14 残り香

 そして、翌日のバイト中にも、来るだろうなと思っていた通りかっちゃんは三回来た。


 けど、人出の多い土曜日だから、忙しくて店長も接客に出て来ていた。だから、「あの人……さっきも来てなかった?」と不思議そうな顔で囁かれたけど、私は曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。


「わっ……! かっちゃん!」


 バイト終わりの私はそろそろ芹沢くんが迎えに来てくれるらしいから、外に出ておこうと思って店を出たところで思わず声をあげてしまった。


 こんな……薄暗い裏口の前で、彼は私をどのくらいの時間待っていたのだろうか。


 ただ立ち尽くしている様子のかっちゃんは、なんだかもう以前の私の知っている居るだけで周囲の空気をキラキラにしていた彼ではなくなってしまっているようだった。


「……初音」


 ひどく思い詰めたような、瞳の中のハイライトを消してしまったような真っ黒に見える目がこわい。


 けど、私はもう彼の復縁希望を断っているし、これ以上何かを言われてもどうしようもないし。これ以上は関わりたくないけど、どう言えば良いかわからなくて対応を困ってしまう。


「かっちゃん。こんなところで待たれても、困るよ。私、彼氏居るし。もうすぐここに迎えに来るから。ごめん。帰って」


「……初音。お前は、俺のことを好きなはずだろう? どうしちゃったんだ?」


 最後のあれは完全にこちら側の台詞なんだけど今の彼に言い返しても、もう無駄な気がする。


 かっちゃんの中での私はきっと高校生の頃、いつも彼のことを追い掛けまわしていた大好きだった時の姿のままで止まってしまっているんだ。


 その恋は、もう今では上書き保存されてしまっているのに。


「……もう好きじゃないよ。私、好きな人が居るから」


「なんでだよ……俺のこと、好きだって……何度も何度も言ってたじゃないか。だから、学校でだっていつも……」


「っ……! ちょっと待ってよ! 何、言い出すつもり。止めて……私、今付き合っている人、ここに来るって言ったよね? そういうの……止めて。本当に迷惑なの。絶対に、かっちゃんと寄りを戻したりなんかしない」


 完全にもう黒歴史になってしまった彼と付き合っていた時の出来事を、こんな時に持ち出すなんて有り得ない。


「そうかよ……けど、そいつはあの時みたいに泣いている初音を見る事はないんだろ? だって、お前の初めては俺でっ……」


「芹沢くんっ!」


 完全に虚ろな目つきになって私にとって言われたくない何かを言おうとしていたかっちゃんと私の間に、いきなり大きな黒い背中が現れた。


 その後ろ姿を見ただけでも、彼が誰かということはわかってしまった。私は芹沢くんのことはどんなに人が多い中でも、見付けられる自信がある。


「……これで、一回目。水無瀬さんがこうして拒否しているにも関わらず、反復してこの行為を続けた場合は警察から警告が来るだろう。まだ続ければ、逮捕されることもあり得る。前科が欲しくなければ、もう帰れ」


「それで……脅しているつもりか?」


「いいや。これは、警告だ」


 正気には見えなくなっていたかっちゃんは冷静な声で淡々と対応する芹沢くんを見て、幼い頃からずっと彼を追い掛け回していて、下に見られていた私と違って彼は一筋縄ではいかないとようやく理解したらしい。


「……初音」


「迷惑です。もう、会いたくない。来ないで」


 芹沢くんの頼りになる背中に隠れつつ私がはっきりそう言えば、かっちゃんが歩き出したらしいジャリッとした音がした。


 今日、芹沢くんが迎えに来てくれるようにしてくれてて、本当に良かった。


 かっちゃんのあんな様子だと私一人だったら何をされていたか、わからないもの。


「……大丈夫?」


「っだいじょうぶじゃないっだいじょうぶじゃないだいじょうぶじゃない。芹沢くん! 来てくれて良かった……こわかった……よかった」


 後ろから背中に抱き着いたら、すぐに一気に彼の前へと身体を回されて、ぎゅうっと身体を抱きしめてくれた。


「良かった……ねえ。水無瀬さん。もう、このバイト辞めない? 何かに必要なお金だったら、俺が出すし」


「ダメだよ……だって、誕生日の人にお祝いのお金出させるなんて、ありえないもん。店長にも、金曜まではバイトするって約束してるし……」


 完全に私の我が侭になってはいるんだけど、バイトに入ると約束したからにはちゃんと責任を果たしたかった。


「……もう、良いから。今週だって結構バイト入ってたし、大丈夫でしょ。もし、急にバイトを辞められて迷惑掛かるっていうなら、俺が代わりにバイトして、シフトに入るから。ね?」


 優しい言葉を聞いて思わず見上げた私を穏やかな目で見て、背中をポンポンして慰めてくれる芹沢くん。彼は最高の彼氏かも、しれない。


「芹沢くんって、私の妄想が具現化されたのかもしれない……存在していること自体が、おかしいもん。絶対。夢の中の存在過ぎて、こんな人がこんなに私に優しいなんておかしいもん」


「俺には何を言ってるのか、ちょっとわかんないけど。水無瀬さんがそんな風に良くわからない変わったことを言うのも、俺は良いなと思ってるよ……可愛い」


「……ありがとう」


 背の高い彼を見上げて私がお礼を言うと、一瞬だけ唇にキスをしてくれた。


「うん。今日は、俺の家に帰ろう。明日のバイトは、もう俺が行くから……」


「でっ……でも、あの可愛いケーキ屋さんに芹沢くんみたいな店員が居たら、きっと、最初の客がSNSに書き込んで、一気に口コミが広がって。東京中の女性が押し寄せちゃうっ……」


