11、デルトーレの賢女

 劇場の玄関ホールから金の紐で左右に結びとめられた真っ赤な緞帳どんちょうをくぐると、ゆったりとした渦を巻く螺旋階段が現れる。ひんやりとした白い石造りの階段はところどころに灯かりが入れてあり、観客たちは知らず知らず、席に着くまでの間に口を慎むようになる。


 ごくたまに丸いガラスをはめ込んだ窓があると、覗き込んだ瞬間に外を魚が通ったり、遥か頭上に海面が見えたりして、お客は一足ごとに異界へ踏み込んでいく感覚を楽しむ。窓は完全に計算された位置に作られていて、青く輝く海や、月光にきらめく水泡以外――たとえば劇場の土台の一部だとか、網を打っている漁船の姿だとかを、お客が見ることはなかった。何条も光が射しこむ海に金や銀の魚を見つけた人たちは、人魚の宮殿を訪問するかのような気分にさせられてしまうのだった。


 「すごい設計だろ」


 人々の期待を込めた囁きがさざなみのように伝わってくる中で、フランコがセヴィアンに言った。彼もなんだか、うっとりとしている。


 「いつだってそうだ……あの階段を下りている間に、ぽーっとしちまうんだ」

 「そうだね」


 セヴィアンは館内図と本物の劇場とを見比べるのに忙しく、ぽーっとなどしていられなかったが、フランコの耳に心地よいように相槌を打った。フランコもセヴィアンと同じくただ観劇に来たわけではないのだが、水を差すのが気の毒になるほど彼は幸せそうだったのだ。


 「劇場は起きている人に夢を見せる場所だから現実のことを忘れさせる工夫があるんだって、ペルラさんが言ってた」


 劇場管理人のペルラさんは結局、魔法医の口にしたような非情な決断を下すことはなかった。彼女は厳格で、恐ろしく理性的な天秤を頭の中に持ってはいたが、情のない人ではなかった。


 あのあと〈瞑想の廊下〉へやって来たペルラさんは眼鏡越しにセヴィアンとクロエを見たが、その目は意外なほど優しかった。


 「無事でなによりでした。ウォーメル君、ガラスが割れそうなところへ飛び込んだんですって? なんて勇敢なんでしょう」


 そしてイルゼに向き直り、


 「アルモニア歌劇団の最終公演は、予定通りに行います。彼のような青年もいてくれることですし、大賢女のご判断を疑うわけにはまいりませんしね」

 「そんなことないわ」


 話を掴めないスオロや、ほっとして座り込むクロエや、相変わらず眉を開かず――というより、ペルラさんの寛大な処置には納得いかないという顔でますます気難しく黙り込むグラニータ女史の前で、イルゼははにかんだ。


 「よく分かったわね。写真は好きじゃないのよ、わたしは」

 「あら、本にいくらでも載っていらっしゃるのに。それに、実はわたくしも魔法を使うものですから……ほんの少しですが。どうりで、アリアさんの歌声が素晴らしいわけです。あの方にしてこの子あり、といったところでしょう」


 ペルラさんは、彼女としては最大級であろうほほえみをイルゼとクロエに向けた。それから、これも目を通しておいてください、とセヴィアンに舞台の図面や通用口の地図を貸してくれたのだった。


 「こんなことは、もう終わりにしなければ。魔法を悪用し、悲劇を現実にしたがるような方は、この劇場内にいることを許されません。そうよね、グラニータ先生? 」

 「もちろんです」


 グラニータ先生も、深く頷いた――。


 「起きている人に夢を見せるとは、なんとも言いえて妙じゃないか。だからこそこの劇場は、現実の干渉をことごとく許さない」


 後ろの列から誰かの声が割り込んできて、セヴィアンとフランコは同時に振り向いた。劇場の観客席は舞台を中心に半円形に高く持ち上げられていて、前列の人の頭が後列の人の視界を邪魔しないように設計されている。ふたりの頭のかなり上に、マルチノ・フリアーニのにやにや笑いがあった。


 「先日はどうも、我が家の屋根瓦を修理してくださったとか? 」


 セヴィアンは嫌味を込めて言った。マルチノの居場所を告発しようにも、間もなく開演というときになっては、それは実に分の悪い行いだった。劇場で立ち上がって叫び声を上げるなどという無作法をしようものなら、末代まで出入り禁止にされかねない。


