20 雨の中

 それは私自身が、自分が完全に悪いと言い切れるようなトラブルだった。


 夏季休校中にやるはずではあったんだけど色々理由があって延び延びになっていたフィールドワークのために、とある山奥の神社へと教授と私たち生徒の何人かで来ていた。


 けど、行きに車を出してくれた教授はどうしても帰らなければいけない用事が出来てしまったから、彼だけ先に帰ることになった。


 水無瀬さんも、良かったら一緒に帰る? とは言われたものの、公共交通機関もあるし子どもじゃないし大丈夫ですと、私ははきはきとして答えた。


 残った他の皆とはまだ神社で少し調べたいことがあるからと言って別れて、その時既に私は一人行動になった。


 山頂の神社の神主さんからの話を聞かせて貰った時に、「台風も近くに来ているし、早い時間に帰りなさい」と言われた。


 今日日本に向かって台風が来ていることは知っていたけど、私は個人的にとある史跡も見ておきたかった。田舎好きの私にとっては堪らない、以前から気になっていた良い感じの苔むした史跡がその場所にはあったのだ。


 時計を見れば台風が直撃するだろう真夜中の時間帯には、まだまだ十分に余裕があった。


 バスに乗って山を降りれば、すぐに電車に乗るための小さな無人駅はある。交通機関が確保出来ていれば大丈夫だろうと、思ったのが運の尽きだった。


 そして、私は長時間道に迷った。


 迷い迷ってようやくバスに乗り山をやっと降りられた時にはもう遅い。バスを降りる時に運転手さんから大丈夫かと確認されたけど、笑顔で手を振った。


 けど、電車は運行を見合わせていて、スマホで検索しても近くに宿はない。


 田舎にある屋根が付いたバス停の下で、私は一人嵐の夜を過ごすことになってしまった。


 もしかしたら、向こうの方にポツンと見える近くの民家を訪ねれば、一晩泊めてくれたかもしれない。けど、見知らぬ人の家に泊まるというのは、都会育ちの私には心理的にハードルが高過ぎるし正直に言えば怖かった。


 もちろんだけど、見渡しても人通りは0。どこを見ても人っ子一人居ない。そこはまるで、誰も住んでいないゴーストタウンのようだった。それも当たり前のことだと思う。台風が来るのに、無防備に外に居るなんて。


 もしかしたら、日本で私一人だけかもしれない。


 スマホがブルブル震えて取り出せば、その人の名前を見ただけで思わず嬉しくなってしまう人からの着信だった。


『水無瀬さん。俺。帰って来るの、遅くない? 今どこにいるの? 電車に乗ってる? 近くまで迎えに行こうか?』


 今日、帰りに家に行くはずだった芹沢くんは、なんでこんな時間になっても私が来ないのかと、答えを聞きたい疑問が沢山あると思う。


 けど、こんな最悪な事態を招いたのは、完全に私が間抜け過ぎるだけなので、彼にどう説明すれば良いのか迷って言葉に詰まってしまった。


 今にも雨が降り出しそうな空へと視線を上げれば、ドス黒い厚い雲が流れて来た。これから荒天の中で外で過ごすなんて嫌なんだけど、状況的にはそうするしかない。


「……芹沢くん。ごめん。今日、もう電車止まって。私。帰れなくなっちゃって」


『え? 水無瀬さん、今どこ?』


「今日フィールドワークで行った、お寺のある山の麓。駅の近くにある、バス停に居る」


『待って。外なの? ……宿は、取れたの?』


「検索したんだけど、この辺って宿泊施設はないみたい……もう、仕方ないから、ここで電車が出る始発まで過ごそうと思ってるの」


『……ごめん。水無瀬さん。今すぐに、駅名教えて』


 私が目の前にある駅の名前を読み上げると、芹沢くん側からドアを乱暴に開く音がした。


 多分、彼は私のところに行こうとして、バタバタと音がしているけど、電車は止まっているしどうしようもないのに。


「芹沢くん。心配しないで。私、ここでの一晩くらい。成人してるし一人でも、大丈夫だから」


『心配、しないなんて……無理だよ』


 そこまでで、芹沢くんとの電話は切れてしまった。スマホの画面を見れば真っ暗で、電源ボタンを押しても反応しない。もう、電池も残り少なかったし、それは仕方ない。


 どうにかして、ここで数時間一人で耐えるしかない。夜だと言える時間は、遠慮なんてせずにやって来てどんどん視界が黒く暗くなって来た。



◇◆◇



 横殴りの雨が申し訳程度しかない屋根なんか関係ないとばかりに、容赦なく降り注ぐ。


 まだ、時期的に気温がそこまで低くなってなくて、良かった。服が雨に濡れてしまったとしても、身体が芯まで冷えてしまうこともない。


 その時に、目の前で急に現れた車が停まって、私はまさかって信じられなかった。だって、こんな天候の中で……暗くて視界も悪い山道なんて、絶対危険なのに。そんな、まさかって。


「っ……芹沢くん!」


 もうバケツをひっくり返したんじゃないかっていうくらいの、土砂降りの雨の中。バス停の中で身を縮めていた私のところまで走って来てくれたのは、遠い都内に居るはずの芹沢くんだった。


