19 理由

「うん。俺だよ。水無瀬さんが傷付くような、そういう何かが起こらないように、前もって対処をした。多分、そういうことになるだろうなって予想して」


「えっ……そうなの? 私。芹沢くんと付き合うんだったら、絶対そういう事があるって覚悟はしてたんだけど……」


 私が美穂ちゃんに相談を聞いて貰った日の、大学からの帰り道。


 私は芹沢くんと家までの道を帰りつつ、彼に疑問に思っていた真相を聞いてみると、やっぱり芹沢くんが私に対する悪評が出て来ることを予想して、なんらかの処置をしておいてくれたらしい。


「水無瀬さんに対する誹謗中傷や名誉棄損に関しては、俺が代理で裁判費用も弁護士費用も全額負担して訴えると先んじて情報を流した。その噂を聞いて確認して来た奴全員に、俺は本気だと伝えた。もし悪気がなく安易に噂話をしただけでも、罪は罪で同じことだ。証拠が揃い次第、俺は許さず訴える。情報提供者にも報酬を払うと言った。無責任な大衆は自分にメリットがある方を選ぶから、そうすれば俺の元に情報が集まる」


「す……すごい」


 思わず息をのんだ私は芹沢くんの予想された事態に対して先手必勝と言わんばかりの、万全の対策に驚いた。


「……もしかしたら最初の誰かは見せしめのようになるかもしれないけど、それがもし事実だからと言って誰かの悪評を敢えて広めようとしたという確たる証拠さえあれば、誹謗中傷や名誉棄損は成立する。俺もそんなことで儲けようとなんて思ってないから、こちらが損してもどんなに金が掛かったとしても別に構わない」


 芹沢くんの真っ直ぐで綺麗な黒い目は、怖いほどに真剣だ。


 彼は付き合い始めた私を守るためになら、どんなにお金が掛かっても構わないとそう思っている。


「え……芹沢くん……けど、そんなことをしたら……」


 私を守るため……それだけのために、どれだけ多額のお金が掛かってしまうんだろう……芹沢くんは、投資をして結構なお金を持っているとは言っていたけど。


 もし、向こうが多数になれば弁護士費用も裁判費用も、途方もなくかかってしまいそうなのに。


「ねえ。水無瀬さん。高校生で何もわからなかった俺は、自分が好意を持っていた女の子を間接的にとは言え、辛い思いをさせて不登校にさせたんだ。あの時には、そんな立場に自分が追い込んだのに何も出来なかった自分に腹が立ったし、学校内で起きた嫌がらせに対して、何の対処もしない先生や学校にも腹が立った。面白がって噂をする方は、楽しいだろうな。けど、それをされた本人が、死にたいくらいに辛い思いになるということは、自分の身になってみないとわからないだろう」


「……芹沢くん」


 芹沢くんは事実を淡々と話しているだけのはずなのに、まるで血を吐くような悲痛な叫びにも聞こえてくる。


 それを聞いた私はなんだか、すごく胸が痛かった。ただ、好意を持って話し掛けて、仲良くなろうとした女の子。自分のせいで傷付けてしまったと悩み、彼はどれだけの長い間自分を責めて苦しみ続けて来たんだろう。


「……法律を学び出したのは、それからだ。法律は、集団に秩序を齎(もたら)し国民を守るためにあるものだから。被害者の泣き寝入りの理由の大半は、金だ。俺はもう、それは手にしている。同じことは、二度と繰り返さない。今度こそ、大事なものは自分で守れる」


 芹沢くんが法学部だった理由……彼が、あんなに必死で法律を学んでいた理由はそれだったんだ。


「……あの出来事が芹沢くんが、裁判官になろうと志した理由だったんだね」


「俺は……人は安易に、人を裁き過ぎだと思った。あの子の時だって、結局は欠席裁判だ。ちょっと過去躓いた出来事を好きなように面白がって噂されたあの子の言い分は、俺以外の誰も知ろうとしなかった。だが、普通に生活をしていて、双方の言い分と事情をすべて知ることなど、絶対に出来ない。不可能だ。それに本来であれば、人を裁くとするなら神のような存在でしか裁けないはずだ。けど、人が人を裁く存在として、裁判官が居る。だから、自分がそうなってみたかった。そうしたら、常に中立の立場で判断し、すべてを公平に見ることが出来るようになれば。この消えない怒りも、いつか……いつか納得出来て消えるんじゃないかと、そう思った」


 芹沢くんは、怒ってる。


 きっとその対象は、他の誰でもない。あの時の若かった何も知らなかった、自分なのだと思う。彼は優秀過ぎるがゆえに、間違いを犯した若かった自分を許せない。仕方がなかったことなのだと、未だに諦められない。


