土とミツバチ ④


 花畑には下りず、イェリコたちは山道をさらに登っていく。

 いくらも往かず、また獣道の脇にある窪地に花畑が広がっていた。どうやら山を切り拓いて畑にしているわけではなく、たまたま開けていた場所を畑として活用しているらしい。たくさんの人が入って作業をしている畑があるかと思えば、花が揺れているだけの畑もある。

「春だからね」とノーンが呟いた。

「え?」と振り返れば、日傘の影の中でノーンが「春だから」と繰り返す。そのくせ彼女の瞳は焦点を結んでいない。道の脇を彩る花畑すら見ていない。

「芥子の最盛期なんだよ」

「え、芥子? 芥子って、あの芥子? この花がそうなの? アヘン戦争の、アレ?」

「そう。収穫期だよ」

 ノーンがゆっくりと瞬いた。眼球が左右に振れ、周囲を確認するように首を巡らせると、日傘を畳んだ。吹き抜けた風が彼女の上半身に巻かれた麻布を膨らませる。

「目的地だよ。わたしたちはしばらく、ここで暮らすんだ」

「オレも?」

「さあ? それはマルグッド次第だよ」

「きみたちも……芥子を収穫するの?」

「しないよ」ノーンとプロイの即答が二重奏になった。ふたりは互いに顔を背け合って「しない」と繰り返す。

「イェリコ」とマルグッドに呼ばれて顔を上げれば、彼は随分先で手招きをしていた。知らず歩調が緩んでいたのだ。

 小走りで追いつくと、先頭にいたはずの兵士の姿が見当たらなかった。

 マルグッドと並んで歩き始めるとすぐに倉庫が見えた。高床式の、木の建物だ。床下では痩せた茶色い犬と山羊とが並んで寝そべっている。犬の首に首輪はなく、つながれてもいない。来客が珍しいのか、犬はきょとんとした顔でイェリコたちを見送り、吠えることもしなかった。

 同じような倉庫の前を何棟も通り過ぎると、少し大きな建物に行き当たった。高床式であることには変わりないものの、床下に動物はいない。

 建物前の広場に、何人もの人々が集っていた。戦闘服姿の兵士もそこにいた。

 とはいえ、どれが一緒に歩いてきた兵士なのかはわからない。若い男性の大半が戦闘服を身につけているのだ。

 女性たちは一様に、Tシャツに黒いロングスカート姿だった。スカートの裾には赤や黄で鮮やかな刺繍がなされている。胸元には銀やガラスビーズの首飾りが光っていた。色鮮やかな布を頭や脛に巻いているのは、畑仕事のためだろう。足元だけが素足にビーチサンダルと、やけに無防備だった。

 誰もが興味深そうにマルグッドやイェリコ、ノーンやプロイを眺め回しては仲間内でクスクスと笑い合っている。

 不意に、心細さを覚える。小学校三年生のとき、クラス替えを終えた教室に入ったときのようだ。それまで親しくしていた友人たちが距離をとり、わざとイェリコに聞こえるようにクスクスと笑い合い指を差してきたあの日を、鮮明に思い出す。

 遅れて広場に到着したノーンとプロイは、端と端に陣取った。ふたりともが日傘を広げて羽音を囀り始める。まるで広場に集う人々を羽音で包囲し監視しているようだ。

 マルグッドは建物の前で中年男性と話し込んでいた。

 イェリコは段ボール箱を抱えたまま、手持ち無沙汰に立ち尽くす。誰もが自らの仕事をこなしているのに、イェリコだけが自分の仕事を見つけられずにいるのだ。

 役立たずの自分を村人たちがせせら笑っているような気がして、冷や汗が滲む。ひどい頭痛がしてきた。目眩まで覚える。

 学校に通えなくなった日の朝と、同じだった。

 どん、と背を叩かれた。危うく段ボール箱を取り落としそうになる。

 振り返れば、少女が目を大きく開いてイェリコを見上げていた。身長はイェリコの胸元辺りまでしかない。無理にイェリコを仰いでいるせいか、ぽかんと口まで開けている。

 少女が再び、何事かを言う。イェリコにはわからない言葉だ。辛うじて「プンパイン」という単語だけが聞き取れた。意味はわからない。イェリコが曖昧に首を傾げると、少女もまた不安そうに首を傾げた。

