土とミツバチ ⑤


 仕方なく、ラ・タオに引きずられつつ来た道を引き返す。中年女性も追い立てるようについてきた。口を閉じれば呼吸が止まってしまうかのごとく、中年女性はずっと話しかけてくる。言葉が通じていないことは理解しているはずだが気にする様子もない。

 中年女性の声に背を押されながら道を下ると、一面の花畑に出た。作業に励む村人たちの頭に巻かれた布が、花畑の中にあってなお色鮮やかな横一列を描いている。

 ラ・タオはイェリコの手を離すと、ビーチサンダルを脱ぎ捨てた。素足のまま、花の中に分け入っていく。

 近くで見るとイェリコの拳より大きな花だった。地面からまっすぐに伸びた太い茎の先に重たそうな蕾を載せているものや、緑色の実を結んでいるものと状態は様々だった。

 なによりも驚いたのは、花の背丈だ。大人と遜色のない身長を有するイェリコの、胸ほどもあるのだ。当然、ラ・タオの姿など花の中に沈んでしまう。

「ラ・タオ?」と見失った少女を呼んでみるが返事はない。

 バシッと背中を叩かれた。中年女性もまた、サンダルを脱ぎ捨てて花をかき分けていく。

 どうやら畑には素足で入るのが礼儀らしい。イェリコはスニーカを脱ぐ。靴下も脱いでスニーカの中に突っ込む。

 花をかき分けて一歩踏み込んだ途端に「痛っ」と悲鳴が漏れた。彼女たちがあまりにも当たり前の顔で入って行ったので気づかなかったが、尖った小石がごろごろと落ちている。土自体も乾いていて硬い塊となっていた。

 顔を上げて見回してみるが、花の波間に浮かぶ人々の頭は平然と作業を続けている。痛がっているのは、柔な足の裏を持つイェリコだけだ。

 数秒思案し、スニーカから靴下を引っ張り出す。土足がダメでも靴下ならば赦されるだろうと考えたのだ。

 果たして、花の隙間からひょいと顔を出した中年女性は、イェリコの足元を見るや笑い転げた。大声で何事かを言って、バシバシとイェリコの背を叩きつつ花の中へと連れ込んでくれる。人々が並んで作業をする列のど真ん中へと加わる。

 隣にいた老女が薄い金属のへらを握らせてくれた。全体的にすり切れて、握りやすいように緩く曲がっている。世代を超えて使い続けられているものであると感じられた。

「プンパイン、プンパイン」と裾を引かれて視線を下げると、いつの間にかラ・タオが傍にいた。

 プンパインとは自分のことだろうか、と戸惑うイェリコなどお構いなしに、ラ・タオは手近な芥子の実を掌で支えて見せた。茎の先に乗っかった緑色の球体は、彼女の掌からはみ出すほど大きい。

 黒い液体がべっとりと緑色の実を汚していた。夏の早朝、カブトムシだのコガネムシだのが集っている大木を思い出す。木から滲む樹液に似て、そのくせ腐った土くれをペンキで塗りつけたような臭いがした。

 思わず顔をしかめたが、ラ・タオも中年女性も気にしている素振りはない。指に黒い液体がつくのも構わず、金属のへらで実の下から上へと粘度の増した液体をすくいとり、腰に吊した筒へこそぎ落としていく。

 隣の実を、ラ・タオが笑顔で指した。言葉など通じなくともわかる。「やってみろ」と言っているのだ。

 見よう見まねで実をつかむ。思ったよりずっと硬く重たかった。黒い液体はべっとりとへばりついている。液体に触れたイェリコの指もベトベトと粘り、指同士がくっつくほどだ。

 昔、テレビで見た石油タンカーの座礁事故を思い出す。海に流れ出た重油が海鳥を搦め捕り汚していた。芥子の実の液体がついたイェリコの手は、さながら翼を広げることすらできない海鳥めいていた。

 苦労して黒い液体をへらで削いでいくと、緑色の実の表面に切り込みが入っていることに気がついた。黒い液体は自然に滲み出たわけではなく、人為的に傷つけられ、溢れていたのだ。

 つまり彼女たちはこの黒くて異臭のする粘液を収穫するために、花畑を作っているのだ。

「プンパイン」とラ・タオが楽しそうにイェリコの袖を引く。自らの腰に吊した筒を示して「ここに入れろ」と身振りと言葉で伝えてくる。

 イェリコは黒い液体のついたへらをラ・タオの筒の縁へとこすりつける。樹液のような粘った糸がへらと筒とを未練がましくつないだ。

 ラ・タオはクスクスと笑いながら、大きく頷いた。イェリコの仕事を認めてくれたのだろう。

 それが嬉しくて、次の実をつかむ。ラ・タオもまた隣の実をつかんで黒い液体を削ぎ取っていく。

 イェリコは黒い液体をへらの上に集めては、ラ・タオの筒へと入れていく。ふたりで並んで作業しているのに、ラ・タオを見失うことが何度もあった。

 彼女の作業速度が速すぎるのだ。イェリコがひとつの実をきれいにする間に、ラ・タオは三つの実をきれいにして四つ目に取りかかっている。いかに花が密集しているとはいえ、四つ分の差は大きい。彼女はすぐに花の向こうに消えてしまう。

