15 駆け落ち先

 帰る途中で私がお泊まり用のグッズを家へ取りに帰りたいと言ったら「そういうのは全部、俺の家に用意してあるから大丈夫」とだけ、真剣な顔で運転している芹沢くんに言われ、もう黙るしかなかった。


 どういうこと? 用意してある……? 芹沢くんの部屋に、私用の化粧落としなんかも……あるってことなのかな。


 芹沢くんには多分、私の前に付き合っていた女性が居たんだとは思うんだけど……正直に言えば女性の化粧品とか、そういうことにはあまり興味なんてなさそうだし。化粧水とか乳液という違いがあるのを、わかっているかもわからないし。絶対詳しくはなさそうだから、少しだけ不安にはなった。


「水無瀬さんがエアコンの壊れた部屋から避難して、何日かここに居たの。ついこの前だけど……なんだか、不思議だね」


 あっという間に着いた芹沢くんが住む部屋に入れば、落ち着いたホワイトムスクの香りがほのかに鼻をくすぐり、目に入るのは快適にスッキリと片付いた部屋。


「うん。私もバイトがなかったら、早くここに来たかったんだけど……」


 そんな部屋内で少しだけ違和感があるような気がするのは、彼が勉強用に使っている壁際の大きな机辺り。厚い本が乱雑に積み重なり、読んでいた途中なのか開いていた本には、この距離から見て真っ黒になっているように見えるくらいに小さな文字がびっしり。


 調光された間接照明もお洒落だし、次々に美しい模様を白い壁に映像を映し出すプロジェクターなんて、本体がどこにあるかわかんないくらい上手い具合に隠れてるし……この前は、私は芹沢くん自身が部屋のインテリアを、考えたのかなって思ってたんだけど。


 今になって良く考えてみればこれって、インテリアデザイナーとか……プロの手が、入っていそうなんだよね。


 芹沢くんって……もしかしたら、お金持ちの息子なのかな。さっきも大病院の跡継ぎの久留生くんの話をしていたけど、自分だってそうなのかもしれない。


 私は芹沢くんが、そういう由緒正しき旧家の生まれでないことを願う。


 何故かと言うと、うちはお父さんが一流と呼ばれる商社に勤めてはいるものの、ただのサラリーマン家庭なのだ。ものすごく気が早いかもしれないけど、そんな私では彼との結婚を許して貰えないかもしれない。


 駆け落ちするなら絶対に田舎の景色の良いところが良いなと妄想していた私に、芹沢くんが言った。


「水無瀬さんが泊まる時に必要なものとか、全部そこに揃ってると思う。俺も全然わからなくて頼んだだけだから。中を確認してみて。不足があったら、買いに行って来るから」


 そう言って芹沢くんが指さした先にあるのは、大きな黒い紙袋だった。紙袋に印刷されたロゴが……なにこれ、おかしい。


 それは、世界的にも有名なブランドで、歴代のミューズの名前は誰もが知っているような、有名女優やモデルばかり。


 いや……もしかしたら、紙袋の中身は違うかもしれない。うん。高級ブランドの紙袋ってしっかりしてるから、物の持ち運びなんかに使うの便利なんだよね。


 そして、恐る恐る袋の中身を覗き込んで広げてみると、袋に書かれたブランドのスキンケアラインと化粧品一式と、国産の下着ブランドしか知らない私は名前も見た事もない海外製のお洒落な下着が何セットか入っていた。


「ちょっ……ちょっと、待って。え。これ? ここのブランド……かなり、高価過ぎるんだけど。芹沢くん。これって、どうしたの?」


「俺だとわからないから、今日友達の彼女にいろいろ買ってきて貰うように頼んだ。これで、いつでも家に泊まれるでしょ。値段は、気にしなくて良いよ。今日だって、俺の勝手で連れてきたんだから。水無瀬さんは、何も気にしなくて大丈夫」


「ね……芹沢くんって、もしかして御曹司とかだったりする?」


 これは絶対におかしいと思い、意を決した私がそう聞くと、部屋着っぽい服を取り出していた芹沢くんは面白そうに笑った。


「……もし、そうだったらどうする?」


「私。もし、駆け落ちをするなら。絶対にこういう所が良いなってとこが、あるんだけど!」


 やっぱりそうだったのかと慌てて立ち上がって私がクローゼットの前に居た芹沢くんに近づくと、微妙な表情を浮かべた彼は苦笑した。


「……うん。俺も、大分そんな水無瀬さんに慣れてきたな。何をどう思ってそう思ったのかは、後で聞くとして。興味本位で駆け落ちしたい場所だけは、聞いときたいけど。俺と駆け落ちするなら、どこが良いの?」


