血のカパル・チャルシュ ④


「エリちゃん……」

 不意に背後からかすれた声がした。

 イェリコは身を固くする。驚いたことを悟られないように大きく舌打ちをしてから、振り返る。

 誰もいなかった。視線を下げれば、イェリコの胸の辺りに白いフワフワとした髪の塊があった。祖母──父の母だ。袢纏で着膨れているせいで、少し押せばどこまでも転がっていきそうだ。

「エリちゃん、もうちょっと静かに下りなぁアカンよ。お父さん、びっくりしてまうからね」

 祖母はイェリコを『エリちゃん』と呼ぶ。おそらく愛称ではない。祖母はイェリコの名を『エリ子』だと思い込んでいるのだ。

「女の子みたいな名前付けて……やっぱりガイジンサンの考えることはわからんねぇ」

 祖母がそう近所の人に漏らしているのを耳にしたのはクラスメイトに『ガイジン』と揶揄される少し前のことだった。当時はよく理解できていなかったものの、小学校高学年にもなればもうわかる。

 イェリコを『ガイジン』と呼んだのは、祖母なのだ。イェリコの母ともども祖母にとって、そしてこの小さな田舎町にとっては、異物なのだ。

 だからイェリコは腹の底から、ドローンの力強いプロペラを思い描きつつ怒鳴る。

「うるせぇ、ババア!」

 途端に、外から犬の声が応えた。隣家の大型犬だ。イェリコの怒声が届いたのだろう。

 小学校二年生までは、あの犬ともよく遊んだ。茶色いフワフワとした毛並みが大好きだった。飼い主のおばさんも、イェリコを見かけるたびに手招きをして犬を撫でさせてくれた。

 それも、学校に行かなくなってからは疎遠になっている。

 飼い主のおばさんは明らかにイェリコを避けている。急に背と声が大きくなったイェリコに怯えている。犬だけが、イェリコの苛立ちを理解するように吠え返してくれる。

 イェリコは足早に廊下を抜けキッチンに向かう。冷蔵庫から使い差しのスライスハムのパックを取り出し、食パンを袋ごとつかんで二階に駆け戻る。

 学習机の上のディスプレイには、メールアプリだけが表示されていた。

 返信が来ていないことを確認し、イェリコはベッドに倒れ込む。手探りで食パンを取り出し、顔にパンくずが掛かるのも無視してむさぼる。

 喉に詰まった。飲み物を持って来なかった自分の間抜けさを認めなくなくて、ドローンレースが上手くいかなかったせいで気持ちが塞ぎ込んでいるのだ、と思い込むことにする。

「大丈夫。きっと大丈夫。オレは優勝できる。レースはやり直しになる。大丈夫」

 オレは貴重な最年少参加者なんだ、と自分に言い聞かせ、イェリコは壁に手を伸ばす。青いドローンを掌に載せる。

 学校に行けなくなったイェリコに、父が買ってくれた最初の一機だ。

「空は自由に飛べるんだよ」

 そう言った父の台詞が嘘だと、もう知っている。日本の空は自由ではない。ドローンを飛ばすためには許可を得なければならない。

 イェリコは投げ捨てたVRゴーグルを被り直し、コントローラを握る。チャンネル選択を青い機体に合わせると、眼前にイェリコ自身の間延びした顔が現れた。ドローンに搭載されたカメラが、イェリコと対峙しているのだ。

 ドローンのモータ出力を上げると、プロペラが回転を始める。モータ音が鼓膜をびりびりと振動させる。

 機体がふわりと浮き上がる。風圧が頬を冷やした。視界の中の自分が小さくなる。

 それだけだ。イェリコのドローンは吊り下げ式の照明の下で彷徨い、ベッドへと戻ってくる。この部屋以外のどこにも行けない。

 イェリコはVRゴーグルを外して、学習机の上のディスプレイに顔を向ける。不意の中断さえなければ、イェリコはまだトルコにいたはずだった。迷路のような古い街並みを定められたルートに沿って飛び抜け、大きな吊り橋を渡り、塔へと到達していたはずだ。

「自由になんて、飛べないんだよ」

 イェリコは青いドローンを胸に抱いて、ベッドに倒れ込む。

 隣家の犬は、まだ小刻みに吠え続けていた。

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