 マルチノは余裕綽々で帽子のばねをたたみ、オペラグラスを取り出してセヴィアンの顔を覗いた。


 「留守番していた小さな君と、赤い小鳥のお嬢さんに追い返されたがね。今日も彼らは留守番かな。まあ、あの騒々しさでは仕方がないか……ウォーメル君、せっかくめかしこんで観劇に来たのだから、寝ぐせくらい直したまえ。それに、その頬はどうしたね? 」

 「大きなお世話です。幕が下り次第、保安係のピッケさんに通報するのでそのつもりで」

 「そうつんけんするな、今日は祝祭のうちでもことにめでたい日だ。舞台を観に来たら、本当にたまたま君たちの後ろの席だったのだよ。歌姫も復帰するというじゃないか――ご機嫌麗しいかな? 」

 「じきに分かるでしょうよ」


 セヴィアンは幕に閉ざされたままの舞台に向き直り、ふかふかした上等の座席に深くもたれた(アルモニア歌劇団が招待してくれたのは一階席の四列目の中央で、本当なら恐るべき価格の席だったので、座り心地も素晴らしくよかった)。


 不思議なことに、余計な厄介ごとが増えたと思いはしても、セヴィアンはマルチノの、あの人を食ったような顔を見てほっとしたのだった。マルチノは人目を避けなければならない稼業に身を染めているにも関わらず――いや、身を染めているからだろうか? 人前ではふてぶてしいくらいに落ち着いているし、優雅な物腰を忘れない。それに今日の彼は、本当にこの特別な舞台を観にやって来ただけなのだろう。きちんと正装をして観衆の中に行儀よく溶け込んでいるマルチノを見ていると、彼が落ち着いている限りは何も悪いことは起こらないような気さえした。マルチノは上機嫌に言った。


 「ファラデーさん。あなたのオルゴールは、いや、見かけ倒しに終わらないまごうことなき絶品ですな」

 「おお、分かるかい、あの音のよさが。なんたって歯の噛み合いが……」


 普段より気持ちが上擦っているフランコは、自慢の品を巧みに褒められてたちまち気をよくした。話題のオルゴールは薔薇の花一本と引き替えに、彼の店から消えたものだというのに。


 「はじまるよ」


 セヴィアンはフランコの上着を引っ張って席に戻した。八列目のかなり遠くから鷹のような目でこちらを窺う、グラニータ先生と目が合ったのだった。閉幕後の社交をそれなりに過ごすつもりで決めてきたフランコは、後々公衆の面前でがみがみ叱られるという恥辱を避けるべく大人しく背もたれに収まった。


 客席側の照明が淡く落とされ(これは灯かりの魔法を応用した便利な照明で、明るさを自由に刻むことができた)、舞台の上から吊られているシャンデリアが水晶の飾りを輝かせながら巻き上げられていく。光る糸の房で縁取られた幕が上がると、そこはクルミリスの森だった。


 わたしの森へ、とディーナが歌うと、わたしの森に、とライアットが重ねる。膝の上が地図やら見取り図やらで散らかっているセヴィアンのために、フランコはプログラムを見せてくれた。〈森の二重奏〉だ、と小声で説明を加えながら。


 「このあと人間の世界から戻ったクルミリスが、森の王のところへ戻ってめでたしめでたしってわけだ」


 『クルミリスと森の王さま』について、フランコは言った。セヴィアンは言葉で相槌を打たなくてもよいことに感謝しながら、フランコの解説は舞台芸術の類にあまりたしなみのない自分にはとてもありがたい、という態度を貫くことにした。


 本人以外は知らないが、積極的に出かけないというだけで、歌劇にまつわる関心はセヴィアンの心に長いこと根づいている。だから、たとえ一般にあまり知られていない歌劇でも話の筋はよく知っていたし、その点だけを比べるならフランコに劣らない自信さえあった。


 劇場を訪ねられる歳になるよりも目の異変に気がつくのが遅かったなら――何度か本物の舞台を観てから色が分からないことに気がついたのだったら、こんな頭でっかちにならずに済んだかもしれないのにと、セヴィアンは頭にリスの耳を乗せたディーナが森の王に抱きしめられるのを見ながら思った。周囲の人々と見え方が違う……それも、自分には無愛想な色ばかりが見えているのだと知ったとき、彼は歌劇に親しむことを諦めたのだ。美しいと決まっているものをわざわざ観に行って、傷つくのは嫌だった。


