12、この舞台の主役は

 その次の一瞬で起きたことを、すべて正しく把握できた人はいなかったに違いない。セヴィアンに分かったのは、着替えて再び舞台に現れたクロエに向かってマルチノが無作法をやり、声を上げられたのは自分だと気づいたクロエが青ざめて立ちすくんだ直後に、どこからかひいっ、という声を吸いこむような悲鳴が聞こえ、そして――。


 火事だ! と誰かが叫んだ。早く逃げろ! 水が入ってくるぞ!


 「落ち着いて、落ち着いてください! 」


 鎖の切れたシャンデリアから弾け飛んだ水晶の煌めきや、ロウソクから燃え立つ火が、悪夢のように美しい。恐怖に狂乱する人々の怒涛はその狭間で必死に指揮を取ろうとしたピッケたち保安係を渦の中へ押し流し、彼の声はやがて聞こえなくなってしまった。


 「セヴィアン! 」


 ピッケを助けるために席を立ったフランコは、後列の客にぶつかられながらもセヴィアンを気にかけることを忘れなかった。セヴィアンはふらふらしながらようやく立ち上がったが、その目は舞台に釘づけになっていて、観客席が空になりつつあることや、傷ついた人々が呻いていることや、舞台に火が回りかけていることや、ましてフランコが自分を呼んでいることになどちっとも気がついていなかった。それは傍目には、事故の惨事が与えた衝撃に心を破壊されてしまった青年の姿に見えた。


 「おい、しっかりしろ」


 フランコは反応の鈍いセヴィアンに焦って腕を引っ張ったが、無駄だった。そのときセヴィアンの理性を完全に押しのける声が舞台から響いたのだ。


 「アリア! アリア! 」


 舞台袖に連れ戻そうとする誰かの手を逃れようと暴れる、ディーナの頭が見えた。イルゼが火を避けながらエドウィンとともに駆けてきて、オーケストラの負傷者を助け出す。落ちるシャンデリアの軌道を変えたのはイルゼだろう、直撃だけは誰もが免れた。


 イルゼとエドウィンは舞台の上に人影を探したが、長く留まることはできなかった。〈断罪の歌〉の松明を、誰かが消さずに放り出してしまったのかもしれない。脚光の小さな火が、大きくなってしまったのかもしれない。舞台の上には、火を育てるものが山ほど置かれていた――お客を窒息させないように空気の通りを優先させて設計された劇場は、普通ではありえない勢いで火の海と化した。


 イルゼの肩掛けが燃え出した。火を遮断する魔法は咄嗟に使うには複雑すぎ、水の魔法では間に合わない。イルゼとエドウィンは一度退かざるをえなかった。緞帳が燃え、炎の塊となった重い布の切れ端が降り注ぐ。


 「いやよ、行かない! だって、まだ……」


 ディーナの声が切れ切れに聞こえる――目が合った――彼女は叫んだ。


 「助けて! 」


 セヴィアンは舞台へ駆け寄り、いったいどうやったのか分からないうちにオーケストラピットに転がったままのシャンデリアを踏み越えて、舞台に駆け上がった。フランコの「この馬鹿! 」という悪態が追ってくる――フランコはセヴィアンを追うべきか迷った様子だったが、すぐに押し合いへし合いする観客の波に挑みかかった。水質管理室から水を引いてくるつもりなのだ。


 セヴィアンはクロエ、と呼ぼうとしたが、吸おうとした息のあまりの熱に喉と肺を火傷しかけ、死ぬほどの思いでむせた。煙がしみて、目をまともに開けていられない。だめだ、もっと落ち着かなくては――だが、普段の彼の頭の大部分を占めているはずの思慮深さは、このときまったく壊れてしまっていた。


 感情が理性を上回るのは褒められたことではないと、いつものセヴィアンなら思ったかもしれない。しかもその感情は、勇気のような気高いものではなかった。


 恐怖だ、とわずかに働いていたセヴィアンの頭は判断した。僕はクロエに人知れずたったひとりで死なれることが、道連れになって一緒に焼け死ぬことよりずっと怖いんだ――。


 助けに来た人間の存在をクロエに知らせることはできなかったが、幸い間もなくセヴィアンは彼女を見つけた。舞台の端の一角でうずくまっている。それが煙に巻かれて苦しんでいるところだとしても、彼女は生きていた。細い肩が上下しているのが、見通しの悪い視界の中でも辛うじて分かった。


 「クロエ」


 息だけで囁いても聞こえるだろうという距離まで来て、セヴィアンはやっと彼女を呼んだ。第二劇場は舞台の高さも、奥行きも、幅も十分に取られていたので、クロエが火に囲まれてどうにもならなくなるのにはまだ時間がありそうだった。


