5

    土とミツバチ ⑥

〈5〉


 ふっと目を開けると、薄水色に染まった世界が広がっていた。木の梁が渡された天井が高いところで滲んでいる。

 どこだっけ? と寝返りを打ったとき、見知らぬ中年女性と目が合った。母ではない。そう判断した瞬間に跳ね起きる、はずが、上手く立ち上がれずに顔から倒れ込んだ。

 いつもの──自室のベッドではない。硬い床に置いた寝袋に入って眠っていたのだ。

 中年女性が豪快に笑った。彼女の首元で銀のネックレスがチカチカと輝いた。その明滅と声の大きさで、イェリコは自分が芥子の花が咲き乱れる村にいることを思い出す。

 広い部屋だった。壁は土で塗られており、梁からは小動物の燻製や乾いた草などが吊られている。床には丸太をくりぬいただけの大皿めいたものが重ねられていた。

 中年女性は、部屋の中央部に据えられた囲炉裏を掻いていたようだ。ラ・タオと一緒にイェリコを花畑に連れて行ってくれた女性だった。確か名前が。

「サイ・サイ?」

 いまいち自信がなかったのだが、中年女性は驚いたように目を見開いたあと嬉しそうに頷いた。

「おはよう」と言ってから、そういえばこの村の誰とも言葉は通じないのだ、と思い出す。

 それでもサイ・サイは豪快に大口を開けて返事をしてくれた。言葉がわからなくとも、挨拶を返してくれたことはわかる。

 挨拶以外にも言葉を並べてから、サイ・サイは立ち上がる。手には細い薪を握っていた。彼女が部屋を横切るのに合わせて、仄かに灯った炎の残光が尾を引いた。

 サイ・サイが出て行った戸口からは霧にかすむ木々が見えた。部屋と外とを隔てるのは、簾めいた戸一枚なのだ。トツトツと木で木を叩くような音に雑じって、ニワトリや豚の声が聞こえてくる。いがらっぽい臭いがしているので、焚き火が熾されているのだろう。部屋が薄水色に染まっていると思ったのは、焚き火の煙のせいなのかもしれない。

 部屋にはイェリコひとりきりだった。隅に丸められた寝袋がまとめて置かれている。マルグッドとノーン、そしてプロイのものだろう。みんな、すでに起床しているのだ。

 イェリコも寝袋を丸めて部屋を出る。湿気た土の匂いがした。昨日の苛烈な太陽が嘘であったように涼しい。Tシャツ一枚では肌寒いほどだった。今さら、三月だと実感する。

 高床式の出入り口に掛かったはしごを下りて振り返れば、イェリコが眠っていたのは昨日、マルグッドが村長らしき男性と入っていった大きな建物だった。

 はしごを下りたすぐ横には焚き火が熾り、石を積み上げた囲いが作られている。

 広場ではサイ・サイが大きなざるを振るっていた。彼女の腕の動きに合わせてビーズの腕飾りが色鮮やかな光を放ち、ざるから舞い上がった薄茶色い米粒が翻り、籾が散る。足元に陣取った豚とニワトリが競い合うようにこぼれ落ちた籾や米粒をむさぼっていた。

 イェリコは急に空腹を自覚する。思い返せば、この村への道中でコンビニエンスストアセブン-イレブンの軽食を口にしたきり、ろくに食事を摂っていなかった。今が夕方なのか朝なのかも判然としないが、腹の空き具合から時間を割り出すことも難しい。

 マルグッドはどこだろう? と広場から延びる数本の道を見比べる。山から下る道の先には花畑が広がるばかりだった。イェリコは山を登る道へと向かう。木々の隙間を縫うように進むと、すぐに高床式の建物が密集している場所に出た。草葺き屋根から細く煙が上がっていた。暖をとりつつ食事の用意をしているのだろう。

 ふわっと甘い匂いがした。懐かしさを覚えてから、その理由を考える。

 母が思い浮かんだ。奈良の、夏でも底冷えのするあの古い家の台所に立つ母の背が閃くように脳裏をよぎった。そういえば母は日本料理を作るばかりで、母の故郷の料理などついぞ口にした記憶がない。

「エリコ?」

 ラ・タオが一軒の家から出てくるところだった。イェリコを認めて、嬉しそうに声を弾ませる。相変わらず言葉はわからない。イェリコという名前の発音も怪しい。それでもイェリコはホッとする。

 高床建物のはしごを危うげなく駆け下りてくるラ・タオの装身具は、サイ・サイより控えめだ。黒い巻きスカートに刺繍された赤が、朝焼けのようだった。

 矢継ぎ早に話しかけてくるラ・タオに、イェリコは苦笑する。言葉が通じなくとも心配されていることはわかる。彼女の気持ちがわかるのに、答えるすべがないことがもどかしい。

 ラ・タオは笑顔を崩さぬままイェリコの腕を引くと、家の前にイェリコを座らせた。

 傍らには石積みの即席コンロがあり、金属の鍋が載せられている。もうもうと湯気を上げる中身はボソボソと音を立てている。水分が足りていないのだ。

 ラ・タオは木べらで鍋をかき回しながら話し続けている。ときどき「マルグッド」や「プロイ」という名前が聞き取れた。

「マルグッド、どこにいるか知ってる?」

 ラ・タオは言葉を切って首を傾げる。

「マルグッド」とイェリコは彼の名だけを繰り返す。訊きながら、スッと腹の底が冷えていくのを感じていた。

 母は、イェリコを空港のカフェに置いたまま黙って消えた。あのときはマルグッドが来てくれた。もし彼が来なくとも、自分がどこにいるのかがわかっていた。日本国内の、自力で帰ろうと思えば可能な場所だった。

