幕間 土

     土 ①


〈三〉


 リィ・ラ・タオの村は中国とミャンマーとの国境、ワ州にある。険しい山岳地帯の傾斜が緩やかなところに畑を作り、家を建て、そういう場所を山道でつなぎ合わせた長細い村だ。

 山肌に拓いた畑は日当たりも水はけも良く、いつだって乾いている。畑を一歩往くたびに土の塊や小石がビーチサンダルと足の裏との間に入ってくる。合成繊維のTシャツが汗で背中に張り付いて気持ちが悪い。黒い巻きスカートロンジーが熱を孕んで蒸し暑い。

 夏に陸稲おかぼを育て、収穫を終えた陸稲の根を掘り起こし、同じ畑で冬の間に芥子を育てる。春になれば芥子の花が咲き、実がなり、アヘンが採れる。そして芥子が枯れれば種を収穫し、水牛に牽かせた鍬でまた芥子の根を掘り起こして、陸稲を植える。

 米と芥子のサイクルでこの村は成り立っている。毎日は水汲みから始まり、薪を集めて火を熾し、食事を作っては畑に出て、また薪を集めて火を焚き、粥を食べる。

 死ぬまでその繰り返しだ。

 娯楽といえば、木々を切り開いただけの山道を軍用トラクタで上がってくる人民軍の兵士くらいのものだった。春の終りになると彼らはカーキ色のトラクタでこの村に乗り付け、芥子から収穫されたアヘンの半分を税金として徴収していくのだ。村の大人たちは収穫を掠めとる彼らを嫌っていたが、ラ・タオは密かに彼らの訪れを心待ちにしていた。

 彼らはこの村の外のことをたくさん知っていた。それをラ・タオに語って聞かせてくれる。

 だから白人プンパインという存在は知っていた。中国でもミャンマーでもない場所に白人国があり、そこに住む人々はみんな肌が白く髪は金色で青い瞳をしているのだという。

 正直に言えば、ラ・タオは白人が実在するとは信じていなかった。新しい家を建てたときに米とネズミを供える儀式や、老人たちが好んで行う失せ物探しのおまじない。大祖父さんの時代は新年に人の首を供えていたのだという噂と同じような、夢物語だった。


 白人が実在したと知ったのは、人民軍の兵士が来るにはまだ早い春のことだった。芥子畑には開花が遅れている蕾と満開の花、そして一足早く実を結んだものとが入り乱れていた。

 収穫の最盛期で、一年で一番忙しい時期だった。

 白人は人民軍のトラクタではなく、自分の足で山道を歩いて来たらしい。らしい、というのはラ・タオが白人の訪れを知ったときにはすでに、彼らが集会所に到着していたためだ。

 白人を見ようと広場に駆けつけたラ・タオは、当の白人の背にぶつかってしまった。

 ラ・タオより少し年上の男の子だった。背が高い割に線が細く、頭が大きく見えた。まるで実を結んだ芥子だ。緩くうねる彼の黒髪も、黒く垂れたアヘン液のようだった。

 白人の少年は、布を巻き付けた棒を持ったシャン人の女や巨木のような躯体の男とともにいた。外の世界の人間がこの村を訪れるなど初めてのことだ。

 当然、村は色めき立った。外の世界の人を一目見ようと、集会所の前の広場に村のほとんど全員が集まったくらいだ。騒ぎを聞きつけて上下の集落からも村人が駆けつけてきた。ラ・タオと同じ年頃の子供たちや、赤ちゃんを背負った女性、いつもなら昼間からアヘンに酔って家にこもっている老人たちまでもが顔をそろえていた。

「白人だってさ」「白人ってなに?」と囁き交わす声がざわめきになる。「白人って髪が太陽みたいに輝いているんじゃないの?」「黒髪じゃないか」「ありゃシャン人だろう」

「あのタイ人」と、ひときわ恨めしそうに言うのが聞こえた。

 ラ・タオはそっと振り返る。母だった。見たこともない険しい顔で、広場の一角を睨んでいる。眼差しだけで相手を傷つけられそうだ。母の異様な雰囲気に気がついたのか、背に負われていた赤ん坊が迸るように泣きはじめる。

 母の視線の先には、シャン人の女が立っていた。手には布を巻いた棒を持っている。

 不意に女がラ・タオを──その背後に立つラ・タオの母を、見た。赤ん坊の声が届いたのだろう。

 途端に野次馬たちは声を潜める。得体の知れない相手の関心を引くことの危険性に思い至ったのだ。

 女は棒を地面に向けると、巻かれていた布を開いた。棒の先に布張りのお椀をかぶせたような形になる。彼女はそれを肩に担ぐと、野次馬たちに背を向けてしまう。布張りのお椀が彼女の上半身をすっぽりと隠した。