 クロエは振り向いた。髪に伸ばした香油の花の香りが、熱にあぶられて辺りに滲み出す。彼女がディーナたちと一緒に逃げられなかった理由が、じきに知れた。彼女は両手の中に何かを大事に握っていた――古い革紐が千切れて舞台の隙間に転げ落ちた石を、クロエは今の今までかかって懸命に拾い上げたのだ。


 いったい何をやってるんだいと、思わず叱りぎみで口を開こうとしたセヴィアンを遮って、クロエは石を彼の手に押しつけた。セヴィアンには、それが何だかまったく分からなかった。


 「〈夕焼け〉よ」


 クロエは煙を吸ったせいですでに朦朧としているらしく、はっきりしない発音だったが、セヴィアンは木の爆ぜる音にも負けそうな彼女の声を聞き取ろうと耳を澄ました。


 「あなたに返さなくちゃ……」

 「受け取ったよ」


 セヴィアンはいがらっぽい声をそのときの限界まで張り上げて彼女の目を覚まそうとした。クロエに忍び寄ってきている夢は、どんなに幸福なものでもその引き替えに彼女を永遠に連れ去ってしまう。


 「僕、受け取ったよ! 」


 大声を出した代償としてまたひどく咳をしながら、セヴィアンはたちまち彼の言ったことを後悔した。嘘でも受け取れないと言い張れば、彼女は限界を超えてでもまだ意識を繋いでいようと思ったかもしれない。安心させることが命の危険に結びつくなんてそんな理不尽なことがあってたまるかと、セヴィアンはクロエの頭から上着をかぶせ、彼女の鼻と口に彼の肩口のシャツを押し当てた。窒息させる方か、悪い煙を吸わせ続ける方か、どちらがましかは彼にも分からなかった――。


 すぐに防御の魔法をかけたが、そのときには頬が火に当たりすぎたせいで痛み出していた。悲劇の結末を観ているような燃え盛る舞台の内側で、人々の血が煮え、木や、布や、金属の焼ける臭いにほとんど呆然としながら、セヴィアンは彼女を抱いて逃げられる道を探した。


 「その子は死んだの? 」


 いまや静まりかえった劇場の、一階奥の観客席から、かぼそい女の声がした。まだ人が残っていたことと、あまりに不吉な問いかけに驚いてセヴィアンはそちらを見た。彼女の黒いドレスは、背後の闇から急に浮かび上がったように見えた。


 グラニータ先生が席から立ってこちらを見ていた。



 セヴィアンはグラニータ先生が劇場つき魔法医の責任感と義務感によってお客の中に負傷者がいないかを確かめに行き、自分たちを助けるために戻ってきてくれたのだろうと思いたかったが、それはもうすでに抜き差しならない状況に追い詰められているがための希望にすぎなかった。実際にグラニータ先生の青ざめた過呼吸ぎみの引きつり顔を見たら、間近で起きた事故に恐怖していて、そんなに勇敢に振る舞うことはできそうにないと分かったからだ。こういう場面ではもっとも都合悪く、彼女は錯乱しかけていた。


 セヴィアンはこれ以上グラニータ先生に動揺を与えないように、自分の焦りをなんとか隠しおおせた。


 「グラニータ先生、手を貸してください。この子、煙を吸ってしまったみたいで」

 「その子は死んだの? 」


 彼女は同じ質問を繰り返し、セヴィアンが何も答えないうちに、ぜいぜいと息をしながら両手で顔を覆って座り込んでしまった。まるで、セヴィアンが必死に守っている命の危ない娘が、火の中から観客席の彼女に向かって掴みかかるのではないかと恐れているみたいに。


 グラニータ医師はさめざめと泣きはじめた。


 「そんなつもりじゃなかったのよ……死なせるつもりじゃ……」

 「このままじゃ本当に死んでしまいますよ」


 この危機的な状況に対処できず、あまつさえ縁起でもないことを口走って感傷的にめそめそやりはじめたグラニータ先生に、今のセヴィアンは長く耐えられなかった。


 「お願いですから手を貸してください。あなたがシャンデリアを落としたわけじゃないんでしょ! 」


 相手に発破をかけるつもりで言った自分の発言に事の真相が含まれている可能性があるとセヴィアンが気づいたのは、迂闊にもグラニータ先生に向かって大声ですべてを叫んでしまったすぐあとだった。グラニータ先生はカレン・トーラント名物のカラクリ人形のようなぎこちない動きでセヴィアンを見た。過呼吸はこの一瞬ぴたりと治まったが、その急な落ち着きぶりはかえって心の狂乱を窺わせた。