 けれど今は違う。言葉ひとつ通じない国の、どことも知れぬ山深くの村なのだ。マルグッドなしには空港にすらたどり着けないだろう。

 そんなイェリコの怯えを余所に、ラ・タオはあっさりと腕を上げた。家々の切れ目から山道が続いていた。

 のっそりと熊めいた足取りでマルグッドが現れる。大きなポリタンクを提げていた。

 安堵の息が漏れる。暑くもないのにドッと汗が噴き出した。

 マルグッドはイェリコに気がつくと歩調を速めた。ポリタンクが相当重たいのか、一歩ごとに体全体が左右に振れていた。

「もう起きても大丈夫なのかい?」

「うん。おはよう。誰もいないからびっくりした」

「水を汲みに行っていてね」マルグッドはポリタンクに視線を落とした。「ミツバチたちには頼めないからね」

「次はオレが行くよ」

 少しでも手伝いを、と申し出たイェリコに、マルグッドは無表情で頷く。当然だ、という雰囲気ではなかった。彼の表情筋が機能していればきっと笑っていたのだろう、とイェリコは考える。不思議なもので同じ無表情でもそこに滲む感情が少しばかり読み取れるようになっている気がした。

 マルグッドはイェリコの背を押して「戻ろう」と言う。

「サイ・サイが朝ご飯を作ってくれる」

 ラ・タオが小さな声で呼び止めるのが聞こえた。たぶん、一緒に食事を摂ろうと誘ってくれているのだろう。

 イェリコは申し訳ない気分になりながら、肩越しに振り返って手を振る。「あとでね」と別れの挨拶をする。

 ラ・タオの寂しそうな表情が見えた。その背後、高床式の家から赤ん坊を抱いた女性が出てくる。ラ・タオの家族だろう。女性はイェリコに視線をやると「プンパイン」と呟いたようだ。けれどほかの人々とは違い、笑みを浮かべることも話しかけてくることもなかった。興味がない様子ですぐに家に引っ込んでしまう。

 避けられたのかもしれない、と思いながらイェリコはマルグッドに伴われて山道を下る。たぷんたぷん、とマルグッドのポリタンクからは水が揺れる音が響いてくる。

「プンパインって、どういう意味なの?」

「ん?」とマルグッドはイェリコに視線を落とす。「誰かになにか言われたかい?」

「言われても言葉がわからないんだけど……みんな、村の人たちがオレをプンパインって呼ぶんだ。なにか、悪口?」

「ああ」とマルグッドは頷いた。すぐに「いや」と首を横に振る。「悪口ではないよ。プンパインというのは、白人という意味だ」

 イェリコは腹の底が冷えるのを感ずる。小学校で、クラス替えの後に「ガイジン」と指を差された記憶が鮮明によみがえる。

 マルグッドは静かな口調でゆっくりと「悪口ではないよ」と繰り返した。

「この村ではスマートフォンがつながらないからね。テレビもないし、ラジオだって余所の国の言葉でしか放送されていない。情報がないんだよ。とても閉ざされている。だから、この村の人々が知っている国はこの村があるミャンマーと、戦争状態にあるタイと税を徴収しに来る中国くらいのものなんだよ」

「え、この村、タイと戦争をしているの? オレたち、タイから来たよね?」

「少数部族が支配している地帯がたくさんあってね。そういう細かい場所を、彼らはざっくりとタイだと思っているんだよ。そういうザマだから」

 はっとマルグッドが短く息を吐いた。嘲笑だろうか、とイェリコは彼の横顔を窺う。変わらない無表情からは、苛立ちめいた感情が伝わってきた。

「彼らの知らない国から来た外国人はみんな、まとめて白人と呼んでいるだけだよ。きっと白人の国があると信じているんだ。そんなモノ、どこにもないのにね」

 マルグッドは大きなため息をついた。水の満ちたポリタンクの重みに疲れたことを装いつつ、この村への嫌悪感を吐き捨てたのだろう。おそらく、マルグッド自身も「白人プンパイン」と呼ばれているのだ。そして彼はそう呼ばれることを嫌っている。

 イェリコは口を噤んで、マルグッドの機嫌を窺う。彼の苛立ちを紛らわせる話題を探す。今朝はまだ彼の仲間に会っていないことを思いだした。

「そういえば、プロイとノーンは? 水場?」

「仕事中だよ」マルグッドの無表情が、無感情に告げる。

「ミツバチの?」

「そう」と言ったきり、マルグッドは黙り込んだ。彼女たちの仕事について説明するつもりがないのだろう。

 失敗した、とイェリコは唇を噛んで俯く。マルグッドの機嫌を読み誤ることが怖かった。彼に見捨てられることが、なによりも怖かった。

 不意に頭が重たくなった。マルグッドの分厚く大きな掌が、イェリコの頭を撫でている。

「帽子があればよかったね」

 幼子を気遣うようにも、ただの独り言にも聞こえる声音だった。マルグッドはイェリコではなく前だけを見つめている。傷痕の刻まれた横顔は、やはり無表情のままだ。

 それでもイェリコにはわかる。彼は怒ってなどいないのだ。機嫌を損ねてもいない。よしんば機嫌が悪かったとしても、それをイェリコのせいにはしない。

「ううん」イェリコは戸惑いながら、マルグッドの横顔に応える。「帽子は、嫌いだから、要らないよ。顔が見えないと、怖いんだ」

 そう、とマルグッドは呼吸の延長で囁いた。それきり口を閉ざす。

 イェリコは緩みそうになる唇を引き締める。マルグッドに捨てられることは、まだないのだと思えた。

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