書けない小説家

2024/04/10



 差し当たって、悩んでいた。

 なんのことはない。

 小説のネタの話だ。


 一昨日のやりとりのあと若き血潮に触発された私は、中途であった原稿を仕上げてしまった。

 しっかりと十二時間も書き通して、ここ数ヶ月の苦労はいったいなんだったのかと思うほどすんなりと書き上がった。

 出来上がった原稿をいつも通りデータとして担当の奴に送りつけたところ、ただ一言


『お疲れ様です』


 とだけ帰ってきた。

 目の前のことに躍起になってしまう熱い魂は今も健在のようで、今頃はあのデビューを控えた新人の娘とあれだこれだとやりあっていることだろう。

 これについて、他の作家陣や編集者と話をしたときに話題のひとつとして上がったことがあった。

 人からみると、どうにもこれは奴の悪い癖、と判断されるらしく、多いに話は盛り上がった。

 私としては心底腹立たしかったが。


 まあ、そんなこんなで私も一仕事終え、昨日は妻と花見に繰り出し、春の色合いを存分に堪能してきた。

 そしてそのまま本宅で寝泊まりし、今朝もすっきりと目が冷め、妻の作った朝食を堪能したというわけだ。


 そうしていると存外、平和という幸せはこういう日々の積み重ねだな、としみじみと思う。


 落ち着いた生活に慣れていないのか手持ち無沙汰になって散歩にでも行こうとして外に出たところ、ベランダで洗濯物を干す妻の姿が見えた。

 そして目の隅に、青々と伸び放題になった庭の雑草たちが見えたので、草むしりを初めてみた。


 普段、そんなことをする柄ではない私を見兼ねた妻が、そんなんじゃ汚れますよ、と軍手と鎌、麦わら帽とタオルを持って来てくれた。

 この歳になって、草むしりもまともにできぬのだから情けないものだ。

 素直に受け取って、やり方を教えてもらい、しばらく続ける。

 半分もやった頃にはへとへとで、お天道様が真上に差し掛かっていた。


「一気にやってしまわないで、そういうのは朝か夕の涼しい時間に毎日やればいいんですよ」


 声をかけてきた妻の手にはおぼん。

 茶と握り飯が置いてあった。

 庭の水道で手を洗い、縁側に座ると、茶を一気に飲み干した。

 夢中でやっていて案外汗を書いていたようで、茶と握り飯の塩気が身体に染み渡っていくのを感じる。


 ふう、と一息吐くと、空を見上げる。

 少しばかり雲はあるが蒼く澄み渡るような春の空だ。


 ふと、心に言葉が過ぎる。


 ――書きたい。


 どうにも私はあの若者たちに触発された熱が燻っているようだった。

 まだ握り飯を頬張っている妻を尻目に、立ち上がり伸びをする。


 すると、くらっと立ちくらみがして、座り込む。


 慌てて妻が心配そうに声をかけてくれた。


「大丈夫ですか?」

「いや、なに。慣れないことをして体がびっくりしたのだろう」


 再びゆっくりと立ち上がると、次は特に問題なく立つことができた。

 ゆっくりとストレッチをしていると、今日はこの辺にしておいてくださいな、と言われ、大人しく片付けに入った。


 風呂が沸いている、というので真っ昼間にも関わらず、頂くことにする。

 しっかりと温まって昼風呂を堪能した。

 湯気と共に心までほかほかとした心地でタオルを首にかけ、リビングに行くと、ちょうどチャイムが鳴った。

 はて、と思っているとパタパタと妻が掛けていった。


 どかりと一人掛けソファに座り込み、煙草に火を着ける。

 紫炎を燻らすとともに、思考をめぐらせる。


 ふと、心に言葉が過ぎる。


 ――書きたい。


 されどなにを書こうか。

 それが問題だった。


「あなた、お客さんですよ」


 気付くと妻がリビングの入り口でそう言っていた。

 こんな偏屈作家のところに誰が来るのだろうか。

 候補は少ない。

 そう思っていると入ってきたのは二人の男女――とある夫婦だった。


「お久しぶりです。先生、お元気でしたか」

「なんだ、君か」

「なんだはひどいなあ」


 私の冗談をきちんと冗談と受け取ってくれる彼――夫の方は心底楽しそうに笑ってくれた。

 彼女――奥さんの方もいい加減、私の物言いになれたのかくすくすと笑っている。

 妻のほうは、まったく仕方ないという顔で私を見ていた。


「どうしたね、急に。また何かあったかな」

「勘弁してください。そう、頻繁に何もありませんよ」

「それはいい知らせだ」


 彼ら夫婦は、私の貴重な友人だ。

 こんなくだらない偏屈な会話に、きちんと答えてくれる。


「近くまできたので、ご在宅かなと思って寄らせていただいたんです。先生、これお好きでしょう?」


 そういって彼女が差し出してきたのは、商店街にある名店の苺大福だった。

 好物なのだが、道すがら立ち寄る機会もないのでなかなか口にすることがないものだ。

 