 「落とそうと思っていたわけじゃないわ……あの男が、急に大きな声を出すから。あのときだってそう……リーツェのときだって……あの子が、こっちに向かって急に歌いかけたりしなければ……」


 グラニータ先生は息を呑み、リーツェ、と言ってまた泣きだした。


 「優しい、美しいリーツェ! 『できるわよマイラ、あなたの声は、とてもきれいじゃない』! 『あなたの歌、とても素敵。学ばせてもらうことが、本当にたくさんあるわ』! 学ばせてもらうですって! あの子がわたしに! もうたくさんだわ……マイラはひどいって、あの子は言ったに決まってる。ああ、ああ、あの子には分からないわ……」

 「それじゃ、リーツェさんの事故は………」


 セヴィアンはいきなり目の前に現れた事実に一瞬呆然としたが、すぐに別の感情が湧き上がってきた。


 「クロエのご両親を殺したから、クロエも殺そうっていうんですか」


 セヴィアンが怒声を上げたために、近くの火が火の粉を散らしてぱっと燃え上がった。


 「クロエがあなたに何をしたっていうんです。この子があなたひとりのためにどれだけ怖い思いをしたか、あなたに分かるんですか! 」

 「怖い思いをしたのはわたしの方よ! 」


 マイラ・グラニータは甲高く喚き散らした。


 「そうよ、わたしはその子の母親を殺したのよ! もっとも、避けたければ避けられたはずのシャンデリアに、その子の父親ともども勝手に潰されにいったんだけどね。だってリーツェは、それまではわたしがどんなことをしても怪我ひとつしないで舞台に立ち続けたんだから。お笑い種じゃない? 小さな娘を放って、わざわざふたり一緒に死にたがるだなんて、その子、本当に愛されてたのかしら? 子どもがいることくらい、わたしが知らないとでも思っていたのかしら? ええ、リーツェはその子が生まれたことを、わたしには言わなかったわ。何も知らないふりして、親友みたいな顔を続けていたくせに! わたしのことを、本当は軽蔑していたくせに! でも、残念――これまでうまく隠し通してきたみたいだけど、気がつかないわけないわ。人を憐れむような目つきも、哀れっぽい声も、気取った振舞いも、男を味方につけるところも、みんな母親と同じだもの」


 セヴィアンは絶句し、クロエに意識がないことを初めて幸運に思いながらも、彼女の耳を塞がずにはいられなかった。


 母のリーツェが友人だった女に命を狙われ続け、父のメルクリオが娘をおいて妻とともに死ぬことを選んだ、ということは事実としても、それは両親に愛されていなかったからだなどという言葉を――たとえ聞こえていなかったとしても、クロエに聞かせたくはなかった。


 僕は君が好きだよ、とクロエに向けられたマイラの言葉の残酷さに泣きそうになりながら、セヴィアンは呟いた。リーツェとメルクリオの本心を今突き止めることはできようもなかったが、それでも、彼らが娘を愛していなかったという暴言は、クロエの優しさをよく知っているセヴィアンをひどく傷つけた。彼は彼女を愛さずにはいられなかったからだ。


 彼女にとって両親以上の存在になれないことなど分かっていたが、マイラの呪いが彼女に降りかからないように、セヴィアンは祝福を囁き続けた――君を愛してる。愛してるよ。


 「リーツェはその子に、わたしのことをひどい人だと教えたはずだわ……何度も、殺されるような目に遭ったって……。わたしは、あの子のことが大好きだった……だけど、同じくらい、いいえそれ以上に、この世界中で一番、あの子が憎らしかった……。わたしにないものをあの子は全部持っていたもの……」


 いっとき高ぶった気持ちが収まると、今度はまた、感傷的な涙がマイラに戻ってきた。


 「怖い……リーツェが戻ってきた……。あのときの、美しい姿のままで! ……でも、わたしはまた――あの子を殺してしまう……」


 マイラはすすり泣き、それ以上ものを言う力はなさそうだった。セヴィアンはクロエを抱き上げた。


 「彼女は死にません」


 マイラは反応しない。セヴィアンは構わず続けた。


 「そして、きっとあなたを許すでしょう。彼女は勇敢ですから」


 マイラは顔を上げ、幼い少女のような目でふたりを見つめた。


 ピッケたち保安係とフランコが人ごみにもまれたあとのぐしゃぐしゃな姿で駆け込んできて、舞台に水をかけはじめた。フランコがセヴィアンとクロエを見つけ、悲鳴に近い声を上げた。


