歳には勝てぬ

 2024/04/08①




 気を張っていても駄目なときは駄目、というのが人間である。

 そこにどれだけの注意をはらっていようが関係ない。

 人の持つ気力というのは決まっているのだ。


 そうして眠い目をこすって右手に握りしめたままのスマートフォンを見る。


 そこにはいくつかのメールのやりとり――情けない私の姿が描写されていた。


 朝。

 

『もう読み終わったんですか!?ありがとうございます!本当にありがとうございます!いつでも時間空けますので先生のご都合のよろしい時にでも……

 すいません、感動して言葉がでてこなくて。』

『大丈夫。君の感情が伝わってくるメールで私も心躍ります。しかし、些か疲れがあるのは確かなので、ここで睡眠を取ることにします。』

『わかりました。ゆっくりお休みになってください。』


 昼。

『すまない。もう少し寝かせて欲しい。何分歳のせいか思うようにいかないことを痛感している。』

『もちろんです。私は大丈夫ですから、体をお大事になさってください』


 夕。

『先生?大丈夫ですか?』

『だめdあたまがまわらない、大変申し訳無いがまた後日でもかまわないだろうk

 ぶれいなわtしをゆるsてょしい』

『大丈夫です!私のことは気にしなくていいですから、寝ましょう!』

『smん』


 翌朝。

『おはようございます。調子はどうでしょうか』

 

 そして昼。

『担当の方に先生のことお聞きしましたから、どうぞお気になさらずゆっくり休んでください。(本心です)』



 そして今日だ。

 

 ぐっすり、寝た。

 丸一日と半分。


 無理はするものでじゃあない。

 自分の体を過信していたわけではないが、私はもはや死に体であることを忘れていた。

 それもそうだ。

 年から年中、ろくな運動もせずに書いて読んで飲んでの繰り返し。

 かろうじて生きているのは気分転換の散歩と妻の栄養バランスの整った料理のおかげ。

 ともすれば担当の奴が事あるごとに私を外に引っ張り出す口実を見つけてくるのも、私の健康を願ってのことだったかもしれない。

 そう思えば、奴にも感謝のひとつでもしたくなるが、メールの文言が気になる。

 彼女は、奴から何を聞いたのだろう。

 どうせろくでもないことなんだろう。

 まあ、事実であるから仕方がない。


 そう切り替えて伸びをする。

 寝すぎて体がバキバキだ。

 風呂にも入っていないから服が張り付くようだし、何より自身が煙草臭い。

 とりあえず風呂にでも入るか。


 と、その前に、メールを送る。


『心配をお掛けして大変心苦しく思います。無事、生還を果たしましたので本日、まこと急ではございますが貴女の御予定と合わせ検討して頂ければ幸いです。』


 送ったあたりで風呂が貯まる。

 湯船に半分くらいが私の好みだ。

 シャワーで体の汚れを入念に流し、浸かる。

 公衆浴場では失礼に当たる行為だが、家だとこれができる。

 肌をふやかすようにしてから洗うのが好きなのだ。

 寝そべるようにして体を浴槽内に埋めると、心地よい湯がちょうどよくすっぽりと覆ってくれる。

 そのまま三十分、なにを考えるでもなく頭を空にするのだ。

 思考のギアを落として、エンジンを切る。

 はじめの十分は、あれだこれだと考えてしまう。

 次の五分で、ぽつりぽつりと浮かぶ程度に変わる。

 そこから無心で何も考えられなくなる。

 そうしているとやけに心も頭の中も静かになって、周りの音が響き始める。

 水滴、換気扇、私の心音、ともすれば水道管を流れる水の音まで聞こえてきそうなほどに、溶け合う。

 そして、思うのだ。


 「暑い」


 十分に体が温まった合図だ。

 エンジンに火が入り、ギアを上げる。

 慣らすようにゆっくりと、だ。

 湯船から出ると、石鹸とタオルを手に取り、擦り合わせる。

 私は根っからの石鹸派だ。

 それも昔ながらの牛乳石鹸。

 こいつを丹念に泡立て、頭から爪先まで一気に洗ってしまう。

 近頃は、男であってもリンスだコンディショナーだ、乳液だなんだと言うが、私はこれでいい。

 これがいいのだ。

 髪なんぞ、指通りの悪いごわごわだが、これはこれで味がある、というものだろう。

 指通りの良い髪は女の特権で、我々男が髪だ肌だに気を使ってしまえば、女はさらに気を使わなければという風潮になるような気がする。

 諸問題や個人の意見などあるだろうが私はそう思っているので、これがいいのだ。

 

 そうしておまけに髭を剃り、整える。

 あとは全身を入念に流して終わりだ。


 さっぱりした。

 風呂を出ると、外気が心地よい。


 ちょうどスマートフォンの光が見えたので、手を取る。


『ちょうどそちらの方に出ているので、二時頃から空いてます』

『では、その頃に。担当へは私が連絡します』


 それだけ送って、電話をかける。相手は担当の奴だ。


『もしもし』

『あ、起きました?彼女、心配してましたよ~』

『二時。先の喫茶店だ。』

『先生……いいですけど、別にいいんですけど、それで通じるの僕だけですからね……』

『何を言うか。妻もわかってくれるぞ』

『奥様のご苦労が伺える話をどうもありがとうございます。二時ですね?わかりました』

『よろしく頼む』


 そう言って電話を切る。

 人が聞けば不愉快かもしれないが、じゃれ合いのようなものだ。

 奴も声色が喜色めいていた。

 私も楽しい。

 さて、軽くなにかを食べて、行くか。

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