「なんだいありゃ」と誰かが鼻を鳴らす。「見られるのがそんなに嫌なのかい?」

 誰も、布のお椀の用途を知らないのだ。

 ラ・タオの母だけが「あれは」と呻くように言う。泣きじゃくる赤ん坊をあやすこともせず、布のお椀を凝視している。

「あの女はフューンだよ。災いから災いへと飛ぶフューンだ。村の外にはああいうのがたくさんいて、たくさん人を殺しているんだよ」

「フューンって」

 なに? と問うラ・タオの耳元を、蚊の羽音が掠めた。ラ・タオはぱたぱたと手を振って蚊を追い払いながら首を巡らせる。肝心の姿が見当たらない。それでも、プーン、とか細く高い羽音が響いている。

 と、女を隠した布のお椀に、蜂が留まっていることに気がついた。刺繍だ。

──白い花と茶色い蜂、そして蜂の巣が三室だけ。

 ラ・タオは自分のスカートの裾に施された刺繍に触れる。母が入れてくれた伝統的な刺繍は赤一色きりで、花や蜂といった複雑な模様はない。

 そっと野次馬をくぐって布のお椀に近づく。首を伸ばして刺繍の蜂に目を凝らす。

 祖母や母、姉たちよりずっと細かい細工だった。蜂の翅の透かしまでが白と水色の糸で再現されている。色合いこそ地味だが、非常に手が込んでいる。

 どうしたらそんな風に刺せるんだろう、とつい身を乗り出してしまう。

 不意に女が振り向いた。布のお椀の縁から女の顔が覗く。冬の夜明けに落ちる枯葉に似た肌色をしていた。シャン人の肌の色だ。白人ではない。女の、深夜の雲に似た色の瞳がラ・タオに向けられる。

 なぜか蚊の羽音が大きく、芥子の花畑を飛び交うミツバチのそれに似た響きになった。

 咄嗟にラ・タオは視線を伏せる。覗き見していたことを叱られると思ったのだ。

「刺繍が」とワ語を口にしてから、口を噤む。喉が渇いていた。緊張しているのだ。

「刺繍が」と人民軍の兵士から教わった英語で言い直す。実際に他人に向けて英語を発するのは初めてだった。「綺麗で……ちゃんと見たくて……その刺繍、あなたが、したの?」

 女は黙っていた。その瞳にラ・タオを映しながら、その実なにも見えていないかのように頭上を仰ぐ。

 きーん、と甲高い音がした。人民軍が飛ばす無人の監視飛行機だ。トンボめいた細長い体の下に取り付けたカメラで、この村を覗き見しているのだ。芥子の咲き具合を確認するための定期飛行だろう。

 人民軍は、この騒ぎに気づいたかもしれない。集会所の前に村のほとんどの住人が集まっているのだ。数日のうちに事情を聞きに来るだろう。

 耳をつんざく飛行音の下でも、まだ、むーん、とミツバチの羽音が続いていた。どこか眠たくなるのに騒音に消されることのない、力強い羽音だ。それなのにミツバチの影はどこにもない。女が肩に担ぐ布のお椀に縫い留められている刺繍の蜂しかいない。

 残響の尾を引いて監視飛行機が去って行く。

 ラ・タオは女に顔を戻す。女はもう、布のお椀の中に隠れてしまっていた。澄んだ羽を持つミツバチの刺繍は静かに、布に留まっている。

 村人たちは誰も空を気にしていなかった。人民軍が事情聴取に来るかもしれないという危惧すら抱いていない様子だ。余所者と長老がなにを話し合っているのか気にかけながら、集会所を見つめている。

 再び空を仰ぐ。静かだった。もう蜂の羽音もしない。雲が重たく村を閉ざしている。

 ラ・タオと布のお椀を担いだ女だけが、空の異変に気がついたのだ。その共通点が、妙に嬉しく誇らしかった。

 けれど、ラ・タオの母は女たちをひどく警戒していた。いや、畏れていたのかもしれない。

 彼女たちが来てすぐ、母は体調を崩した。昼も夜も家に引きこもり、せいぜい末の弟をあやすくらいしかしない。芥子畑にすら出ない。

 ラ・タオには彼女たちのなにがそんなに怖いのかまったくわからない。彼女たちは陽気で口数が多く、片言でもタイ語を話せる村人を見つけては気さくに話しかけていた。もちろんラ・タオもすぐ親しくなった。

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