 「大丈夫か、おまえら! 動けるか? 」

 「なんとかね」


 セヴィアンはその人を、とマイラを指した。座り込んで動かない彼女を、保安係がふたりがかりで連れ出した。


 「おおい、ウォーメル君! 」


 舞台袖でも奈落の階段でもなく、〈断罪の歌〉のためにデルトーレの町の広場が描き込まれた背景幕の後ろからマルチノの声がした。彼は貴族の城の壁――それは大道具として使われるが、本物の壁だった――にかかっている大きなタペストリーの裏に隠れた通路から顔を出してセヴィアンを呼んでいた。


 「こっちだ、こっちだ。他の通路は諦めろ! どこも閉鎖か、お客がぎゅうぎゅうに詰まっているよ。水が入ってくるだなんだと、そろいもそろって馬鹿なことを……それにしても、非常口ですら舞台の一部とは。まったく恐れ入るね」

 「こんな通路を、よくご存知でしたねえ! 」


 非常口は人がようやく行き違えるだけの広さで、長い上り階段が延々続き、誰か通ったときだけ光が灯るランプ(わずかな熱に反応して光る新種の鉱物が使われているが、まだまだ普及はしていない。セヴィアンはペルラさんの情報通ぶりに舌を巻いた)がところどころ星のように瞬く他は、暗い通路だった。セヴィアンが驚いて上げた声の響きは、出口の意外な近さを彼らに伝えた。


 マルチノは振り向かなかったが、にやりと笑ったらしかった。


 「怪盗の目の前で館内図やら舞台の図面やらを広げてくれた親切な青年がいたのでね。……安心したまえ、この階段は先が見えないからいつまでもあるように思えるが、劇場へ下りる螺旋階段より急な分ずっと短い」

 「変な気を起こさないでくださいよ」


 セヴィアンは背のクロエをそっと揺すり上げながら釘を刺した。


 「僕、ペルラさんに信頼されて見取り図を貸してもらったんですから」

 「その点は問題ない――君に悪気はなかったのだから。それに、わたしはじきに屋敷へ戻るよ。〈夕焼け〉も一目見られたし、後悔はない。劇場であんな大声を上げてしまうとは、我ながら不覚だったがね……」


 えっ、とセヴィアンは足を止めた。マルチノは、今度は振り向いてセヴィアンを見下ろした。


 「なぜこんなところにかのイルゼ・ミュセッティがお見えかと思ったが――彼女はことに都会嫌いの方らしいから――、治療の手伝いをしているうちにそちらのお嬢さんのおばあさまだと分かった。驚いたね、行方どころか存在すら知られていなかったリーツェ・ミュセッティの娘さんが、母上と同じ歌姫としてこんなに立派になっていたとは! どうりで、再来の名にふさわしいあの演技だ。そうは思わんかね」

 「ええ」

 「それで、だ。どうして彼女の胸に〈夕焼け〉が飾られていたのか、怪我人の相手をする間に少しずつ、イルゼさんに尋ねてみた。そうしたら、〈夕焼け〉はかのルイージ・ウォーメル氏の書き記したとおりにイゾラのウォーメル家に置いてあったそうだが……いくら大賢者でも自分がいなくなったあとのことは書けんのだね」


 マルチノはここで一度話を切った――。


 「〈夕焼け〉は彼が亡くなったあと奥方に渡り、彼女からイルゼさんに譲られ、ミュセッティの宝としてリーツェに渡されたが、リーツェが亡くなってから長いこと行方知れずだった。ところがつい最近、リーツェが亡くなる前に娘に渡していたことと分かったそうだ――つまり、そのお嬢さんに。ところが、クロエ・ミュセッティの存在は、長いこと彼女の母上と彼女自身によって隠されていたのだからね。これでは見つかりようもないというわけだ。幸運なそのお嬢さんは、その石が母上の形見以外の何かであることを知らなかったそうだが」


 マルチノは一切ふざけることなく言い、また階段を上りはじめた。


 「石の正体を知ってからは、なんとか君に返さなくては思ったらしい。かなり、悩んではいたそうだがね」

 「――あなたは、もう欲しいとは思わないんですか」

 「わたしは美しいものを愛しているのだ」


 マルチノは悠々と言った。


 「美しいものがふさわしい場所にあって誰からも称賛されているなら、わたしはそれで満足だ。私欲のために盗みに入るほど、愚かものにふさわしい行いはないと思わないかね? 〈夕焼け〉が歌姫の首元に輝くのなら宝石にとってこれ以上ない職を得るわけだ。君の手に返され、クロエ嬢の望みどおりに君の目に作用するのなら、君の芸術は新たな生命と大いなる翼を手に入れることになるだろう。もっとも、わたしは今までの鉛筆やら木炭やらの絵も続けるべきだと思うね」

