土 ②


 彼女たちが来て三週間が過ぎた夜のことだ。

 すっかり日が落ち、彼女たちが村に持ち込んだ充電ランプの明りも消え去り、村は寝静まっていた。

 うとうとしていたラ・タオは、誰かの気配に飛び起きる。月明かりが戸口から差し込んで青白い光の帯になっていた。

 侵入者は、プロイという名のフューンだった。ラ・タオは、彼女の名が宝石を意味するのだと知っている。本人が教えてくれたのだ。

「どうしたの?」とラ・タオは拙い英語で問う。

 プロイはにっこりと微笑むと、手招きをした。外へと誘っているのだ。

 こんな時間に家の外に出たことなどなかった。夜は獣たちの時間だ。それなのにプロイは怯える素振りもなく出て行ってしまう。

 ふと視線を感じた。眠っている母の傍らから、赤ん坊がぎょろりと目を剥いてラ・タオを見つめている。泣きもせず凝視される居心地の悪さに、素早く立ち上がる。家の戸口に掛かったすだれを跳ね上げて、外へと出る。

 涼しい風が抜けていた。湿気た土の匂いがする。

 高床式の家に掛かるはしごの下に、プロイがいた。いつも彼女が持っている布を巻いた杖は見当たらない。

「どうしたの?」と繰り返しながら、ラ・タオはプロイの隣に座る。

 プロイの上体が傾いた。ラ・タオの耳朶に唇が触れんばかりの距離で、「あなた」と囁く。

「この村から出たい?」

 思わず身を引いた。月光を受けたプロイの瞳がひどく近くで輝いている。

「え?」と瞬く間に、プロイもまた身を引いている。

「いいの。忘れて」プロイは短く息を漏らす。「イェリコの体調が良くないから、薬をわけてもらいに来たの」

 まるで囲炉裏の火を借りて行くような気軽さだった。もしこれが村の人なら納得しただろう。けれど相手は、母が異様に恐れているフューンなのだ。

「ねえ」ラ・タオはプロイの裾を引く。「フューンって、なに?」

「フューン? 花から花へと飛んで花粉を運ぶハチのことだよ。ミツバチ」

「あなたは……」

 あなたはミツバチなの? と問う言葉は呑み込んだ。代りに「エリコは」と言い直す。

「大丈夫なの?」

「明日、チェンマイの病院に連れて行くから、大丈夫」

「……もう村から出て行っちゃうの?」

「一緒に行く? たくさん人がいる町で、世界のために働くの」

「行きたい」と答えそうになって、慌てて首を振った。母が体調を崩している今、ラ・タオは毎日、村にひとつしかない水場に水を汲みに行き、弟たちの世話をし食事を作り、畑に出なければならないのだ。

 プロイは残念そうにも悲しそうにも見える顔で「そう」と囁いた。

 ラ・タオは居心地の悪さを覚える。プロイの声は朝霧めいた優しい響きを帯びている。村の口うるさい女性たちのような強さも、母のような湿度もない。それが少し、怖かった。

「ねえ」内緒話をするように、プロイは言う。「世界の一番の病気って、知ってる?」

「世界って中国のこと?」

「中国のほかにも国はあるんだよ。ミャンマーとかタイとか他にもたくさん……イェリコの国だってあるの。たくさんの国が集まるとね、戦争って病気が出てくるの」

 戦争って知ってる? と問われ、ラ・タオは黙って頷く。

 この村からも、何人も軍へと徴兵されていた。ラ・タオの姉もモン婆の孫娘もサイ・サイの娘も十一歳のときに徴兵され、今はどこか遠い戦場で炊事係として働いているはずだ。

「ずっと昔、人間はミツバチフューンの針を刺して、ハチの毒で病気を治そうとしていたんだ」

 ミツバチの針は、内臓とつながっている。だからミツバチに刺された場所には針とともに毒の入った袋が残される。毒針はミツバチから離れてなおビクビクと震えながら毒を注入するのだ。当然、内臓を失ったミツバチは死んでしまう。

「……エリコにもミツバチの針を刺すの?」

「エリコは針がなくても大丈夫。ミツバチの針はね、今は世界の病気を治すために使われているんだよ」

「あなたは……」

 ──ミツバチなの?