「水無瀬さん。良かった。こっち来て……こんなに、身体が冷えて。早く行こう」


 彼は私が抱きしめていたリュックを取ると、ドアを開けたままにしていた車に向け、私の手を取って走り出した。浅い川のようになってしまった道路に、バシャバシャと水しぶきが上がる。


「芹沢くん……ごめんなさい。こんなことになるなんて、思ってなくて。私が道に迷ったのが、いけなかったの。教授も一緒に来た皆も、早く一緒に帰ろうって誘ってくれていたのに」


 車の運転席と助手席に、落ち着いて座ることが出来て、私たちは目を合わせてから手を握り合った。


 まさか、車を借りてまで、こんなところに芹沢くんが来てくれるなんて、思ってなくて。私は本当に、驚いていた。


「……水無瀬さん。良かった。俺に謝るのなんて、後で良いよ。大丈夫。こんなに雨に濡れて身体が冷えてしまって……ここに来るまで道なりに、ホテルがあったから。とりあえず、そこに行こう」


 芹沢くんは何の計算もなく、ただびしょ濡れになっているだけだとしても、水も滴る良い男だった。


 とても危ないくねくねとした山道を運転しているから邪魔をしてはいけないと大人しく黙っていたんだけど、どうしてもそんな彼が気になった私がチラチラと横顔を見ていたら、彼は気がついてくれたのか手を伸ばして私の手を握ってくれた。


「なんで……俺に、迎えに来て欲しいって、言ってくれなかったの?」


「え……けど、こんなに遠い場所だよ。電車も止まってたし……それに台風って言っても、ひどい雨が過ぎ去るまでの何時間かの辛抱だし……今回のことは……迷っちゃった私が、全面的に悪いし」


 これは私は反省して本当にそう思ってたんだけど、芹沢くんはぎゅっと手を強く握った。


「ねえ。もっと俺を、頼ってよ。水無瀬さんをあんな寂しい場所に一人でなんて、居させられない。間に合って良かった。ここに来るまでの橋も、今はもう通行止めになってたから」


「え。そうなの?」


「うん。かなり川が増水してるから、ここに来るまでの橋が通行止めになってる。俺は封鎖される前にギリギリで渡れた。だから、今日はこの辺りで泊まろう」


 そう言って芹沢くんが連れて来てくれたのは、古びたラブホテルのような所だった。


 部屋は空いているみたいで、すぐに部屋には入れたんだけど、かなりタバコの匂いがしてかび臭い。


 二人ともこの部屋のベッドでは眠りたくないという意見は一致し、台風が過ぎ去るまでの時間、私たちは座ったまま赤茶色の革張りのソファで過ごすことにした。


 芹沢くんは座っていた自分の膝に手招きして、後ろからお風呂上がりでほこほこの私を覆うように抱きしめた。ようやく彼の腕の中で安心することが出来たのか、はーっと大きく息をついた。


「ね。芹沢くん。スマホの電池切れちゃって、ごめんね。調子にのって、写真を撮りすぎちゃって」


 スマホの電池の確認すらもせず……後から考えたらすぐに、消防なんかに電話すれば良かったかもしれない。連絡手段もなくなって、あの場所で彼が来てくれるまで、不安じゃなかったかと言われたら嘘になる。


「もう……電話も繋がらなくて、駅名しかわからなくて。どうにかして……泳いででも、俺は辿り着きたかったけど。けど、間に合って良かった。あんなところに、水無瀬さんを一人にはしたくなかった。本当に良かった」


 ぎゅうっと芹沢くんが私の身体を後ろから抱きしめた時、フロントからの電話がいきなり鳴った。


 芹沢くんは息を吐いてから私を載せたまま、腕を伸ばして電話を取った。電話の向こうから気色ばった高い声で何かを言われているようだけど、彼はそれに冷静に受け答えをしてからやがて静かに電話を切った。


「……何か、あったの?」


「うん。川の増水が思ったより酷いみたいで、駐車場も浸水したって。車もこのままだと水没するだろうから、なるべく早くレッカーを頼んだ方が良いって……ごめん。俺、借りてきた車の持ち主の久留生に連絡するね」


 そう言って、芹沢くんはこんな事態にも特に動じることもなく、冷静なまますぐ傍のローテーブルに置いてあった自分のスマホを取って操作し出した。


 嘘……あれ、多分この前にも迎えに来てくれた時に乗ってたのと同じ車で。久留生くんに借りて来たっていう、外国製の高級車なのに。


「ごめんなさい……私をこんな時に、迎えに来てくれたから……車、ダメになっちゃう?」


 あんな高級車を弁償するなんてことになったら、芹沢くんはいくら払わないといけなくなるんだろう。


 しゅんとして落ち込んだ私を慰めるようにして、彼は頭を撫でてくれた。


「良いんだ。ここで水無瀬さんをあんな場所に一人にしていたら、俺はきっと何年も後悔することになるだろう。その後悔に比べたら、そのくらい安いものだから。喜んで支払う……水無瀬さん。泣いてるの? ごめん。怖かったよな。橋が通れるようになったら……久留生が心配してて、ここまであいつが俺たちを迎えに来てくれるらしいよ。あいつ。育ちが良いから擦れてなくて性格良いし、気前も良いから……代わりに新車を買えとまでは、きっと言わないよ。お願いだから、泣かないで」


 優しい恋人芹沢くんの温かい言葉に、自分が情けなくて堪らなくなっていた私は、思わず振り返って彼に抱き付いて泣いてしまった。

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