 「僕の絵を買いかぶりすぎてやしませんか? 」

 「そうかね? むしろ、君はなぜもっとみずからの才能を誇らんのだね? ――恐らく、君のところへはそのうちに、わたしの友人たちから注文がつくようになるだろう。いずれも、はやりというものの正体を知っている紳士淑女だ」


 セヴィアンは呆気にとられてマルチノの背を見上げた。マルチノはその反応が予想通りだったらしく、肩越しにしたり顔を覗かせた。


 「いやいや、たまたま君の机の上で見かけた図案と同じ柄の施されたオルゴールをファラデーオルゴール店で見つけたので、一台失敬して友人たちに披露したのだよ。ファラデー氏には、店の戸を開けておく間はしっかり目を覚ましておくように、君から忠告してあげてくれたまえ」

 「怪盗のご友人じゃないでしょうね? 」

 「わたしほど崇高な目的で稼業をしているものはおらんのでね。つい三日か四日前も、祝祭の人ごみの中を訪ねていって買いものをしてきたとベルモンテの伯爵夫人が話してくれたよ。夫人は笑っていたが、君、お客の前であくびはやめた方がいいぞ」


 セヴィアンはあくびしているわけでもないのに思わず口を引き結んだ。


 「……あなた、何者です? その名前、偽名でしょう? 」

 「無論そうだ。本名で怪盗をやる人間がいたとしたら、人の予想を裏切るという意味じゃ天才かもしれんね」


 ようやく階段の一番上に辿り着いたようだ。突き当たりの扉の向こうは大部屋の楽屋らしく、怪我人や、彼らひとりひとりを相手しているイルゼ、動き回るペルラさんの大号令が聞こえ、それからそんな喧騒の中ではか細いものだったが、扉のすぐそばからディーナのすすり泣きが聞こえた。マルチノは扉を細く開けて中を窺った。


 「わたしが君たちを助けてくると言ったのだが、ディーナ嬢の慰めにはならなかったようだ」

 「彼女は友だち思いですから」

 「そのようだな」


 マルチノがこちらを振り向くと、部屋の光が彼の目玉にぎらりと力を与え、彼は胡散臭さを飛び越えて風格あるにやり笑いを浮かべた。すなわち、大怪盗の風格だ。ああ、姿をくらますのだなと、セヴィアンには分かった。扉を開け放つ間際に、彼は言った。


 「君がいつかわたしの正体に気がついたとしても、わたしは君の芸術的手腕を高く買っているひとりの友人以外のものになるつもりはない。だからそのときはまた、気軽にフリアーニさんと呼んでくれたまえ」



 舞台で〈夕焼け〉を渡して目を閉じたあと、彼女の感覚では数秒か、数分の間のことだったのだが、ふと気がついて起き上がるとなんと朝の――それも、二日後の――六時だったので、クロエはびっくりした。クロエよりもびっくりしたのは、彼女の寝ている周りに集まっていたディーナたちだ。この朝クロエは奇跡的に蘇ったといわんばかりにみんなに歓迎されたが、それを大袈裟だと思っているのはクロエだけらしかった。火事の煙を吸ったことであとから何か嫌な症状が出るのではないかと友人たちや義父ばかりかイルゼも疑っていて、


 「もう何ともないわ、大丈夫よ」


 というクロエの証言がどうやら本当らしいと分かっても、いいと言われるまでは医務室から出歩いてはいけないという命令は撤回されなかった。なぜ火事の煙の中にいたのに喉を大して傷めずに済んだのか、イルゼに教えてもらったあとはクロエももどかしくてならなかったが、ひどく疲れていることだけは認めなくてはならず、うとうとと見る夢と夢の間に、彼女と同じかそれ以上にくたくたに疲れているであろうセヴィアンのことを考えた。彼はイルゼの助手とピッケの事情聴取を同時にこなさなければならなかったとかで、今頃はアルモニアの楽屋で毛布にくるまって眠っていることだろうと、ペルラさんが涙ながらにクロエに教えてくれた。セヴィアンの体がようやく空いた頃、劇場の医務室はかつてないほど混み合っていて、彼には他に休みようがなかったのだ。


 「医務室は拡張工事することにします。ええ、わたし、今度ほど支配人としての不手際を感じたことはありません」


 ペルラさんは大わらわの劇場を行ったり来たりする間にクロエの見舞いに来て、嬉し涙と悔し涙を一緒にレースのハンカチでぬぐった。マイラが去り、医務室はイルゼとペルラさんの手で整理された。


 結局、マイラが使ったイバラベニランは見つからなかったが、マイラはクロエのカップにだけイバラベニランの原液を塗り、彼女が治療に向かうのを妨害するために飛行艇を故障させたのだとみずから告白したそうだ。そして、かつてリーツェとメルクリオの命を奪ったのが自分であるということも。


