第20話 報復のアリア(後編)

 真尋まひろは熱さと暑さに耐えながら一歩ずつ歩き続けた。

 汗が滴り落ちる。

 黒い床に落ちた汗が、ジュワっと音を立てて蒸発した。

 その光景に血の気が引く。

(ふざけるな…!)

 だが、その感情も、すぐに上書きされる。

 なぜ雪姫ゆきが客席にいてこんな自分の姿を睥睨へいげいしているのか知らないが、何か関わっているに違いない。報復のつもりか?ならば受けて立つ。ここを生きて出たら、絶対に後悔させてやる。

(ぜったいに、いきて……)

 足がふらつく。

 暑さと脱水症状、極度の緊張状態が、真尋の体力をどんどん削っていく。

 足も熱いはずなのだが、当初より感覚が乏しい。

 歩きにくい。それはしょうがない。ブラウスとパンツスーツを足に巻き付けて靴のようにしているが、早く歩こうとすると解けそうになり、ゆっくりしすぎては熱が伝わってきそうで恐ろしい。

 この床はどこまで温度を上げるのだろうか。毎秒一度ずつ高温になると言っていたが、まさか上限がないなんてことはないだろうか。

 出口まであと二十メートル。いや、もう少しあるだろうか?

 毎秒何メートル進めている?どれくらいで辿り着く?

 計算できない。頭がぼうっとする。

 死の恐怖と娘への怒りがごちゃ混ぜになり、自分の感情がわからない。


「あ、」


 ふと、足の甲にぴりっとした痛みを感じた。

 床面に触れ続けて熱を持ったパンツのファスナーがふとした拍子に触れたせいだ。

 ちょっとしたことのはずだった。

 だが、ほんの少しの刺激が、足をびくりと反応させ、歩く調子を狂わせた。


 真尋の体が傾ぐ。

 観客たちが「お?」と期待する。

 

 真尋は思わず手をつこうとして、しかしその先が熱された鉄板であることを思い出し、踏ん張った。

 右足で。


 ブラウスからすっぽ抜けた、右足で。


「ふぅ、……あ――」

 転ばなかったことに安堵した真尋だったが、すぐに足が床面に直に触れていることに気付き、

「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――っ!!」

 足裏にみるみる伝わる高熱に、絶叫を上げ、反射的に右足を勢いよく戻したせいで踏鞴たたらを踏んだ。

 そのまま倒れるかと思われたが、右足はすっぽ抜けたブラウスの上に着地し、難を逃れた。

 観客たちは「あ~~」と失望の声を上げたが、雪姫は微笑の形に唇を歪ませるだけで、余計な歓喜や落胆の声も出さなかった。


 真尋はどうにか体勢を立て直すが、先までの朦朧とは打って変わって、激しい動揺が頭の中を埋め尽くしていた。

(いやだいやだいやだいやだいやだいやだ――――)

 世の理不尽を恨むように、恐怖の感情が溢れ出る。

 右足裏がどうなっているのか怖くて直視できない。冷静になれば、体重がかかったとはいえ数秒の出来事なので、Ⅰ度熱傷で済むとわかるはずだが、そんな判断すらできずにいた。

 落ち着けとと言い聞かせても、逆に動揺してしまう負のスパイラルに、真尋は嵌っていた。

 足が震える。進めない。

「誰か、助けて……」

 思わず漏れた、助けを乞う呟き。

 そんなもの意味をなさない。

 呟いたことで変わるのは、観客の興奮具合だけだ。

 息を吸う度に熱気が喉を、気管を焼かれるように苦しい。

 次の一歩が踏み出せない。

 膝が笑っている。

 十秒、十五秒と過ぎても、歩き出せない。無為に時間だけが過ぎていく。

 滴る汗が落ちた。

 大粒の汗が床面に触れ、先ほどよりも早く蒸発する。

 観客席の画面には、『155℃』と表示されていた。


 震える脚で、やっとのことで一歩を踏み出した。

 三秒かけて、たった二十センチの前進。

 牛歩でどこまで進まねばならないのか。十五メートル?二十メートル?

