書きたい小説家
2024/04/11
喫煙者には肩身の狭い時代になった。
健康増進法やら税の話やら、小難しい話は省くが、兎にも角にも昔のようにどこかしこで吸えるような時代は終わった。
町のタバコ屋は消え、コンビニでは電子タバコに切り替えろとうっとおしいくらいにキャンペーンが目に入る。
簡易的な喫煙所は消え果て、喫煙できる喫茶店や居酒屋を探すのも一苦労であり、換気を重視して作られた新しい喫煙所も、ニコチンとタールを求めて幽鬼のように死んだ目をした喫煙者がごった返す。
それには、たいそうな売り文句でごうごうと音を立てる換気扇も負ける始末で、入ったら最後、衣服や髪にまで煙が染み渡り、街行く人は眉をひそめる。
そんな時代、ご家庭のほうでも漏れることなく「くさい」「煙い」「体に悪い」と追いやられ、換気扇の下はもちろん、ベランダで吸おうものならご近所さんから文句の嵐と、どうにもやっていられない。
幸い、私の妻は理解があるのか諦めているのかわからないが、特になにも言われない。
妻の健康にも悪い、とわかってはいてもやめられないのは私の心の弱さだろうか。
そうなのだろう。
そこで同じく理解ある不動産屋の知り合いに用意してもらったのが別宅だ。
入居時から、前の住人が十五年も使い込んだ壁紙も何もかも張替えもなにもなし、さらには原価滅却年数分の家賃を一括で支払う密約の元、許してもらった。
後から聞けば、数年住めばどうせ業者を入れて綺麗にするのだから、特に何も言われないとのことで少しばかり騙されたような気にもなったが、あの時はそういうことを世間が注目していたころだったし、どうせ払うもんは払うのだ。
そう思えば、商売上手め、という感想しかでなくなるものだから、私も単純である。
しかしながら、喫煙者というのは、このような立場であるから、人のいない、人通りの少ない場所を探しては携帯灰皿を片手に彷徨い、ひっそりとこの趣味だか中毒だかわからない行動に明け暮れるのだろう。
私にとっては趣味の側面もある煙草。
そうは言っても普段から酒の友に、仕事の友に、気分転換にとぱかぱか吸っているわけだが、稀に外で吸いたくなることがある。
澄み渡る夏の青空の下、紅葉が散る最中のベンチ、凍てつく冬の朝、今にも降り出しそうな曇天を見つめながら煙草に火を着け、一息ついたところでポツポツと降り始める、なんてのは堪らなくよい。
悲しみに暮れ、大雨に打たれ、コートとハットで少しばかりの屋根を作り、カチカチとオイル切れ間近のライターで火を灯す。
心に火が灯るように決意を新たに、あるいは紫煙と共に感情を吐き出す。
映画のようなワンシーンに浸るための小道具なのだ。
と、言えば馬鹿馬鹿しいだの、格好付けだの、散々言われるのはわかっているので、ただの中毒者であるということにしている。
そういうわけで、私は煙草には断固とした哲学を持っている。
暖かい一日だった。
昨日と引き続き、いい陽気だった。
本宅にそのまま寝泊まりして――寝泊まりも何も私の家なのだが――きっちり朝、目覚めた。
目覚めると同時に湧き上がるのは書きたいという情熱だった。
しかし、なにが書きたいのか。
それがわからない。
そんなこんなで一日中、うんうんと頭を捻らせ、首を傾げ、書斎の本を漁ってみたり、たまには映画やテレビを見ようとしてみたり。
どれもピンと来ず、落ち着きのない子どものようにうろうろとしていた。
そんな私を見て妻がくすくすと笑っていたが、それも気にならないほどに悩んでいた。
私の創作意欲はどこへ行ってしまったのか。
アイデアという奴は一体どこから湧いてくるのか。
そう考えると、霞がかった朧げなものがあるような気がするのだから、タチが悪い。
脳の電気信号が途中で途絶えているような、何かに気付いているのにせき止められているような感覚は気持ちが悪い。
それは夜まで続いた。