 イェリコが学校に行けなくなったころの──小学校三年生のときのクラスメイトと同じ年頃に思えた。腹の前で握りしめられた手の指は黒く汚れている。腰には黒いタールのようなものがこすりつけられた竹の筒が吊されていた。足元も、他の村人たちと同じくビーチサンダルだった。イェリコたちが通り過ぎてきた下の畑から戻って来たのだろう。黒くて長いスカートも、大人たちとおそろいだった。鮮やかな赤い刺繍が膝下丈の裾を彩っている。

「きれいだね」イェリコは努めて穏やかな語調の英語で言う。伝わるとは思っていない。それでも身を固くしている少女を安心させたかった。

「それ」と少女の裾を指す。「自分で刺すの?」

 少女は不思議そうにイェリコの指を眺めてから、あ、という顔をした。

「ロンジー?」

「ロンジ?」とオウム返しにしたイェリコに、少女はクスクスと笑った。自らの黒いスカートをつまんで「ロンジー」と繰り返す。ひらりと翻った裾の構造で、それが巻きスカートであることが知れた。

 どうやら刺繍ではなくスカートのことを褒めていると思われたらしい。イェリコは「まあいいか」と日本語で呟いてから、「うん」と頷く。

巻きスカートロンジー、素敵だね」

 少女はクスクスと笑うとつま先立ちになってくるりとその場で回った。脛に巻かれた白い布もサンダルを履いた素足も砂だらけで汚れているのに、妙にさまになるターンだった。

 イェリコも、いつの間にか笑っていた。冷たかった背筋が熱いほど温もっている。

「ラ・タオ!」という叫び声が聞こえた。少女は弾かれたように顔を上げる。もうイェリコには目もくれず、広場に集っている人々の群へと駆けていく。

 ラ・タオというのは彼女の名前だろう。

 冷静になって見回せば、少女の他にも子供たちはたくさんいた。女の子たちは黒い巻きスカート、男の子たちは戦闘服──ここまで段ボール箱を運んでくれた兵士が身につけていたものの、子供用サイズだ──というのが定番のようだ。中にはTシャツやポロシャツにゆったりとしたチノ・クロス地のパンツという格好の子もいる。

 あちこちでチカチカと眩い光が反射していた。女性たちが身につけている装飾品だ。対して男性たちはひどくラフな格好だった。そして男女問わず何人もの大人が銀色のパイプをくゆらせている。日本で嗅ぐ煙草とは違い、枯れ草を燻したような匂いが漂っていた。

 村長らしき中年男性が建物へと入っていき、青年たちが続いた。

 それを合図に広場に残っていた女性と若者たちがバラバラと去って行く。どうやら物珍しさからイェリコたち見物しに来ていただけで、招集がかけられていたわけではないらしい。

 すれ違う女性たちが次々とイェリコに声をかけ、イェリコが戸惑う様子を他の女性たちがクスクスと笑う。そういうことが続いて、気がつけば広場にはノーンとプロイ、建物の入り口に座り込んでパイプを吸う老人と地面を嗅ぎ回る豚、そしてイェリコだけが残されていた。

 どうしていいのかわからず、イェリコは段ボールを抱えたまま動けずにいた。ノーンとプロイは相変わらず日傘を広げて空を仰いでいるので、訊くわけにもいかない。

 と、Tシャツの裾を引かれた。見れば先ほどの少女──ラ・タオが背後の道を指していた。

 一緒に行こう、ということだろう。けれど勝手に広場から出るわけにもいかない。せめてマルグッドに一言告げてから、と大きな建物とラ・タオとを見比べていると、「アイ!」と大きな声がした。

 ラ・タオの背後から大股で近づいて来た中年女性が、あっという間にイェリコの腕から段ボール箱を取り上げ、地面に置いてしまう。

 大声で何事かを叫びながら段ボール箱をしげしげと観察した中年女性は、ニカッと歯を見せて笑うと、節くれ立った指でやはり道の先を示す。返す手でイェリコのリュックサックも奪い取り、段ボール箱の横に置いてしまう。

 ラ・タオがイェリコの腕をつかんだ。力強く道を下っていく。

 助けを求めて肩越しに広場を振り返ったものの、ノーンとプロイはもちろん、建物の入り口でパイプを吹かす老人とも視線は合わなかった。

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