 自分の見ているものがおかしいと思ったことは一度もないが、周囲から聞こえてくる赤や青や緑や黄色や紫が彼は区別できなかったので、何度も癪な思いをした。閉幕したあと広場から聞こえてくる、大当たりした上演の歌で節を覚えたが、人伝てに覚えた歌は人から音痴を疑われるくらいにいい加減なものだった。

 セヴィアンはフランコの手元を勝手に覗き込んだ(フランコは舞台に夢中になり、セヴィアンのことをすっかり忘れていた)。彼女の出番は、もう少し先のようだ。


 君には色がきれいなものなんか嫌いだったと言ったけど、とセヴィアンは舞台袖に控えているであろうクロエに向かって心の中で呟いた。


 それは多分、誰よりもきれいな色ってやつを見てみたかったからだと思うんだよ……。


 『クルミリスと森の王さま』は主に子どもたちに向けて書かれた歌劇だったので、客席からは拍手とともにほほえみが送られた。舞台ではディーナとライアットがにっこり笑ってお辞儀をしている間に背景が直され、歌手が入れ替わる間に次の曲が始まった。


 村娘役のミリアと、母親役の女性と、浮気性の恋人役の青年が、質素な仕立ての村人の衣装で互いに別々の方を向いて歌う。青年は村の若い娘を、ミリアは自分を捨てた恋人を、そして母親はミリアを見つめて、報われない気持ちを歌う三重唱。〈わたしの声をお聴き〉という曲だ。フランコが眉をひそめたのは、結末を思い浮かべたからだろう――浮気な青年は夫のいる娘に言い寄って決闘で殺され、その死を嘆いた村娘は彼の後を追ってしまうのだ。


 結婚話を無理に進めようとする男爵を懲らしめる〈それではそのように〉。純情な娘が恋に気がつく瞬間〈空が落ちても〉。自由な女を手に入れたい男の〈三日月の歌〉。父親が娘に捧ぐ〈男親のアリア〉はエドウィンが歌った。〈英雄賛歌〉のためにスオロとライアットが並んで現れたときは、女性客から無言のままの歓声が上がった。明らかに熱のこもった圧力が増したのだ――決闘を盛り上げる輝かしい二重唱の画面の中に、ふたりが命を懸けて欲する女性役を入れなかったのはうまいやり方だと、セヴィアンは思った。実際にそんな光景に立ち会った場合、歌劇の結末のとおりにふたりとも袖にできる女性は、この客席の中にはひとりもいないだろうから。


 成人してから死ぬまでの五十年間、毎日違う人物に変身し続けた伝説の魔法使いヴァルトマンゾの歌う〈一万八千二百五十分の一のわたし〉。カレン・トーラント公演のために新しく書かれた〈職人組合の合唱〉が披露されると、いよいよ――。


 舞台はある国の、王城前の広場だ。淡い脚光にみすぼらしい服を着た〈デルトーレの賢女〉が浮かび上がる。

兵士に扮した合唱隊が、槍を打ち鳴らして拍を合わせながらすごみのある声で歌に礎を築く。この〈断罪の歌〉の地盤は、打楽器と最小限の弦楽器、そして人々の声だ。舞台にはこれまでで一番多くの群衆が現れ、〈観衆〉たちが反対や野次を好き勝手に飛ばす――おお呪いをもたらす娘よ! 賢女さま! 賢女さま! 物を知らない愚かものどもめ! どうかお救いください……。神をも恐れぬ仕打ち……。


 ミリアがひときわ甲高い装飾的な〈悲鳴〉を上げ、ばったりと〈失神〉した。クロエは歌わない。乱暴な手つきで引っ立てられてきて、うつむいたままだった顔を少し上げ、目の前に突き出された槍の穂先越しに客席へまなざしを巡らせただけだったが、その瞳ときたら!