 そんなときは大抵「プンパイン、プンパイン」と別の女性が近づいて来て、自分の腰の筒を示してくれた。それに気づいたラ・タオが花の奥から顔を出し、何事かを言って笑う。

 どうやら誰が一番多く収穫するか、という競争心は存在しないらしい。作業の列を乱すイェリコにいやな顔をすることもなく、気がついた者が当たり前の顔で寄り添ってくれる。

 気になるのは、誰もがイェリコを「プンパイン」と呼ぶことだった。おそらく彼女たちの言葉でなにかしら、イェリコの特徴を示すものなのだろう。とは思うものの、あまりにも「プンパイン」「プンパイン」と呼ばれるので、ラ・タオを呼び止めて、自らの胸を指し示す。

「イェリコ」と名を告げる。

 きょとんとするラ・タオの胸元を指して「ラ・タオ」と言う。

 それで通じたらしい。ラ・タオはぱっと破顔すると自らの胸を指して「リィ・ラ・タオ」と名乗る。どうやら名字があったらしい。

 それを皮切りに、畑にいた女性たちが口々に名乗り始めた。順番にひとりずつ、という親切心は持ち合わせていない様子だ。ほとんど同時に告げられる聞き慣れない名前の洪水に目を白黒させて、それでも必死に聞き取っては頷き返す。

 たったそれだけで、人々の視線とクスクス笑いが気にならなくなっていた。彼女たちはイェリコを嘲笑っているわけではないのだ。緩く波打つイェリコの髪を揶揄しているわけでも、日焼けで真っ赤になった肌が自分たちと違うと指さすわけでもなく、ただ見慣れぬ外国人が物珍しく新鮮なのだ。大方、貰われてきたばかりの仔犬が右往左往するさまを微笑ましく見守っているのと同じ感覚なのだろう。

 強烈な太陽光の下で、イェリコは村の人々と並んで花畑の液体を集めて回る。

 ──まるでミツバチだ。

 すん、と鼻を鳴らせば、芥子の実からあふれ出た黒い粘液の臭いが鼻を刺す。蜂蜜とは似ても似つかない悪臭だ。それなのに、何度でも嗅ぎたくなる臭いだった。

 キーン、とすさまじい耳鳴りがした。はるか頭上、よく晴れた午後の空に航空機が浮かんでいた。十字型のドローンだ。

 ちら、と空に視線をやったラ・タオが、すぐに顔を伏せる。イェリコは手を止めてドローンに目を凝らす。

 道中、ノーンが『捉えた』監視ドローンと同じ形だった。今、ノーンは村の広場にいる。ミツバチの羽音を囀っている。彼女はあのドローンを掌握しているのだろうか。

 そんなことを考えていると、強くTシャツの裾を引かれた。ラ・タオの仏頂面がひどく近くにあった。小さな唇が素早く動き、鋭い語気が発せられる。

 けれどイェリコは曖昧に笑うしかない。

「ごめん、わからないよ」

 英語で正直に告白する。

 イェリコの母は南アフリカから日本に来た。日本で、日本語をろくに喋れぬままイェリコを生み、十一年と少しの間育ててくれた。そしてイェリコもまた、英語以外の外国語をろくに話せない。世界中のドローンレースに参加するために、自室のパソコンにも自分のスマートフォンにも翻訳アプリを入れていたが、それも日本と英語、ごく稀にフランス語やドイツ語といった言語を利用するくらいだった。

 イェリコは「ねえ」と英語で呟く。通じないとわかっていながら、ラ・タオに問う。

「きみの話す言葉は、何語なの? どこの言葉なの? きみと……」

 話してみたい、と続けるイェリコの声を、ラ・タオは瞬きもせず見つめていた。笑いもせず真剣な顔で、イェリコの言葉を最後まで聞いていた。


 日が傾き始めると、人々は早々に畑をあとにした。

 とはいえ、イェリコが覚えているのは土塊と枯葉まみれになった靴下を脱いで、スニーカに素足を突っ込んだところまでだ。

 マルグッドに呼ばれたような気がして顔を上げた途端に、視界が暗転した。ヒヤッと頭が痺れるように冷えた。

 貧血だ、と思ったときにはもう乾いた土の上に倒れている。こんなときなのに周囲の女性たちがキャラキャラと笑っているのを、遠くに聞いた。


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