「……うん。わかった。水無瀬さんが心配してることはもう、わかったから、一緒に帰ろう。今日はもう遅いし。車を借りて来たんだ」


「車?」


「そう。俺の友達の、久留生って知ってる? あいつ、大病院の息子だから、あの年齢でも金を唸るほど持ってて。自分用の車も、何台か持ってる。だから、その内の一台借りて来た」


 久留生基樹くんは、上品な醤油顔で学内でも有名なイケメンで、芹沢くんが率いる、イケメン集団の構成員の一人である。


 けど、医学部はキャンパス違うから、私はあんまり姿を見ることはない。きっと、彼らはプライベートで良く遊んだりしてるんだろう。



◇◆◇



「すごい……これって、なんて車?」


 東京では普通に庶民として暮らしていく上で車は必要ないし、私は個人的に車に対しあまり憧れなどを持ってない。


 なので、正直ここで車の名前を言われても「なんだかわかんないけど、すごい」としか反応出来ないんだけど、すごく乗り心地の良い車の名前を知りたくて遅れて運転席に座った芹沢くんに聞いた。


「……俺も車種は良くわかってないけど、メーカーは確かジャガーだよ。車の前に、エンブレムが付いてる。あの……水無瀬さん。なんか、メンズの香水の匂いするんだけど……?」


「あっ……さっきも何度か洗い流したんだけど、匂い取れなかったんだ?」


 バイトの昼休みに芹沢くんの誕生日プレゼントを買いに近くの百貨店に見に行っていた私は、えへへと頭を頭に手を当てた。


 抱きしめられた後も、さっきまで彼は何も言わなかったから、ほんの少しだけ香る程度に落ちているとは思う。けど多分、車内は狭い密室だから、今はわかってしまったのかもしれない。


「え? どういうこと? ちゃんと、説明して欲しい」


 もう既にアクセルを踏んで車を公道へと発進させてしまっている芹沢くんは、私の方向を向くことも出来ないけど前を向いている横顔は怪訝そうだ。メンズの香水の匂いに対し、少し苛立っているようにも見える。


 もしかしたら、これは誤解をさせてしまったかもしれないと、その時にようやく理解した。


 落ち着いて考えたら、私が朝からずっとバイトをしていたのは、送ってきてくれた彼も重々承知のはずなのに。


「あ……えっとね。ごめんなさい。バイト入れ過ぎて、昼休みくらいしか、買いに行く時間が取れなくて。これなの……芹沢くんの、誕生日、まだだけど、これ……なんだ」


 私は慌てて鞄の中から、彼に誕生日に渡すはずだった香水を取り出した。何個か確認のために付けてみたりしたので、その中の強い香りが残ってしまったのかもしれない。


「あ……そっか。そういうことか。ごめん。俺、なんか一瞬だけ変な勘違いしてた。誕生日、プレゼントありがとう」


「ううん。良いよ。ゆうくんのせいで、バレちゃったでしょ。せっかく、サプライズするつもりだったのに。結局は、もう芹沢くんに全部知られちゃってたし」


「……うん。俺は香水あんまり、使わないけど……せっかく水無瀬さんに貰ったから、デートの時は付けようかな」


「ふふ……実はプレゼントで買ったこれって、実はユニセックスなんだ。試し付けしたのもいくつかあったんだけど、これが一番良い匂いがすると思って……」


「水無瀬さんが良い匂いって思う香水なら、俺も嬉しい」


「えへへ。自分用にも同じものを買いたかったけど、結構高かったんだ。ブランドの良い香水って、高いんだね」


「……待って。それって、いくらくらいなの?」


 芹沢くんは多分、良くある定番の香水の価格で数千円なのだと思っているんだと思う。けど、私は彼の誕生日には、特別な物をプレゼントしたかった。


 二人の恋のはじまりの、とっておきの記念になるような特別。


「えっと……先生が、五人くらい」


 私たち二人の大学の創設者は、紙幣に印刷されている。


 なので、大学や付属学校すべてで、教授や先生は「先生」とは呼ばれない。偉大なる創設者だけがあの学内で「先生」と呼ばれるのである。


 だから、同じ大学に通っている私の言う先生は、もちろん彼もわかっている。


「……それで、あんなにびっしり何日も、バイト入れてたんだ……」


 必要な金額を稼ぐために私がなぜ一日中のシフトを何日も入れていたのだとようやく合点がいったのか、芹沢くんは大きく息をついた。


「うん。あの……ゆうくんから、もし香水をあげるなら人とは被らない方が良いって言われて……」


 私が芹沢くんのプレゼントに、そんな高級香水をわざわざ選んだ理由を言えば、彼は前を見て運転しつつ頷いた。


「わかった。水無瀬さんが誰かからのアドバイスを、なんでも素直に聞いて実行してしまう可愛い子なのは、俺ももう良く理解出来たから。あの佐久間の話は、お願いだから話半分に聞いて。男女関係においては、可愛く見えるだけの顔を持つ悪魔だから。それに、もう既にあいつは自分で結構な額を稼いでるから、金銭感覚がおかしい。わかった?」

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