 セヴィアンは自分の動揺を危うく隠し通したが、フランコはううんと唸り、何度も瞬きしないではいられなかった。クロエの目はそのとき、誰のことも呪わずに甘んじて死を受け取ろうとする人の持つ張りつめた気高さに満ちていた。


 ミリアが憧れたとおり、彼女は確かに〈本物〉だった。


 「美しい」


 突然まさに考えていたことを言い当てる声が背後から聞こえて、セヴィアンはぎくりと振り向いた。マルチノは自分の一言でどぎまぎしている青年がいるとはつゆ知らず、オペラグラスを当てたり外したりしながら舞台を満喫していた。


 「何たる演技だ――演じているのだと忘れてしまいそうだ」


 マルチノは自分を戒めるように言ったが、彼の陶酔への戒めは長続きしなかった。青年将校役のライアットがクロエに松明を突きつけ、服従か強情か、お好きな方をお取りなさいと歌いかけると、クロエは彼の方へ顔を振り向けて歌い返しはじめた。どんなに厳格で頭の固い客でも、このときセヴィアンが陥ったのと同じ白昼夢を拒否することはできなかっただろう。仮にフランコがセヴィアンよりも冷静で、若い友人におい、口が開いてるぞと話しかけられたとしても、セヴィアンには何も聞こえなかったに違いない。歌劇団の誰もが観客にもたらしたいと思っている境地――彼は現実をまるっきり忘れてしまったのだった。


 この世界は美しく、わたしは幸せでした。クロエの声は曲中の最高音に難なく、羽根のように軽く触れて、細かく震えながら劇場の中をゆっくりと広がっていった。


 たとえ真実が裏切られ、打ち捨てられるさだめであったとしても――。


 待て!


 恋人役のスオロが割って入り、将校も衛兵も、群衆たちも退けて高らかに歌い上げる。


 君の世界は、まだ美しいままだぞ。君はもう、その身を虚無に明け渡すのか?


 賢女は彼とともに立ち上がり、揺れただようような優しい声で歌いはじめる。声が揺れて儚げなのは、賢女が今の今まで不当に縛められて体が弱っていたせいだ。優しい声が出せるのは、彼女がいかなる仕打ちにも恨みを覚えたりしない魂の持ち主であるためだ。一度代役を務めたはずのミリアが、〈失神から目覚めて賢女にひざまずく〉という演技を忘れて、起き上がったままクロエの歌に聴き入っている――もっとも、その方が心を打たれた人間の仕草としては自然だったので、演技でないことを見破ったものはあまりいなかった。


 「ブラーヴァ! 」


 マルチノの喝采で、セヴィアンは我に返った。〈断罪の歌〉が終わり、出演者たちが拍手に応えてお辞儀をしている。これまでで一番素敵な夢の、一番快い瞬間に乱暴に起こされたみたいな気持ちで、セヴィアンはマルチノを振り向いた。劇場の中はもう大変な歓声で、どうせ舞台まで届きやしないのに、マルチノはクロエだけでなく出演者全員を褒め称えるためにもう一度喝采を送った。


 「ブラーヴィ! 素晴らしかった! ほら、君も何か言ってみてはどうかね? 」

 「僕はまだ浸っていたいんです」


 邪魔しないでくれという自分の悪態で余韻をこれ以上損なうのすら惜しかった。セヴィアンは横目でマルチノを睨んだ。


 「まだ少しぼうっとしているんですから、ちょっと放っといてください。いい魔法薬でも飲んだみたいだ」

 「そうだろうとも、芸術とはまさに、上等の魔法薬だ。我々をすっかり痺れさせて動けなくし、現実を忘れさせてめくるめく夢を見せ、解けたときには寂寥というわずかな副作用まであり、依存性もある」


 マルチノは彼もすっかり中毒だ、と言いながらフランコの方を顎でしゃくった。フランコは席から立ち上がり、脇目も振らずに舞台に拍手を送っていた。


 「だから美しいものは滅びんのだ」


 マルチノは悠々と背もたれに落ち着き(前列のセヴィアンには知る由もなかったが、マルチノは身を乗り出して歌を聴いていたのだ)、次の〈祝福の日〉を待った。セヴィアンは、自分で認めるのは癪だったが、マルチノとは案外気が合うかもしれないという心の声を無視するわけにはいかなかった。マルチノには、世間の評価や単なる好奇心に惑わされない訓練された審美眼があり、浮ついた騒々しさや軽々しいはやりには値打ちを認めない人だという気がしたのだ。


 マルチノが一方的に絡んでくるつき合いはそこそこ長かったが、これほど近くで言葉を交わしたことなどない。セヴィアンは聞いてみた。


 「……あなたは、なぜ怪盗を? 」

 「さあ、なぜかな」


 マルチノははぐらかそうというのではなく、本当にちょっと考え込んだ素振りを見せた。彼は面食らった顔でセヴィアンを見た。


 「考えたこともない。美しいものを欲するのに、理由などないよ」

 「盗み出すしか方法がないっていうんですか」


 セヴィアンは呆れて言った。マルチノはもういつもの、食えない男に戻っていた。


 「交渉しても分かってもらえない相手になら、しかたなかろう。美しいものは、万人を楽しませる権利と義務がある。どこぞの屋敷の物置きで箱に入れられたままの宝石や、カビが生えたままの絵画や……主人の所有欲を満たしただけで放置されている国宝級の品が、いったいいくつ眠っていると思うね? 君になら、わたしの仕事の価値が分かると思うのだが――ああ、手癖が悪いというのではない。君は絵を描くだろう」