 「グラニータ先生が、まさかあんなことをするだなんて! ええ、ええ、歌姫を救い出した若者が倒れ込むための寝台くらい、すぐに発注しますとも。免許がないからといって、医務室の管理指導をおざなりにすべきではなかったわ。もちろん、不勉強を反省して、わたしも治療に当たれるくらいにはならないとね。――そう、楽屋の扉から出てきたあなたがたふたりは、まるで物語の王子と王女のようでした……」

 「髪がきれいに整えてあれば、もっと素敵だったのにね」


 クロエにりんごをむきながらディーナが言ったが、その場にいて笑ったのはミリアだけだった。


 クロエは元気を出して、ちょっとほほえんでみた。


 「あら、イバラを抜けてきた王子さまなんて、もっと大変な格好をしてるんじゃないかしら」


 イルゼはクロエが入院している間は毎晩香りのいいお茶を飲ませてくれ、薬効を教えてくれた。クロエが行儀よく寝ているのでイルゼは機嫌がよかった。イルゼから見てもクロエの体調は好ましい回復をしていて、出されるお茶の味は一杯ごとに軽くなっていくのだった。


 そして、入院三日目の夕方近くになってようやく、クロエの忍耐は報われることになった。彼女は起き上がって本を読んでいたが、いつかの晩と同じように彼が何の前触れもなく現れたので、思わず本を放り出して毛布をはねのけた。


 「君がこんなに情熱的だったとはね……! 」


 毛布に絡まって転びそうになったクロエを受け止めて、セヴィアンは言った。


 「ああよかった。そのくらいお転婆ができれば、もう心配いらないね」

 「あなたは、お加減いかが? 」

 「イルゼさんの目の前で部屋から出ても止められないくらいには元気だよ。おかげで、ロッティに化けてもらわずに済んだ。ひどい話じゃないか、夢を見るたびに君が出てくるのに本人に会えないなんて……ディーナは君が百年の途中で目が覚めちゃったイバラ姫みたいに退屈してるって言ってたよ。彼女もなかなかの詩人だね」


 それから彼は、もう心配いらない体調の友人相手には少し優しすぎる力加減で、クロエの望みどおりに彼女を抱きしめた。


 「……ずいぶん残酷なことを考えるね、君も。君はその命より、僕の目の方が大事なのかい? 」

 「そんなこと、思いもしなかったわ……」


 クロエは彼に擦り寄ったが、この問題に関しては彼女の方が有利と思われたので、反論することにした。


 「あなたこそ、ガラスに飛び込んできたり、火事の中へ入ってきたり、ずいぶん大胆ね」

 「そりゃあ……」


 とセヴィアンは言いかけたが、面映ゆさのために体裁を取り繕っていた皮肉の言い合いはお互いに長続きせず、クロエが先に吹き出して、不毛な舌戦は終わった。友情と愛情を込めて一言ありがとうと言えば、それでよかった。


 「君と話をしに来たんだ」


 セヴィアンは医務室の窓のカーテンを少し開けて外を覗いた。


 「まだ明るいね。ちょっと抜け出せないかな? 寒いから、肩掛けを忘れないで」


 劇場の白い屋根の上からは、時計台で見たのとはまた別の夕景が美しかった。


 セヴィアンは胸のポケットから首飾りを取り出して、クロエの手に乗せた。クロエは驚き、うろたえて、彼に尋ねた。


 「これ、あなたが探していた石じゃないの? 」


 形も、色も、舞台でセヴィアンに渡したときのままだ。彼が〈夕焼け〉に何も手を加えていないということが一目で分かったので、クロエはもしかしてとんだ見当違いだったのかしらと、泣きそうにさえなった。


 「わたし、間違えてた? それとも、〈夕焼け〉でも治せなかったの? 」

 「いいや、君も僕も、何も間違ってないよ。僕の目は確かに、この石があれば治せるみたいだ――じいちゃんは、わざと目を治さなかったんだと思う。その気持ちも、何となく分かるしね。じいちゃんとばあちゃんには、それが一番いい選択肢だったんだ」


 セヴィアンは優しく言った。


 「だから、次の選択もなるべくみんなにとっていいものにしたいじゃないか」


 クロエはセヴィアンの言うことの意味するところがよく分からず、眉を下げた。だって彼の言い方では、彼の目を治すことで損をする人がいるみたいだ。


 「どういうこと? 」

 「君の気持ちを傷つけてしまうかもしれないけど」


 とセヴィアンは前置きした。


 「これ、君の母さんの形見なんだろ? 」


 もうおばあちゃんに聞いたんだわ、とクロエは思った。あるいは、歌劇団の誰かからそれはクロエの母親の形見らしいというようなことを教えられたのかもしれない。どちらにせよクロエの秘密はもうセヴィアンに知られてしまって、彼はそのことについて彼女と話し合うために訪ねてきてくれたのだ。


