かった。
広間は30人ほどが入れる大きさだった。葵は入室すると、比較的下座の、29位様の隣に着座した。集まった人々は何やら世間話をしていた。
「3位様のご様子は?」
「関白様がたいそうご心配されていると右大臣様が仰られておいででした。この頃になり、やっとお受入れになられたとのことです」と言ったのは、右大臣東雲の寵愛を受ける、華の会の10位様。
「病で記憶の節々が飛んでいるとの噂でしたけれど、あれはまことですか?」
「ええ、でもそちらもご回復の兆しがおありのようで」
6位中園様が入られると、一転、しんと静まりかえった。中園様は前会った時よりも美しさに磨きがかかっており、美しく長い黒髪に、高級そうな緑色の唐衣を着ていた。
広間の上段は、御簾がかかっていた。
「3位様がおなりです」
聞きなれた声が聞こえたかと思うと、全員がその場に控えた。葵も回りをきょろきょろと見渡すと、その場にひれ伏した。
「表をあげよ」と3位様は言った。
葵が顔を上げると、3位様が1番高位にあたる、御簾の向こうの上段に着座していた。すなわちそれは、中宮様と二位尼様は本会議にはいらっしゃらないことを意味していた。
葵は初めて藤本様の姿を御簾の奥に見た。藤本様は、中園様を超える美しさだった。月光さえも反射するかのような黒髪に、透き通る白い肌、そして整った目肌たち。知力だけではなく、見た目さえも叶うわけがない。そもそも、まとっている威勢があまりにも違いすぎる。自分とは違う世界に生きる人なのだと、瞬時に察した。
「あらたに髪下ろしとなるは、28位、田上葵。挨拶せよ」
藤本様は鋭い声は威圧感があった。葵は恐ろしかった。
「28位田上葵と申します。初めての髪下ろしなれば至らぬことも多くありましょうが、なにとぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます」
葵は震える声で言った。
「中宮様が再任されたこと、これ以上の誉はない。これからも皆一層、中宮様の御ために十二分に尽くすように」
そういうと、3位様は退室された。葵はあまりにも早い退場にきょとんとしていた。
「ご指導と申しておりましたけれど」と中園が言った。
「28位さん、あなたのことです」と中園。
「そうですね」と10位様が続けていった。
「では、この部屋の清掃でもお願いいたしましょうか」と中園。
「え、あ、はい」と葵は戸惑った。
そういうと中園はじめ御髪下ろしが退室した。
「新参者が通らなくてはいけない道なのよ」と29位様は耳打ちして部屋を出て行った。
その言葉で新人いじめのための会議だったのだとやっと葵は理解した。
腹が立った葵は、さっさと終わらせようと奮起した。髪結であったことが幸いし、掃除道具の場所と掃除の仕方くらいは一通り理解していた。しかし、髪を長く下ろし、十二単を着た状態での清掃は思いのほか大変な作業であり、終わる頃には、へとへとに疲れ切っていた。十二単ももう使い物にならないくらい汚れていた。こうなることをわかった上で、29位は初日に西陣織をくれたのだ、と葵は唐突に理解した。
終わる時はすでに夜を回っていた。朦朧とした頭とふらつく足で廊下を歩き、階段をのぼったその時、誰かとぶつかった。
「申し訳ございません」
そう言い、ふと顔を上げた瞬間、葵は青ざめた。急いで階段を降りると、その場にひれふした。
金山だ。金山悠生だ。何もあの頃と顔が変わっていやしない。帝だ。
「控えよ!」
鋭い声が静かな廊下に響き渡った。思えば、葵が通ったその階段は、帝と中宮のみしか通行を許されていない階段。意識が朦朧としており、すっかりその規則を忘れていたのだ。
「名をもうせ!」と帝の従者が言った。
「28位田上葵でございます」
葵は震える声で答えた。
「田上?」と帝は言った。
「おかみはこのような謀反者とお話をなさってはなりませぬ」と従者は言った。
「田上おもてをあげよ」
葵はおそるおそる顔をあげた。
「ああやはり」と帝は言った。
「病のようゆえ、手当してやれ」
帝はそういうと、正門に止められているお車の元へと向かった。
「帝への御恩を忘れるでないぞ」
従者に支えられて葵は部屋へと戻ることができた。葵はあまりのことにただ泣くことしかできなかった。
部屋には浅見と赤石が自室に戻らずまだ控えていた。葵を心配して、寝ずに部屋で待っていたのだ。
「心配いたしました」と浅見が言った。
「でもこの刻は、出歩いてはならない規則。なぜ」と赤石。
「話すと長いのです」と葵は言った。
「十二単を新調せねば」と浅見は泣きながら言った。
「29位様にいただいたものをつくろいましょう。それにしても、大変なこととなりました」赤石は冷静に言った。
「お相手が帝です。中宮様や華の会の連中が何を言ってくるか。謀反と取られなかっただけましです。帝がお優しかったことが功を奏したとはいえ、どうなるか」
翌日、葵は生きた心地がせず、食事が全く喉を通らなかった。いつ誰が何を言ってくるかわからず、ただ部屋でビクビクしながら過ごすことしかできなかった。それは浅見と赤石も同じようで、2人ともそわそわして何も手がつかず、朝からずっと葵の居室でひたすらに花を生けながら過ごした。
夕方、表使いの者が葵の部屋を訪れてきた。
「帝が今宵、28位様の元へお渡りになられたいとのことです」
浅見、赤石、そして葵の3人はその言葉に目を丸くした。葵は浅見にうなずいた。
「かしこまりました」と浅見は答えた。
噂を聞きつけたのか、29位様が葵の部屋に早速訪れてきた。
「もう、昨夜のことから、私も生きた心地がせず、食事が喉も通らなかったのです。やはり田上様のお美しさあってこそですね」と29位様は泣きながら言った。
葵は、きれいだとか、美しいだとか、そういう言葉を言われたのは初めてだった。浅見と赤石もうなずいていたが、どうもその、美しい、という言葉を信用することができず、ただ呆然とするしかなかった。
「中宮様に申し訳がありません」と葵は言った。
中宮様のところに帝の足が向いていないことを葵は重々承知していた。髪結の頃に、浦安にせがまれ、何度も東野に問い合わせたが、『帝は体調不良で中宮様のところへ御幸できぬ』と答えるばかりでどうしようもなかったくらいだ。帝と中宮の仲に隙間風が吹いていることは十二分に理解していた。
「何を申されるのです。帝の要請ですから、断ることなどできはすまい」と29位様は言った。そして忠告した。「女というのは恐ろしい生き物ですから、慎重にならねばなりませんね」
葵はただ頭を抱えるしかなかった。
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