血のカパル・チャルシュ ②


 当時、ドローンというものの存在を知らなかった彼にはなにが起こったのか、わからなかった。トウモロコシ畑はあっという間に燃え上がり、火に巻かれた妹も両親も、骨すら残らなかった。

 妹はまだ六歳だったのに、と彼は鼻歌を奏でるたびに思い出す。あの日失った右腕の肘から先が鈍く痛む。炎の中で必死に妹をつかんだ腕だ。けれど妹を助け出すことはできず、彼自身の腕もひどい火傷で肘から先を切断することになった。

 きっと寂しがり屋の妹が兄の手を持って逝ったのだ、と彼は考えている。天国で自分の右腕だけが妹に寄り添っているさまを想像するだけで、心が慰められた。


 だから今、彼は日傘をさしてカパル・チャルシュの壁の上にいる。人々に荷を届けるドローンが制御不能にならないように、ルートを外れたドローンが誰かを道連れに墜ちないように、妹の鼻歌を介して監視する仕事を選んだのだ。

 彼は壁を踏み外すこともなく、正確に8の字を描いてステップを踏む。全方位へとまんべんなく、体ごと日傘を向ける。日傘の中に反射した彼の鼻歌とドローンたちの電気回路とが光の奔流となって彼の脳へと流れ込む。

 赤いチェック柄の頭巾クーフィーヤの下で、彼は忙しく瞬く。その実、その瞳は何も映していない。

 脳に流れ込む膨大な情報を処理するため、彼らは視覚を閉ざしている。脳の大部分をドローンの情報を処理するためだけに使うように訓練されている。

 そのせいで彼はカパル・チャルシュ前の広場の向こう、赤茶けた瓦をいただく二階建ての屋上から自分を見つめている者の存在には気づかない。彼が感じ取れるのは電気回路で飛翔する機械の蜂だけだった。

「んー」と歌う彼の鼻に砂交じりの風が当たる。時折、ずず、と鼻水をすすり上げる。寒さは苦手だった。

 彼は鼻歌の切れ目に、あれ? と首を傾げる。

 肘から先が失われた右腕と、五指が残る左手とで日傘を握り直す。角度を調節して、脳内に満ちる音の反響に意識を集中させる。

 旧市街の縁を掠め飛ぶ運搬用ドローンたちに異変はない。ならば彼の意識を乱したのは旧市街に入り込んでいるドローンだろう。そう見当をつけたものの、旧市街を飛び回るそれに意識を向けることは躊躇した。

 レースに参加するドローンに干渉してはいけない、とから強く言いつけられているのだ。ドローンの飛行プログラムに干渉できるミツバチが意識を向けることは、それ自体が不正を疑われる可能性を帯びていた。