 しかしクロエが本当に驚いたのは、虫がよすぎるように思えたイルゼの予想どおりのことをセヴィアンがしようとしているらしいということだった。


 「僕は父さんも母さんも亡くしたことがないから、本当に君の気持ちになるのは難しいよね。だけど、君にとっての〈夕焼け〉が他のどんな宝石でも埋め合わせできるものじゃないことくらいは分かる。――だから、君が悩んだことも、悩んだ上でこれを僕に渡してくれたことも、どっちも大事なんだ」


 あなたにとっても替えがきかないものだけどね、という反論はあまりに可愛げがなく思われたので、クロエは素直に打ち明けることにした。セヴィアンがクロエの話を聞いてくれなかったことなどなかったし、クロエの方にも、もはや後ろめたい秘密はなかった。


 「わたし、父さまのことも母さまのことも、もうあまり思い出せないの。最近じゃ、顔もはっきり分からないみたい……夢でしょっちゅう会うのに、おかしいわよね」


 セヴィアンは気の毒そうな、申し訳なさそうな、何ともいえない切ない思いやりを顔に浮かべたが、相槌を打ってクロエを励ます他は何も言わなかった。


 「わたしね。ふたりがそこにいた証がほしかったの、きっと」


 クロエはひとつの命をあたためるみたいに、〈夕焼け〉を両手の中に握った。〈夕焼け〉は灯のような輝きを絶やすことがないので、指の隙から細い光の脚がいく筋も漏れ出した。――まるで、彼の目のようだ。


 「どこにいたって、この石を持っているなら、ふたりが来てくれるかもしれないって。エドウィン義父さまには内緒よ、義父さまには、本当に感謝してるんだから。――まだ〈愛してる〉が欲しいなんて、欲張りかしら」


 この一言にセヴィアンはぎくりと肩を震わせたが、クロエは顔を上げなかったので彼の動揺には気がつかなかった。


 「母さまの日記を読んだの」

 「日記。ああ、団長に渡されたやつだね」


 セヴィアンは知らなかったが、実は彼が彼女に贈った絵は、この手帳の中に大事にしまわれていた。セヴィアンが聞いた。


 「なんて書いてあったんだい? 」

 「『愛してるわ』」


 クロエが真剣にそこだけを引用すると、セヴィアンは一瞬目を見開いた。


 「『クロエ、愛してるわ』って書いてあったわ。最後のページに」


 クロエは潤みはじめた声で言った。


 「『マイラ、ごめんなさい。メルクリオ、ありがとう』って。セヴィアン、母さまは、殺されてしまうって分かっていたんだわ。父さまもよ! マイラって、母さまのお友だちだった人なの。グラニータ先生のことだったのね」


 クロエは涙のしずくがこぼれるに任せて続けた。彼女はわずかにではあったが、ほほえんでいた。


 「――母さまの日記は、たまにページが切られてて……わたしが五つになったっていう誕生日の日記のあとなんかは、一年分日記がなくなっててね。どうしてかしらって思っていたの。誰かに意地悪されて悩みながら日記を書くうちに、母さまはグラニータ先生がやっているんだって気づいたんじゃないかしら。……それでそう気づいた日に、日記を自分で破った……」


 リーツェがマイラから陰でされていたことが果たして〈意地悪〉で収まることなのかどうかは分からないが、クロエはそれ以上血なまぐさく表現したくはなかった。それに、この推理はあながち的外れではなさそうだった。リーツェはマイラの様子がおかしいことに気がついて距離を置いたのだろうし、身の危険を感じるようになってからはそれを日記に書き、その後みずからの手で破り取ったのは間違いないだろう。


 恐らく、マイラ・グラニータの名誉のために。


 「母さまは、グラニータ先生が大好きだったのよ」

 「それに、君のこともね」


 とセヴィアンがつけ加えた。マイラとリーツェがどんな友人同士であったかは、今となっては人伝てに推し量るより他にはない。だが少なくともリーツェとメルクリオは自分たちで命日を決めたのではないかとふたりは結論した。


 「グラニータ先生は、君のお母さんが亡くなる直前まで舞台に立ち続けたと言っていた。――もしお父さんとお母さんがふたり一緒に亡くなることを選んだんだとしたら、それはきっと君やグラニータ先生を守るためだよ。グラニータ先生が君にまで矛先を向けないように、わざと君のことを自分たちから切り離したんだ」


