土とミツバチ ⑩


 イェリコは小走りに山道を引き返す。下り坂のせいか、一歩ごとに靴の中で爪が引っかかる。考えてみれば、村にろくな刃物がないせいで爪の手入れは粗いヤスリで削るだけだった。伸びすぎているのだろう。爪の具合を気にしつつ歩調を緩めたとき。

 ──甲高いモータ音が響き渡った。

 空を仰ぐ。朝霧が晴れ、高いところに蒼天が広がっている。十字型の監視ドローンの姿は見当たらない。

 それなのに、甲高い攻撃的なモータ音は大きくなる一方だ。

 ラ・タオのところに引き返すべきか、マルグッドたちのところに急ぐべきか半秒だけ迷って、結局、坂を駆け下りる。

 すっかり見慣れた高床式の集会場の前に、マルグッドがいた。傍らでプロイとノーンが日傘を広げていた。この村に来た日以来、初めてふたりが揃って日傘を開いている。

 マルグッドの周囲が、白く濁っていた。三人の姿がノイズに蝕まれるように遮られる。

 ──ドローンだ。

 蜘蛛のように広がったフレームの先にプロペラを装備したタイプだ。耳鳴りめいたモータ音が増幅されていく。頭痛すら覚える大音量だ。白いドローンの群が集会場の出入り口から流れ出し、うねり、三人を包んで滞空飛行をしている。

 イェリコが組み立てた、あのドローンたちだ。

 ぎょっと足を止めたイェリコに、マルグッドが手を伸べる。黒いサングラスには間抜け顔のイェリコとドローンとが斑に映り込んでいた。まるで小旅行にでも出るように、彼自身の大きなスポーツバッグとイェリコのリュックサックとを提げている。

「帰るよ、イェリコ」

 声は聞こえない。モータ音が鼓膜を破らんばかりに響いている。唇の動きだけが、言葉を知る唯一の手がかりだった。

「帰るって……」

 どこに? と問い返すイェリコの声も届いていないだろう。そのせいか、マルグッドは答えることなく一歩を踏み出す。ぞろ、とドローンの集合体もうごめいた。大きな一個の生命体のように、その体を持ち上げる。

 それぞれの腹に、なにかがぶら下がっていた。大人の拳より大きな、黒い布の包みだ。ラ・タオの巻きスカートロンジーを彷彿させる赤い刺繍が施されていた。おそらく巻きスカートだったものを、荷物を包むために裁断したのだろう。

 ──ラ・タオの家から持ち出された薬だ。

 ヒステリックなモータ音の割にゆっくりと高度を上げていくドローンたちはどれも、腹に黒い包みを抱いている。荷物が重たくて速度が出ないのだろう。

 止めなきゃ、とイェリコは駆け出す。

 あれは、この村の唯一の作物なのだ。半分を軍に徴収されるのだと語ったラ・タオは、怯えた様子でイェリコの手を握っていた。そんな大切な作物を、プロイかノーンが嘘をついて持ち出したのだ。このままドローンで──村の子供たちの手をも借りて完成した空飛ぶ機械によって、持ち去られてしまう。

「プロイ! ノーン!」日傘を広げた彼女たちは、ドローンを意のままに操れる兵器なのだ。「ドローンを戻して! ラ・タオに薬を返して!」

 彼女たちは応えない。一瞥すらくれない。日傘を傾けて空を仰ぎ、ドローンの群の行く先を見つめている。

 三人に駆け寄るイェリコの頬や肩に、何機かのドローンがぶち当たった。咄嗟にフレームをつかんだものの、思いがけない力強さで振り切られる。イェリコから逃れたドローンたちはすぐに姿勢を立て直して空を目指す。

 操縦者はノーンかプロイか、それとも全く別の誰かだろうか、と周囲に意識を向けたのは一瞬だ。すぐに無駄だと気づく。イェリコが日本から世界中のドローンレースに参加していたように、電波さえ届けばドローンはどこからでも操れるのだ。これだけの数の機体が互いにぶつかることもなく飛んでいるところをみると、リアルタイムで操縦しているわけではなく飛行ルートが事前にプログラムされていたのかもしれない。

「マルグッド!」

 イェリコはドローンをかき分けて、彼の腕を握る。太い腕だった。毎食、粥が大量に盛られていた大皿を思い出す。丸太を半分に割って中身をくりぬいただけの、粗野で重たくて、硬い手触りだった。彼の腕は、それに似ている。

「ドローンを止めて!」

「どうして?」

「だってあれは」空に浮かぶドローンの腹を指す。「この村のものでしょう? この村の、大事な薬だ。あれで軍への税金を支払っているって」

「あれがなにか、知っているんだよね?」

 ──芥子の汁、アヘン、麻薬。

 脳裏に閃いた答えに、イェリコは呼吸を止める。

 小学校の社会科の教科書に載っていたアヘン戦争の挿絵を思い出す。中国から茶葉を輸入しすぎたイギリスが貿易不均衡を解消するために売りつけたのが、アヘンだ。人を無気力にする中毒性の高い麻薬だ。

 マルグッドの大きな手が、ドローンの嵐をくぐって伸びてくる。イェリコの頭に重たく載る。子供をあやすように、髪をかき混ぜる。

「きみも、あれを口にした?」

 ラ・タオに返したばかりの竹の筒の手触りがした。いや、マルグッドの逞しい腕だ。もし頷けば、麻薬を口にしていたのだと知られてしまえば、彼はイェリコを罰するのだろうか。