 プロイは静かに笑った。そのまま答えることなく、そっと立ち上がり夜の奥へと歩き去る。

 声が出なかった。花畑を飛ぶミツバチと、ミツバチフューンと呼ばれているプロイ。そして母はプロイやノーンを畏れている。ハチという言葉の指すものが曖昧になる。

 ラ・タオはその、形の定まらない混乱が怖い。


 爆弾が降ってきたのは、その翌朝のことだった。

 エリコが組み立てていたのと似た機械が村の上空を覆ったのだ。もっとも彼が組み立てていたものよりも大きい。機械たちは耳が引き裂かれそうな甲高い音を立てて村の上に停滞すると、腹に抱いた細長い筒状の爆弾をぽいと落として平然と去って行く。

 まるで花を選ぶミツバチのような飛び方だった。

 村のあちこちから、ぼたりぼたりと重たい音を立てて手や足の先、髪の毛が降り注いだ。ラオ爺のひしゃげた指や銀のブレスレットをつけたモン婆の腕が、村の誰かのどこかが、持ち主につながっていたときと同じように、ラ・タオの背や頭を叩いた。

 さあ立って、逃げて。そう励まされた気がして、ラ・タオは駆け出す。大きな爆発音から、村の人たちの激励から、逃げ出す。振り返りもせず、ただ走る。積もった枯葉で足を滑らせて、沢に転げ落ちて、それでも這うようにただ逃げる。

 どれほど走ったのか、気がつけば、どこかの国境警備隊の検問所にいた。周囲は暗く夜になっている。

 体は傷だらけで落ち葉と泥にまみれていた。サンダルはどこかに消えて、足の裏の皮がべろりと剥がれ木の枝が刺さっていた。体の震えが止まらない。警備兵が何事かを叫んでいるが、言葉がわからない。タイ語にも中国語にも英語にも聞こえた。

「な、ま、え」という単語が辛うじて理解できた。

「リィ、ラ……」

 瞬間的に、ラ・タオは言葉に詰まる。徴兵されていった村の人たちがどこの国と闘っているのか知らなかったのだ。ここがどこの国なのかもわからない。戦争をしている相手の国に逃げ込んでしまったのかもしれない。

「リィ?」

 警備兵は紙に『李』と記して首を傾げる。この字か? と問われているのだ。

 ラ・タオは小さく顎を引く。兵士の視線から逃れるように視線を『李』の字に落とす。

「リィ?」続きは? と言わんばかりに兵士の指が『李』の字を叩く。

「リィ……」

 ラ・タオという名を口にできなかった。リィは中国の名前だが、ラ・タオは違う。名乗るだけで別の国から来たのだと知られてしまう。

 兵士は苛立ちを隠すこともなくため息をついた。ペン先でトントンと書類を叩いてから、思いついたように綴る。

 ──Lee Ri

 どちらも『李』という名の綴りだった。もっともラ・タオにはわからない。

 兵士は仲間の兵士に書類を見せて、笑う。「リィ・ライ」と流ちょうな英語で発音する。

 ラ・タオには「リィ・レイ」と聞こえた。

 なるほど、とラ・タオは傷だらけの両手を見て、悟る。

 ラ・タオの村はなくなってしまったのだ。ミツバチフューンたちが世界を平和にするための爆弾で、燃えてしまった。だから今、ここに座っている泥と傷にまみれた自分はラ・タオではない。ラ・タオも村と一緒に爆ぜてなくなってしまったのだから。

 腰にはまだ、竹の筒が下がっていた。エリコから返してもらった筒だった。彼は、あのフューンたちは、村が焼けると知っていたのだろうか、と考える。

 知っていたからこそ昨夜、アヘンを持ち出すために家に忍び込んでいたのだ。プロイの優しい声音は、犯行に気づいたラ・タオを誤魔化すための演技だったに違いない。

 竹筒の中にこびりついた黒い粘液を爪で擦って、口に含む。えぐみが口に広がった。ひどく苦い。自分と、村の人たちの血の味だ。

「リィ・レイ……」

 ラ・タオは自分の新たな名前を、アヘンと血とともに噛みしめる。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る