 彼はドローンの脆さを、その飛行プログラムの単純さと機体の不安定さを、よく知っていた。だからこそ一呼吸、戸惑った。

 戸惑ったあげくに、ドローン自体へ意識を向けることを止めてしまった。

 彼は少しだけ傘を上げる。鼻歌の音程を調節して金角湾に掛かるガラタ橋の向こう、新市街を監視しているミツバチ仲間の少女へとアクセスを試みる。

 湾の向こうからならば、レースに影響を与えることなく旧市街のドローンの異常を探れるかと考えたのだ。

 けれど仲間の周波数が捉まらない。彼の鼻歌は仲間の日傘を見つけることができないまま新市街へと拡散し、弱まり、消えていく。

 仲間たちは──もちろん彼自身も──常に脳をオープン状態にしている。仲間同士の鼻歌は干渉し合い調和し、意識無意識を問わずお互いの持つ情報を共有し合うのだ。

 それなのに、と彼は自らの違和感に青ざめる。体を捻ってボスポラス海峡の向こう、アジア側で病院を守っているはずの仲間の周波数を探す。

 なんの反応もなかった。ガラタ橋の向こうの少女もボスポラス海峡の先の仲間も、いないのだ。

 攻撃的な甲高いモータ音が足下からせり上がる。レースに参加しているドローンの羽音だ。彼の鼻歌がかき消される。

 周辺区域の仲間が沈黙している理由は、ひとつしかなかった。仲間たちが持ち場を離れることなど考えられない。仲間たちは鼻歌を歌えない状況にあるのだ。

 ──おそらく、死体となっている。

 彼は肩から傘を下ろす。傘の中で増幅されていた彼の鼻歌が止む。思い出したように人々の喧噪が押し寄せた。

 彼は異常を報告するべく左耳に装着した通信機の電源を入れる──寸前で、

 彼の鼻から口から血が噴き出す。塀の上に膝をつく。もし彼が視野を取り戻していたなら、自分の胸に穿たれた穴を見たかもしれない。勢いよく溢れた血がオリーブ色のシャツガラビーヤを黒く染め、白い壁を伝い、オスマントルコ帝国の国章を汚すさまを見ただろう。

 そして通りを挟んだ建物の屋上に立つ男が、自らに銃を向けているのを目にしたはずだ。

 けれど、そうはならなかった。

 彼は日傘に縋る。妹の鼻歌を歌う。血と呼吸が混ざった鈍い音しか出なかった。

 五機のドローンたちが、彼の足下を飛び抜ける。カパル・チャルシュの白い壁の中へと吸い込まれていく。複雑に入り組んだ路地の左右に所狭しと店が並んでいる屋内市場だ。観光客だけでなく地元の人々が、子供たちが買い物に訪れる平和で美しい、閉鎖空間だ。

 彼は霧散しかける意識のすべてをカパル・チャルシュに侵入したドローンへと向ける。大きさの割に、重たかった。妙な回路が存在している。

 授業で習った、と彼はぼんやりと思い出す。プラスチック爆弾を抱えたタイプだ。電源を切り、電気回路さえ遮断してしまえば爆発しない。墜としても大丈夫だ。妹のような犠牲者は出ない。

 そう安堵した瞬間──彼は顔面を撃ち抜かれて褐色の瓦屋根に倒れ込む。呼吸は止まり、鼻歌は消え、瞳に空が映り込む。

 彼を射殺した男は慌てる様子もなく立ち上がり、ゆっくりと踵を返す。

 すでにドローンたちカパル・チャルシュの奥深くへと侵入している。人々の喉を潤してきた噴水の直上で、ガラス製のランプに目を輝かせる子供の頭上で、赤ん坊を抱いた店番の目の前で、ドローンたちが爆ぜる。腹に塗りつけられていたプラスチック爆弾が爆発し、練り込められていた鉄球や釘が勢いよく四散する。

 驚きに悲鳴が上がり、唐突な死の静寂が半秒だけ流れ、苦痛の呻きと恐怖の絶叫とが屋内市場を満たしていく。

 それを合図に、新市街からドローンたちが流れ込む。路地に隠されていた筒から飛び出した棒状のドローンが四方へ翼を開き、あらかじめ設定されていたルートに乗る。頭に爆弾を搭載した自爆ドローンたちが、腹に投下型爆弾を抱えた蜘蛛めいたドローンが、旧市街のあちこちで爆ぜる。

 もはやドローンを監視し妨害する彼はいない。ミツバチは心臓と脳幹を撃たれて、屋根に転がっている。雄ミツバチドローンたちは自由に旧市街を飛び回る。

 人々が引き裂かれ、血にまみれている。人々の肉体を貫いた鉄球や釘が建物の壁にめり込む。地面に溜まった血で滑った男を女が踏みつけて逃げていく。

 そんな惨状をよそに、カパル・チャルシュの屋根は静かだった。太陽光に温められた瓦には少年が横たわっている。鼻の下を撃ち抜かれ、後頭部からは頭蓋骨の欠片がはみ出していた。彼の体の下に広がる血は淡い湯気を立てている。

 着弾の衝撃でとろけた脳は、けれど彼からこぼれることはなかった。銀色の薄い膜が、彼の脳を支えていた。

 ミツバチたちが鼻歌を介してドローンや仲間たちにアクセスするための媒体だ。繊維状の情報処理端末で脳を包んだミツバチ彼らを心ない者は『杭を打たれた者スティッカード』と揶揄する。生来の脳の機能を奪われた者だと、哀れむ者もいる。

 けれど屋根に横たわる彼の口元は、緩んでいる。ひしゃげた顔で、それでも穏やかに笑っている。

 彼は、トウモロコシ畑から妹を助け出す夢を見たのかもしれない。

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