「おお!すまないなあ!ありがとう!」

「本当にありがとうね、今、お茶を淹れてきますから食べましょう」


 妻がそういうと、手伝います、と彼女も着いて行った。

 彼の方はというと、慣れた所作でソファに座った。


「どうかね。最近は」

「おかげさまで。先生のおかげで仲良くやってますよ」

「私は何もしとらんよ。少し話しただけだ」


 彼との出会いは偶然だった。

 去年、喫茶店で相席したときに話したのがきっかけだった。

 私がどうも書けず悶々としていたところに彼がいた。

 話を聞いてもらったお礼に、となにができるわけではないが電話番号を書いた紙を渡したのだ。

 今思えば、なぜあのようなことをしたのかはわからない。

 今時、喫茶店で行き合って、偏屈老人の話に耳を傾けてくれる彼という存在に惹かれたのかもしれない。

 それかなにかしら神や仏がいるとすれば思し召しというやつなのかもしれない。

 とにかく、私は電話番号を書いた紙を渡したのだ。

 連絡など、こないと思っていた。

 というか、渡したことなどすっかり忘れていた。

 それが数ヶ月経ったある日、突然、掛かって来たのだ。

 その時の彼ときたら、ひどく座礁していた。

 人生の暗礁に乗り上げていた彼は、うれしいことに私を頼ってくれた。

 私は彼を本宅に招き入れ、話をした。

 それが功を奏したかどうかは別として、彼は自分で答えを出し、彼女と話し合い、その問題を解決した。

 それ以来、私に恩を感じているのか、度々こうして顔を出してくれている。

 私たち夫婦には、子を成すことはできなかったのもあるし、二人とも、気風のいい子たちで、私も妻も彼らが好きだった。

 彼らが、どう思おうが、私は彼らが好きだった。


「先生?大丈夫ですか?」


 少し、ぼうっとしていたようだ。


「ああ、いや。ちょうど昨日、一仕事終えたばかりでね。それというのになんとなく草むしりなんてしていたもんで。いやあ、慣れないことはするもんじゃない」

「ああ、お疲れのところでしたか」

「なあに、まだまだ元気だよ。実を言うと、書きたくてうずうずしているんだ」


 ほほう、とばりに彼の顔がずいと寄ってくる。

 そうこなくては。


「次はどんなのを書くんです?」

「それがなかなか思いつかないのだよ。いつもなら、ぱっと浮かんでくるんだがなあ」


 それからああだこうだと話をしているうちに、妻たちが茶と苺大福を持って来てくれた。

 苺大福の甘酸っぱさに舌鼓を打ちながら、世間話に明け暮れた。


 あっという間に時間は経って、彼らは帰っていった。

 見送りに出ると、いつまでも振り向いて手を振ってくれる仕草はまるで我が子が旅に出るような物悲しさがあった。

 それを察したのか


「先生!また来ますからね!」


 と彼女の方が大輪の花を咲かせたような笑顔で言った。

 そして彼らはどちらからともなく手を取り合い歩いていった。


 からん、ころんと下駄の音だけが響く。

 妻と並んで玄関に入る。


「彼女、たまに一人でも来てくれるんですよ」

「そうか」


 私がいない分、彼女が妻の寂しさを埋めてくれているのだろう。


「本当に、娘と息子ができたみたいだな」

「ええ」


 彼らへの感謝を噛み締めながら言う。

 と、その時、下駄を脱ごうとして躓いた。


「あなた!大丈夫ですか?」

「ははは!草むしりのせいか。年波には勝てんかな」

「まったくもう。ご無理をなさらないでください」


 茶化してみたものの、きっとこちらを見つめ言う妻。


「わかったよ」


 少し、考えなければいけないな。

 そう。

 考えなければいけない。


 だから、今日は書かない。   

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