 マイラに嫉妬を起こさせたからといって、自分たちの犠牲を選んだリーツェとメルクリオの判断が正しいものだったのか、それは誰にも分からない。マイラを憎しみから救い、クロエを危険から遠ざけるために彼らが下した決断は、すでに自尊心を欠いてずたずたになっていたマイラの心にありもしない恐怖と狂乱を植えつけただけだった。マイラがクロエの喉を傷つけ、再三に渡って彼女が舞台に立つことを妨害しようとしたのは、マイラの良心がマイラにクロエを殺させまいとしたからではないか――マイラはリーツェにそっくりなクロエの命を自分が衝動的に奪う前に、クロエを劇場から遠ざけたかったのではないか――マイラの心は切れ切れになって、助けを求めていたのかもしれない。


 マイラが自分の行いを顧みて、夫妻の安息とクロエの幸福を心から願えるようになる、その最初のきっかけが今度の惨事であればいいと、すべての事情を知る限られた人々は思っていた。


 「すぐに気持ちの整理をつけるのは難しいわ」


 クロエはイルゼの教えをひとつひとつ思い出しながら言った。


 「でも、ねえ、あなた、そうしなければ動かなかった運命がたくさんあったのよって、おばあちゃんが教えてくれたの。わたしがあなたと会って、あなたが目を治せるということになったら、わたしもいつかグラニータ先生のことを許してあげられるような気がするのよ。だって、喉がおかしくならなかったら、あなたとは……」


 頬に残った涙の粒をクロエが払おうとすると、先にセヴィアンの指が伸びてきて、するりとクロエの頬を撫でた。それはまるで、この世にたった一輪咲いただけの花に触るときのような、ありあまる感動に少し震えた指先だった。


 「……君、この詩を知ってるかな。君を見ていると、いつも思い出すんだ」

 「まあ。どんな? 」

 「〈美しき子よ〉」


 セヴィアンは目を細めて彼女に囁いた。


 「〈麗しきは 心震える君の優しさ。

気高きは 磨かる珠の輝くごとし。

君知るまいぞ うらうらに

照れる春日に我の悩むは〉――」

 「〈恋知りて 近寄りがたき君の愛しさ。〉――あら、続きはどうだったかしら」

 「〈世の中に あるやかわゆき君恋わぬ人〉だよ。ねえクロエ、僕のばあちゃんがイルゼさんになんて言って〈夕焼け〉を渡したのか、もう聞いたかい」


 クロエは静かに答えた。


 「『あの人と引き会わせてくれたあなたに』――」

 「そう。〈夕焼け〉はじいちゃんとばあちゃんが一緒になるきっかけになった石だからね。……あのさ、君はこの石を真ん中に置いて僕らのことを考えているけど、生きている間くらい自分たちを主役にしてみないかい」


 どういう意味かしら、とクロエはセヴィアンを見つめた。彼は遠まわしな自分自身に焦れたみたいに、急にクロエに尋ねた。


 「僕が何しに来たか分かるかい? 」

 「〈夕焼け〉のことを話しに来てくださったんじゃないの? 」

 「いいや。……別の用事が、まだ他にあるんだ」


 自分の返事はどうやら彼の勇気にとって水にも油にもならなかったらしいと、クロエは気がついた。セヴィアンは次の一言を出しかねている様子で、かといってクロエから目を逸らしもせず、一瞬唇を固く結んだ。


 「……つまり、僕らを引き会わせるために〈夕焼け〉は必要だったんじゃないかってこと」

 「まあ」


 クロエはびっくりして、ただ心を打たれて、真っ赤になってたどたどしく言った。


 「それじゃ結局、世界の始まりから全部、わたしたちのためにあったことになるわ。〈夕焼け〉ができるためにはあなたのおじいさまたちとわたしのおばあちゃんがお友だちでなくちゃならないし、何代も血を繋いできてやっと、人は生まれるんだもの」

 「そうさ、みんなすごい確率の積み重ねで生きてるんだ。じいちゃんの目が遺伝したのだって、ウォーメル家じゃ僕ひとりだしね」


 セヴィアンはクロエの手を取ったが、触れ合わなくてもお互いの肌の温かさが分かるくらいにふたりはお互いのそばにいた。もしセヴィアンがクロエの頬の色味をちゃんと分かっていたら恥じらいが彼を妨げたかもしれないが、セヴィアンは少し早口になったきりだった。


 「僕は君と会ったことには、そのくらい価値があると思ってるんだけど? 」

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カレン・トーラント 歯車の町 ユーレカ書房 @Eureka-Books

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