血のカパル・チャルシュ ③

〈一〉


「え?」と、ゆいイェリコは腰をかけていたベッドから立ち上がる。白いVRゴーグルの下で焦げ茶色の目を瞬かせて、間抜けに「え? は?」と繰り返す。

 数秒前まで、イェリコはイスタンブールにいた。少なくとも、イェリコの視界は丸屋根のモスクが建ち並ぶトルコの旧市街にあった。レンガ造りの町並みの隙間を、蛍光色の光が示す飛行ルートに沿って高速で翔け抜けていた。

 イェリコは、世界的なドローンレースに操縦者として参加していたのだ。

 それなのに、白壁に穿たれた門をくぐり屋内市場に入ってしばらくすると視界が乱れた、と思ったときにはフリーズしていた。美しいトルコランプが吊られた店と、二十cm前を飛んでいた一位のドローンの残像とがイェリコの眼前で静止している。

「え? なんで……」

 呆然と呟き、VRゴーグルを外す。十一歳の、幼い少年の容貌が露わになる。

 途端に現実が眼前に突きつけられる。古い畳に染みついた家の匂い、裸足の裏が捉える薄っぺらいカーペットのささくれ、顔を上げれば黄ばんだ襖がすぐ近くにある。

「なんでだよ!」

 苛立ちに任せて床を踏みつけた。その勢いでベッドから立ち上がる。吊り下げ式の照明に頭をぶつけて、さらに苛立ちが増した。部屋の隅に置いたファンヒータから寄越される生ぬるい風すら煩わしく思える。

 VRゴーグルをベッドに投げ捨てると、軽く弾んで壁にぶち当たった。

 壁には青いフレームの小型ドローンが飾られている。イェリコが初めて手にした機体だ。赤く大きな二台目はその隣に、三台目、四台目と数が増えるほどにドローンの大きさや色が変り、壁から天井へと留まる場所を広げていた。中にはイェリコ自身がひとつずつ部品を取り寄せて組み上げたものもある。

 イェリコは足音を立てて部屋を横切り、窓際に置かれた学習机に向き合う。

 学習机に置かれたディスプレイにはVRゴーグルの中と同じ光景が──ドローンカメラが捉えたトルコの屋内市場が、映し出されていた。やはりランプ屋の前で止まっている。

 イェリコは椅子には座らず、立ったまま机の上のキーボードに手を置いた。

 春には小学校六年生になるイェリコにとって、この学習机は小さすぎるのだ。椅子に座ると、膝が邪魔で机から遠ざかってしまう。イェリコが小学校に入学するときに、父が買ってくれた机だった。天板を覆うビニルカバーの下では、当時子供たちの間で人気だったアニメのキャラクタがサムアップをしている。もっとも。その顔は黒い油性ペンで塗りつぶされていた。

 イェリコが塗りつぶしたのだ。

 小学校三年生のクラス替えから急にクラスメイトの態度が変わった。イェリコを『ガイジン』と呼んでは、指を差してクスクスと遠くから笑った。理由などわからない。

 イェリコには自分の白っぽい肌も焦げ茶色い瞳も緩く波打つ黒髪も、周囲の子供たちと同じように見えていた。けれどクラスメイトにとっては違ったのだ。

 しばらくしてイェリコは学校に行けなくなった。学習机に描かれたキャラクタの視線すら気になるようになった。だから机の横に吊られた水色のランドセルの中には、小学校三年生用の教科書が詰まったままだ。

 そして小学校六年生になろうとする今、もはやクラスメイトにも学校にも興味がなかった。

「オレは、優勝するんだ……」

 イェリコは感圧式のディスプレイに触れて、フリーズしたトルコの画像を最小化する。ランプのきらめきと、ほんの二十cm前にいる一位のドローンとを画面の外へと追いやる。

 メールアプリを起動させ、ドローンレースの運営から来ていた参加承認を伝えるメールを呼び出し、問い合わせアドレスへとアクセスする。

 画像が停止した旨を日本語で記し、再試合の要求を書き綴る。運営側から提供されたモデムの不調かもしれない、と努めて冷静な文章で主張する。最年少参加者だから、と軽く扱われないように、自分のしたためたメールを読み返し言葉遣いを何度も訂正する。

 これ以上、誰かに嗤われるのはいやだった。

大人の綴る文章と遜色のない出来になったことを確認し、イェリコは自動翻訳アプリを通してメールを英語へと変換する。ディープ・ラーニングを重ねた自動翻訳アプリは、下手なネイティブより正しく美しい英文を作成してくれるのだ。

 変換が終了するまで、いつもより時間が掛かっている気がした。

 イェリコは手持ち無沙汰に学習机の向こうの窓へ視線をやる。漆黒の夜に、ぽつりぽつりと灯りが散っていた。民家の軒灯だ。そこここに横たわる広大な田畑は闇に沈み、黒々とそびえる山並みが鼻先まで迫っている。

 奈良の、ひどく静かで寂れた夜だった。ベッドサイドの置き時計を見れば、午後八時を過ぎている。開いている店などない時間だった。

 イェリコは俯く。カーペットの下、一階の食卓では両親と祖母とが食事を終えたころだろう。最後に家族の食卓に誘われたのはいつだっけ? と考えかけて、やめた。

 ぽん、と小さな電子音がイェリコを我に返らせてくれる。翻訳が終ったのだ。

 ディスプレイに並んだ英単語の羅列をざっと眺めてから、メールを送信する。

 遠隔操作をともなうドローンレースにトラブルはつきものだ。きっと再試合が設定される。優勝して賞金を得て、スポンサーを募る。そうしてプロのドローンレーサーとして、この家を出るのだ。

 十一歳のイェリコはそう確信している。それ以外の未来など考えていない。

 だから見逃した。気に留めていなかった。

 フリーズしたトルコの光景の隣に表示されたコメント欄は、目で追えないほどの速度で流れていた。ドローンレースを観戦していた世界中の人々が矢継ぎ早に書き込んでいたのだ。

『爆発?』

『屋根に男の子が倒れてなかった?』

『地獄にいる』

『また爆発した』

『血の海だ』

 ──ドローンが爆発した

 ──自爆ドローンによるテロだ

 騒然とする画面の向こうなど知る由もなく、イェリコはディスプレイの前を離れる。わざと大きな足音を立てて部屋を出た。廊下を踏み鳴らし、階段を下りる。

 しん、と静まった一階の廊下には細く居間から漏れる明りが延びている。食卓についた家族の誰もが、イェリコの足音を聞いて息を殺しているのだ。

 はは、とイェリコはわざと声を立てて嗤う。小学生の子供相手に怯えている大人たちを、嗤う。

 日本人の父はもちろん、南アフリカ出身の母ですら、イェリコよりも背が低かった。母の白い肌と薄茶色い髪、そして青い瞳こそが『ガイジン』なのだと、イェリコは知っている。

 母の子供であるせいで、自分はクラスになじめなかったのだ。だから、こうなったのは自分のせいではない。そう、イェリコは信じている。

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