「大丈夫だよ」マルグッドの手が、イェリコから離れていく。「もう大丈夫。帰ろう」

「……帰るって、どこに?」

「巣だよ」

 ドローンのモータ音に聾された耳を、緩やかな羽音が掠めた。花畑を飛ぶミツバチの──プロイとノーンの、囀りだ。

 白いドローンの群が──イェリコがこの三週間で組み上げた雄ミツバチたちが、その腹にラ・タオの薬を抱えて飛び立っていく。

 花から溢れ出た、黒い粘液から作られた、アヘンの塊だ。

 ざらりと視界が晴れる。朝靄もなく、ドローンたちもなく、日傘を広げたプロイとノーンを従えたマルグッドが立っている。黒いサングラスが彼の表情を隠している。

「この村に残るかい?」

 母が去った空港のざわめきが聞こえた。幻聴だ。

 今、ここでマルグッドに置き去りにされたら、イェリコはもうどこにも行けない。本当にひとりきりだ。

 イェリコは無自覚に手を伸ばす。マルグッドの裾に縋る。

 マルグッドは満足そうに息を吐く。リュックサックをイェリコに渡し、空いた手でプロイの腕を取る。

「きみはノーンを」

 日傘を広げてミツバチの羽音を囀る彼女たちは、視界を失っている。誰かが手を引いてあげなければ、この山道を下ることなどできない。

 イェリコはノーンの手を握る。イェリコより硬い、けれどラ・タオよりも柔らかい手だ。

 もう振り返ることはできなかった。「すぐ戻る」というラ・タオとの約束は守れない。イェリコはこの村から逃げ出すのだ。

 ラ・タオの大切な薬を奪って、逃げるのだ。

 プロイとノーンの囀りが妙に眠たい抑揚で響いている。ドローンの群を操っているのは、やはり彼女たちなのかもしれない。

 ならば彼女たちとマルグッドは、はじめからこの村の薬を狙って来たのだ。あの薬を奪うために、イェリコにドローンを作らせたのだ。

 空を仰ぐ。もう一機たりとも見当たらない。羽音すら聞こえない。空を舐めるように飛び立ったドローンたちは、百機以上いただろう。

 ドローンを組み立てていたのは、きっとイェリコだけではないのだ。マルグッドが毎朝出かけていたのは、別の村でドローンを作らせていたからだろう。

 この一帯から根こそぎアヘンを奪ったのだ。

 どうして、と考えるのは、やめた。考えたところで、イェリコにはその行いを正すことも罰することも告発することもできないのだ。

 イェリコはただ、マルグッドに捨てられることが、怖い。

 俯くイェリコの頭上を、甲高いモータ音が切り裂いた。ドローンだ。鋭い音からして、十字型の大きなタイプだろう。

 いやに近くを薙いだ音を追ってイェリコは顔を上げる。けれど視界に空はない。ノーンの日傘の内張が、鈍く輝いている。

 地響きがした。と思う間もなく、衝撃に背を突かれて無様に転ぶ。イェリコと手をつないだノーンは少しよろめいただけで、何事もなかったように立っている。

 立て続けに地響きがして、熱風が吹きつけた。鳥の声とも人の悲鳴ともつかない音が遠くから聞こえてくる。茂みから弾丸のように山羊が飛び出し、駆け抜けていく。村で飼われていた山羊だ。

 村に、なにかが起こったのだ。

「なにを……」

 したの? と続けることはできなかった。腕を引かれ、強引に立たされる。ノーンがイェリコとつないだ手を引っ張ったのだ。

「ああ」とマルグッドの、歌うような声がした。「人民軍の攻撃ドローンだろうね」

 嘘だ、と閃くように思う。

 ラ・タオは、近々人民軍がアヘンを徴収しに来ると言っていた。アヘンの量が少ないとひどいことをされると怯えていた。

 けれど人民軍はまだ来ていない。プロイとノーンが常に集会場の屋根にいた以上、軍の監視ドローンは役立たずだったはずだ。アヘンを盗まれたことも知らないだろう。

 人民軍が村を攻撃する理由がない。

 理由があるとすれば、とイェリコはマルグッドの背を見る。壁のようにそびえるマルグッドの長身と、傍らに寄り添うプロイの痩身と、空を遮る日傘とを順に見る。

 村を焼き払いたいのは、アヘンを盗んだマルグッドたちのほうだ。

 イェリコは踵を返す。それなのに、村へと引き返すための一歩が踏み出せない。ノーンとつないだ手が離せない。この手を離して引き返すということは、マルグッドと道を分かつということだ。こんな山奥で、水道も電気もない貧しい村と心中するということだ。

 マルグッドとプロイは止まらない。山道を危なげなく下っていく。

 ノーンの鼻歌が、ムームーとミツバチの羽ばたきを奏でている。村を焼くドローンを制御しているのかもしれない。彼女の日傘が曇天のようにイェリコを覆っている。

 雷鳴のような爆発音が轟いた。一拍して生木の焼ける甘い匂いが這い寄ってくる。乾いた熱風が吹き荒れる。それなのにひどく薄ら寒い。

 ラ・タオの不安そうな顔が浮かんだ。

 今から戻ったとしても彼女を助けられるとは限らない。上空を飛ぶドローンからの攻撃にイェリコは無力だ。

「……無力、なんだ」

 声に出して、自分に言い聞かせる。ざり、とスニーカの底で小石を擦って、踵を引く。マルグッドの大きな背に引き寄せられるように、緩慢に山道を下る。

 ノーンの日傘が枝を引っかけて、がさり、と鳴いた。

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