 なんで、あの子を助けてあげられなかったんだと、今までずっとあの時の自分自身を責めて、何も知らなかったあの頃を許せないでいるんだ。


 隣を歩いていた私は、彼の温かな手を取って手を繋いだ。芹沢くんは自分の中に再度湧き上がった怒りをどうにか収めるようにして、何度か大きく息をついた。


「ね。芹沢くん」


「……何?」


「私、芹沢くんのそういうところも。真面目で優しくて、過去に失敗したと思ってる自分を今も許せないと思っているところも、全部全部好きだよ」


「……ありがとう。俺も、水無瀬さんが好きだよ」


 ここで無理してでも笑う芹沢くんは私の前では、私が好きっぽい彼で居ようとしている。


 私は俳優のような容姿に一目惚れしたのは事実なんだけど、知れば知るほど好きになって、芹沢くんが鼻からうどんを出していても、別に幻滅なんてせずに好きだと思う。


 こんな風に、誰だとしてもきっとどうしようもないことだったのに。何年も自分のせいだと自分を責めて続けて、今も苦しんでいるところも。


「起こってしまった過去は変わらないのはもう、仕方ないんだけど……私ね。その女の子、芹沢くんにそんな風に後悔して欲しくないと思ってると思うよ。だって、絶対に芹沢くんのこと……好きだったもん」


「それは……わからないよ。だって、俺のせいで……」


「芹沢くんから仲良くなりたいなって思われて、話し掛けられてたんでしょ? 私だったら、秒で恋に落ちてる」


「秒」


 微笑んでくれた芹沢くんの張りつめていたものは、少しだけ緩んだようだった。私も一緒に笑顔になると、彼は握っていた手の力を込めた。


「私。好きな人には、幸せで居て欲しい……好きだった人も、そうだよ。この前の話になるけど、元彼のかっちゃんは、小さな頃からずっと好きでね。ずっと追い掛けて追い掛けて、高校の時にようやく付き合って貰えたんだ。浮気されて最悪な結果に終わったし、別に今も好きなんて思わないけど……出来たら、これからも幸せで居て欲しい。あの頃は、本当に好きだったから」


「そんなに……長い間好きだったのに、本当にもう好きじゃないの?」


 あ。芹沢くんの声が、なんだか気に入らない様子になった。あまり話せなかった時はわからなかったけど芹沢くんって、こうして喋っているととても感情がわかりやすい。


「ふふ。女の恋は、上書き保存なんだよ。もう芹沢くんで、綺麗さっぱり全部上書きされてるから、かっちゃんへの想いなんて何の未練も残さずに消えちゃったよ。私の心のデータには、幼馴染で元彼だった人という過去の情報しか残ってないもん」


「そっか……水無瀬さん。うちの法学部と藤大の法学部は法律の学派が対立してて、学問的に物凄く仲が悪いのは知ってる?」


「えっ……何。法律の学派って……」


 私の頭の中に一瞬超高レベルな頭脳戦を繰り広げるはずの有名大学の教授同士が、お互いに分厚い六法全書を振り上げて争っている映像が流れた。やめて、争わないで!


「そういう流れもあって、あの大学にはあんまり良い感情は持ってない上に、水無瀬さんの元彼だって聞いて……うん。ごめん。正直に言うと、やきもち妬いた。大学名と名前を聞いただけで、イライラしてなんかムカムカするから。あいつの話は俺の前ではもう、して欲しくない」


 やきもち妬いたっていう自己申告が、可愛すぎる上に芹沢くんはちょっとだけ恥ずかしそうなのも、こちら的にはとても萌えた。可愛くてやばいぃぃぃぃぃ。尊い推しが、私を積極的にキュン死にさせに来ている。もう今では、彼にキュンした数は数え切れてない。


「かっ……可愛い」


「え。何。可愛い?」


 私が目をキラキラさせて言った芹沢くん可愛い発言に、多分自分の中ではあまり良くないことを言ってしまったと思っていたらしい彼は眉を寄せて怪訝そうな顔になった。


「芹沢くんって、存在がずるいと思う。格好良いし可愛いし、頭良いし優しいし真面目だし。欠点ないの?」


「え。どういうこと? あるよ。いっぱい……怒りやすいし、嫉妬深いし。大体は、物事を後ろ向きに見がちだし」


「何それ。私から見ると、芹沢好き萌えポイントでしかないんだけど」


「好き萌えポイントって……水無瀬さんって、本当に面白いよね……」


 芹沢くんは、呆れたようにして笑った。彼の温かくて大きな手は、私のマンションに送ってくれるまでずっと繋がれたままだった。

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