 セヴィアンは心の中でマルチノの株が上がるのを感じたが、辛うじて態度には出さずにおいた。


 「僕は自分の描いた絵が盗まれたら嬉しくありませんよ」

 「本当に? 怪盗が狙うほどの価値が自分の絵にあったのだと、三日後に気がついてもかね? ……まあいい。美しいものを生み出す手を持っている限り、君はそれだけでも、わたしの敵にはなりえない。君がご婦人を宝石に見立てて口説くような、くだらない男でないことを祈っているよ」

 「女性を宝石に喩えたらいけないんですか? 結構詩的だと思うけど」

 「喩え方次第だね。むろん、巧みな一節に出会うこともあろうさ。しかしな、わたしの知っている中に、実にくだらない男がいたのだよ。女性と見ると、こうだ――〈君は、まるで宝石のような女性だ。大切に磨かれてしかるべき存在なのだ。〉次だよ、次――〈なるべくなら宝石箱の中に入れて、愛でていたいものだよ〉。……まったく、吐き気を催すほどの傲慢だ」


 マルチノは不愉快そうに鼻を鳴らした。


 「自分と同じ知性と人格を相手に認めていれば、こんな愚かしい表現はできぬものさ。まあ、時には思わず盗み出したくなるような、美しい瞳の持ち主もいるがね」


 マルチノの持論と彼の稼業とを結びつける過去が一体どんなものだったのか。このやりとりからだけで推測するのは難しかったが、セヴィアンはマルチノがそれ以上込み入ったことを話す気がなさそうなのをいいことに、かなり劇的な想像を繰り広げた――彼はかつてどこかの深窓の令嬢と恋仲になったが、彼女は妻を自分と同等のものとはみなさない男へ嫁がされ、ろくに人生を楽しむことなく儚くなってしまった、だとか。その男へ復讐するために彼女の形見を盗み出したのが怪盗家業の第一歩だったのだ、だとか。


 しかし――セヴィアンはありそうでもありなさそうでもある推理を脇へやって、考えないわけにはいかなかった。とすると、彼はどうして〈夕焼け〉が欲しいのだろう。


 美しい宝石だからだというあたりまえの答えにセヴィアンが行き着いたのは、このときが初めてだった。セヴィアンは色の美しさでものを判断したことがなかったので、〈夕焼け〉を欲しがる人はみな、魔法の石であるということに価値を置いているのだとばかり思っていた――珍しい過程を経て生まれた石だから欲しがる人が後を絶たないのであって、その石がたまたま美しさを同時に持っていたのだ、と。セヴィアンのように特別な理由で〈夕焼け〉を求める人ばかりではないにしても、大賢者が生み出した伝説級の遺物だ。手元に置きたいという人間は少なからずいるだろう。


 セヴィアンは色に対するためらいはあったが美醜に無頓着なたちではなかった。そこで、本当の理解は及ばないが、〈夕焼け〉がきれいなものであることをなんとか覚えておこうとした。――ということは、魔法の石としてではなく、普通の宝石として人から人へ渡り歩いている可能性もかなりあるのではないか? もしかしたら、誰かとの絆を象徴する存在になっているかもしれない。たとえば、恋人からの贈りもの。無事の祈るお守り。


 あるいは、誰かの形見。


 だとしたら、その人は僕が〈夕焼け〉をちょっとでも傷つけるようなことを許してくれないんじゃないだろうか。


 まるでセヴィアンがこの仮定を考えつく頃合いを見計らったかのように、じきに彼の目では発見不可能と思われていた石のありかが、彼だけでなく劇場に居合わせた全員に知れた。


 コンサートの最後の曲が始まったとき、それまで音楽鑑賞の作法を毛の先ほども破らずにいたマルチノが突然我を忘れて立ち上がり、オペラグラスを取り落すのも構わずに舞台を指差したのだった。


 「〈夕焼け〉だ! 」

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