とある夫婦の……①
2024/04/13①
夢を見ていた。
幼い頃の夢だ。
今どきの子は知らないだろう。
男だ女だ、こうしろああしろ、セクハラ、パワハラなんて当たり前で、ところ構わず誰もが煙草を吸っていて、学生運動で暴力が飛び交い、地面にはいまだアスファルトの敷かれていないところばかりだった。
貧乏だった。
制服も教科書も学帽も鞄もなにもかもが近所の人からのお下がりだった。
ベークライト――世界初の合成樹脂でプラスチックの元祖みたいなもの――で出来た真っ赤なコップが女みたいで嫌だった。
幸いだったのはそういう近所付き合いがあったことだった。
机なんてちゃぶ台しかないもんだから、段ボール箱の上で勉強していた。
当時には珍しく一人っこだった私だが、父も母も別段特に可愛がる様子もなかった。
好きにさせとけば勝手に育つだろう。
そういう時代だった。
ある日、父が勉強は好きかと聞いてきた。
「きらいです」
「馬鹿野郎」
何故か怒られた。それもぶん殴られた。
その日から国語の教科書を音読させられた。
あとで知ったことだが、父はあまり漢字が読めなかった。
読めば、父は喜んだ。
まあ、ラジオ代わりだ。
大工だった父は、急に立派な椅子と机を拵えてくれた。
狭い貧乏長屋ではそんなもの置く場所もなくて、母にしこたま怒られ、外に置かれた。
そこで、毎晩、銭湯に行った帰りに本を読んだ。
神棚から持ってきた蝋燭をつけて、薄明かりの中で声を出して読んだ。
近所の爺婆までやってきて、寄席のようになった。
あれもこれもと皆、本を持ってきてくれた。
ある日、なんとなく藁半紙の裏に物語を書いた。
日記の延長のようなものだったが、何故か物語のように書いた。
母がそれを見て、読んでちょうだい、と言ってきた。
母は家事ばかりだったから、興味がないと思っていた。
読むと、もっと書きなさい、と鉛筆と藁半紙を用意してくれた。
父は、そんなもんに金を使うんじゃあねえ、と母と喧嘩していた。
新聞配達のバイトができるようになったときは最高だった。
約束の時間よりだいぶ早く来ては連載小説や記事を読み耽った。
そこの社長は気のいい人で、快くよませてくれた。
偏るといけねえから、と文豪の小説や名著、雑誌からなにまで、好きに読みな、と置いていってくれた。
社長の奥さんも私が聞けば、いくらでも教えてくれた。
幸い、貯めたバイト代で学校に入れた。
苦学生だったが、その頃にはもう書いていた。
ただひたすら書いていた。
書きたいものは尽きなかった。
書きたいもののために勉強した。
学生寮の近くの古本屋の店主は気前のいい人で、貧乏学生である私に気を遣って、血眼になって立ち読みする私に、茶でも飲みな、と席を用意してくれた。
読んで、書いて、読んで、書いた。
書くことしかできなかった。
飯も、酒も、女も、煙草も、なくてもいい。
ただ、書くことだけはなければいけなかった。
そう思っていたけれど、飯はうまいし、酒は楽しいし、煙草もよい。
恋にも落ちた。
そのどれも、書くことでしか表現できなかったが。
幸い、書くことで少しづつそれを手に入れた。
賞を取り、連載できるようになって、コテンパンにされ、それでも私の紡ぐ言葉を望んでくれる人がいた。
だから、書き続けた。
いや、居なくても書き続けたのだろう。
でもそれは、沢山の人に支えられて出来上がった文章だ。
ただの単語の羅列ではない。
私が、人を介してもらったもの全てを賭した、意味のある文章だ。
魂のこもった、想いの塊だ。
例え大衆小説と言われようと、消費されるのが前提のエンターテイメントであろうと、私は書く。
書くこと以外、何も出来ないのだから。
そして何より、書きたいのだから。
――真っ白い天井があった。
LEDの光は眩しくて、もう少しなんとかならんのか、と思った。
話し声がする。
うまく頭に入ってこないが、何やら悲観的な声が、三つ。
ゆっくりと横を向こうとすると、頭部に痛みが走った。
視線だけで横を見ると彼が見えた。
私の息子――ではないが、そうも思えるような気風のいい男。
横にいる彼の奥さんは、泣いていた。
なにをそんなに泣くことがあるのか。
かわいそうに。辛い目にあったのか。
素直にそう思った。
ああ、そうか。
私は、猫を避けようとして倒れて……
泣いている彼女を誰かが抱きしめた。
妻だった。
今にも泣きそうな顔で、見たこともないような悲しそうな顔で、消え入りそうな薄幸の面が、とても美しいと思ってしまった。
だから
「君はそんな顔も美しいのだな」
そんな言葉が出た。
「……あなた!?」
「先生!!」
こらこら、なにを驚くことがあろうか。
泣くんじゃない。
「丸一日も眠っていたんですよ……泣きもします。彼が通り掛からなかったらどうなっていたか」
そうか、そうか。
いや、運が良かった。
「……いつもあの橋で煙草を吸うんです。そうしたら先生が……」
そうか。ありがとう。
君がいてくれてよかった。
ああ、それにしても――
「先生、本当によかった」
ははは、君まで泣かんでもいいだろう。
「何を言うんです!わたしたちだって親みたいなものだと思っているんですよ!」
「そうですよ、先生。先生も奥さんも、俺たちにとって大事な人たちなんです」
そうか……いや、なに、すまんことをしたなあ。
「あなた、あなた」
そう言って胸に縋ってくる妻を、動かない右腕でかろうじて抱き止める。
私は恵まれているなあ。
こんなにいい夫婦に慕われて、おまえにこんなに好いてもらえる。
「当たり前でしょう!どれだけあなたを想っていると……想ってきたと想っているんですか!わたし以外にあなたの面倒を見られる人なんて、いませんよ!」
そうだな。そうだ。ありがとう。
「もう……心配ばかりかけて、いい機会ですから、少しゆっくりしてくださいな。過労と急激な運動で血圧が少し高いらしいですよ。目まいがあったのもそのせいだろうって、お医者様が言ってました」
そうか。そうなのか。
いや、しかしな――
そこで、起きた私の診察に当直医と看護師がやってきた。
「幸い、ぶつけたところも擦り傷程度ですし、検査結果もなんともないので、何日か様子を見て退院しましょう」
言われ、安堵する面々。
大袈裟な、と思っているのは私だけなのだろう。
「ご家族から聞きましたけど、ご年齢を考えたらだいぶ無茶をしていることを自覚してくださいね」
そう言ったのは婦長らしき看護師だ。
「何分、性分でして、ご迷惑をおかけしました。気をつけます」
そう素直に謝った。
年配の経験というやつだろう。
「そういう人はなかなか変わりませんから、ほんっとうに気をつけてください」
気の強い婦長だ。おもしろい。
世の中、おもしろい、いい人がたくさんいるもんだ。
当直医と婦長が退出していく中、若い二人が言った。
「本当に、無理しちゃだめですよ」
ああ、心配かけたなあ。
本当に君たちはいい子たちだ。
人のために、これだけ想える。
なあ、おまえもそう思わないか?
「ええ、ええ。本当にそう」
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