夕飯時、あまりにも私が一日中唸っているのを見かねたのか、珍しく妻が
「たまには夜の散歩でも行ってきたら如何ですか。一日中、家にいて出てこないのだから気分転換なさってください」
と、言ってきた。
それもそうだ、そうしようと外に出た。
暖かい夜だった。
上着もなくていいほどだった。
せっかく外に出たというのに、私は辺りを見もせず、同じような所をぐるぐると回っては、行き交う人々の声をバックミュージックにして、唸っていた。
ふと、気がつけば辺りはすっかり静かになっていた。
時計を見ると、すでに二時間も歩いていた。
それだけ経っているというのに、私がいたのは最寄り駅の裏手だった。
帰るか。
頭をぽりぽりと書き、情けなさに溜息が出る。
さっさと帰ろう。
そう思って、前を向くと、そこには橋があった。
鉄筋とコンクリートでできたその橋は、古い治水工事でできた用水路の上を跨ぎ、同じく川を渡る電車の線路沿いにあり、人がすれ違う程度の幅しかない。
出入り口は坂ではなく階段になっており、先は狭い路地に繋がっているし、明かりといえば電灯がひとつあるくらいのそれは、人通りもないようだった。
なんとなく、その橋を渡ってみようと思った。
架線を通る電車がまだ一日は終わってないとばかりにごうんごうんと音を立てる。
喧しいそれが通りすぎるのと同時に階段を登り終える。
静寂が響き、耳が音を拾い始める。
川の水の音。
跳ねる魚。
そよぐ風が草を揺らす。
遠くで人の足音。
駅前の喧騒。
民家から聞こえる、人の声。テレビの音。
笑い声、子どもの声。
赤子の鳴き声。あやす大人。
仲睦まじい、あれは夫婦だろうか。
月明かりが、煌々と輝いていた。
脳が、神経が、感覚が、すべてが沸騰したように熱くなった。
電気信号が体を駆け巡り、それらがすべて繋がっていく。
目の前を見ると、橋の上に、一匹の猫がいた。
真っ白い、大きな猫だ。
猫が、みゃおう、とひと鳴きする。
すると、渡った先の影から、斑柄の猫がひょこっと顔を覗かせた。
そして、大きな白い猫のところまで来て、じっとこっちを見つめたあと、二匹は橋の先へと歩き始めた。
「待っ……」
なぜか私はそれを追おうとした。
猫たちは驚いたのか、急に反転し、私の足元を走って通り抜けようとする。
それを踏むわけにはいかない、と踏ん張ったときだった。
「しまっ…!」
しまった、と思ったときには遅かった。
歳を重ね、衰えた肉体。慣れない草むしり。
休みを取ったとはいえ、過労働。
足を滑らせながら、思う。
瞬間、目の奥で火花が散った。
熱い。
ただ熱かった。
耳鳴りが響いていた。
走り去った猫たちは無事だっただろうか。
私はちゃんと避けられただろうか。
もやのかかった目で見ると、飛び出てきた猫に驚いたスーツの男が声をあげていた。
そしてその男は、男だろうか、男だろう、おそらく。
橋の方――私を見て言った。
「……えっ、先生……先生!?」
男だ。彼だ。昨日の彼だ。
幻覚ではないだろう。きっと。
幻覚なら、私はよほど君が気に入っているようだ。
君ら夫婦のことが。
ああ、そうか。
そうなんだな、私は。
こらこら、ゆするもんじゃない。
大丈夫だから。
私は大丈夫だから。
今度、救命措置について教えてやろう。
なに、私はその手のものも書いたことがある。
知識だけは、そう、知識だけは豊富だぞ。
紙と、それと、ペンを。
なんなら、その辺の石でもいい。
地面に書けばいい。
「先生、今、救急車来ますから!」
大袈裟な奴だ。
ああ、息子がいたら、こんなだったのだろうか。
まあ、いい。
妻が心配するだろう。
帰らねば。
もやがどんどん濃くなる。
眠い。
すこしだけ、ほんの少しだけ眠ろう。
――書きたい。
小説が、書きたい。
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