「景色の良い田舎!」


「田舎……水無瀬さんは田舎が、好きなの? なんか、意外だった」


「うん……なんていうか、田園風景とか。古い神社とか……そういうのに、憧れがあって……私。川で野菜冷やしたりとか……そういうのしてみたい」


「そう? 俺は裁判官志望だから、もし首尾よくそうなれて結婚したら、三年周期で全国で転勤生活になるよ。どこか、水無瀬さんの気にいるところがあると良いね」


「え。裁判官になるの……? 弁護士じゃなくて?」


 思わぬ流れで彼の将来の夢を聞いてしまった私は、ポカンとした。司法試験に通ったら、きっと弁護士になるのが普通なのかなって思っていたからだ。


「うん。裁判官って司法試験の合格者の中でも、成績優秀者上位百位以内辺りに居ないとなれないんだ。本当に狭き門だけど……俺は、ずっと前からの夢だったんだ」


「ふわ……すごい……」


 司法試験って国家試験の中でも最難関だと聞いているし、その中の合格者の百位以内……まるで、雲の上の出来事のような話だった。


「裁判官は自身の公平性を保つために、あらゆる政治的な圧力から守られるよう、初任給から公務員の中でも、最高水準の給与が貰える。もし将来俺が裁判官になれば、お金には不自由しないから、安心して。弁護士でも多分同じだろうけど、弁護士は企業とか雇われ弁護士にでもならなければ、どうしても出来高だからね。そういった意味では、裁判官の方が生活は安定してるかもしれない……あ。あと、多分水無瀬さんの中では、俺の出自が大変なことになってそうだけど。俺は平凡なサラリーマンの家庭で育ったから、ご大層な御曹司でもないし。駆け落ちも必要ないから」


 私が妄想の中でとても心配していたことを全部吹き飛ばすようにして、芹沢くんは声を立てて笑った。


「……え? でも」


「うん。水無瀬さんは、まだ働いてない大学生の俺がお金持っているように見えて、それが不思議なんだよね? その懸念はもっともだけど、答えは簡単だよ。高校生の時に始めた投資が、ある程度上手くいったんだ。俺は法科大学院に進まない方向で、予備試験を受けたから。高校から予備試験の予備校に通った。だから、欲しい物はあるけどバイトをする時間も、なんか勿体なくて。じゃあ、俺の代わりに、口座にあるお金に働いてもらうかと思った」


「お金に、働いてもらう……?」


 彼の言っていることが、上手く咀嚼できなかった私は首を傾げた。


「うん。むしろ、俺は資本主義の国なのに、投資しない人が多いのが、不思議なんだけど。そもそも資本主義って、投資することが前提で出来ている。将来性のある優良企業にお金が集まるようにして、企業投資してから全体が成長をしていく構造なんだ。もちろん、投資は損をするリスクもあることだって大前提だよ。だから、俺だって投資先を分散してから、リスクヘッジはしている」


「すごい。私も投資はしたいなって思うけど、どうしても取っ付き難いし、難しいって思っちゃって。それに、貯金しているだけなら絶対に減りはしないでしょう?」


「一度投資に失敗して損をしたからといって、投資をやめていたら。その人は、一生投資で儲かることはないかもね。日本は少しでも金融を勉強した人が、そもそもの数が少ない。義務教育で教われるのは、ほんの少し。だからこそ、勝てる機会が多い。ビジネスチャンスの話で言うなら、ライバルの少ない場所を選んで勝つのは定石だ。そうでない場所より、圧倒的に難易度が低い」


「芹沢くんは簡単にいうけど、それが難しい人はいっぱい居るんだよ」


 ついつい、私は頬を膨らませてしまった。


 頭の良い人には、私のように彼のようなことを思いもつかない子の気持ちはわかるまい。持つ者に持たざる者の気持ちは、生涯わからないのだ。無知の知の逆。


「うん。水無瀬さんが俺と結婚してくれるなら、代わりに全部やっても良いよ」


「えっ……したい……けど、別にそれ目的じゃないからね!」


 付き合い始めたばっかりだけど結婚の話が出て思わずパッと顔を輝かせてしまった私は、慌ててこほんとわざとらしく咳をした。


「水無瀬さんは、本当に可愛いね。俺だって、ちゃんとわかってるよ。もし、裁判官になれば、倫理的に海外企業への投資中心になるかもしれないけど。俺は長期投資前提で、相場師が値を吊り上げて遊ぶような銘柄には手を出さない。信用取引もしない。絶対に無茶な投資はしないから、大丈夫だよ。偉大な投資家の名言に、こんな言葉があるんだ。自分が参加しているゲームで、誰がカモだかわからない場合は、自分自身がカモだってね。その理屈で言えばわかりやすく負け確の勝負にさえ手を出さなければ、そうそう負けることはない」


「あ。その話、聞いたことある……」


 慌てて迂闊な口を押さえたので、芹沢くんはとてもわかりやすい私が今誰から聞いたと言おうとしたのかをすぐに察したようだ。


 その話は、確かに聞いたことがあった。もう豹変してしまったかっちゃんが、何かの折に私に言っていたからだ。


 何年も前の、遠い遠い日の記憶。偶然に再会さえしなければ、まだ綺麗だったはずだった彼との思い出。


 言葉をなくしたままの私へとゆっくり近づいてきた芹沢くんは、無表情で何を考えているかわからない。


「芹沢くん……?」


 戸惑いながら彼の名前を呼んだ私の口の中に、彼は長い人差し指を入れて間近に顔を寄せ掠れた声で言った。


「あいつの、ことだろ? やめて。何も……聞きたくない」


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