 辿り着けるわけがない。

 鉄板に全身の肌を焼かれて人間焼肉になるしかない?

 暑さで脱水症状を起こせば死ねるか?血流量が減って血圧も下がっているかもしれないが、これまでにどれだけ発汗しているのか。いや、そんなことどうでもいい。どうせ死ぬしかないならせめて苦痛なく逝きたいが、そんな未来は用意されていないのだ。高みで見下ろす奴らは、こうして死に怯えていく様を楽しんでいることだろう。どうせそういう連中だのだろう?雪姫も同じか?どんな気分だ?どうやってこんなコミュニティに接触できたのかはわからないが、自分を殺そうとした親に復讐できて満足か?惨たらしく死ぬ様を見られて満足か?

 どれだけ進めた?もう五メートルくらい進んだか?

 全身の肌が引きつっているように感じる。動きにくい。体が重い。

 今、歩けているか?進めているか?

 立ち止まっている?足を前に出せている?

 もう、何かを考えることすら難しくなっていた。

 どれだけ時間が経っただろうか。

 視覚がまともに働かない。平衡感覚がない。自分は立っているのか倒れているのかわからない。

 さっきまで暑かったはずなのに、全身がひんやりと、冷たく感じた。



『ほら雪姫、泣かないで』

 ふらつく足取りの母の姿を見下ろしていると、雪姫は幼少時の記憶を蘇らせた。

『もう痛くないよー』

 転んで泣いてしまった自分を、若かりし母が目線を合わせてしゃがみ、服についた汚れを優しくはたいてくれた。笑顔だ。ここ数年見ていない、優しい笑顔。


『おかあしゃま、おたんじょうび、おめでとー』

『あら雪姫、ありがとう』

 道端で、アスファルトの隙間から一輪だけ咲いたタンポポを差し出した。

 この時も、笑ってくれていた。


『お母様、だーいすきっ』

『わたしもよ、雪姫~~』

 キャーキャー言いながら、母に抱きついて、抱き返してくれた。


『大人になったら、きれいでやさしいお母様みたいな人になりたいですっ』

 小学校の授業参観で読んだ家族を題材にした作文、その内容に赤面して、周囲の保護者に会釈する母の姿。自分がニカっと笑うと、照れながらも手を振ってくれた。


『雪姫、悪いことしたときは、ちゃんとごめんなさいでしょ?』

『ごめんなさい……お母様』

『はい。次から気をつけてね。雪姫はこんなもの使わなくたってかわいいんだから』

 母の口紅を使って怒られた時、それでもかわいい、と言われて嬉しかった。



「だめでしょう、お母さま」

 現実に意識を戻し、雪姫は見下ろしながら口を開く。

 ここ数年の疎まれていた時期のことがほとんど出てこない。それだけ思い出すことそのものがないということなのだが、刺客を差し向けられて母を憎んでいたこの一、二ヶ月の記憶より前の出来事が、ほとんど記憶に残っていない。

 父が雪姫の体を性的に触れていた事実を知った当初、母はその怒りを父にぶつけていた。それがいつからだっただろうか。その矛先が雪姫自身に向けられたのは。

 最初はただ「ごめんなさい」と謝り続けた雪姫だったが、いつからか、本当に自分は悪いのか、と考えるようになり、母の怒りを理不尽に思い、反抗し、互いに接触を拒んできた。

「悪いことしたら――」

 母にとって、それは単純な拒絶だったのか、怨嗟故の嫌悪だったのかはわからなかったが、殺そうと人を差し向けて、あまつさえ娘の生存に罵詈雑言を吐くようなことから、後者であったということなのだろう。

「ごめんなさいしなきゃ」

 一人呟く雪姫の頬に、一筋の軌跡が流れた。



 そのとき、真尋の意識が覚醒した。


 冷たいと思っていた感覚が、正常に現状を伝え、現実に引き戻した。


 それは、真尋にとって悪夢の再来だった。


「あ――――、あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――っ!!!!」


 本日一番の絶叫が、会場に木霊した。

 いつの間にか二五〇度を超えた床に、直に肌を焼かれているのだから当然だ。

 熱したフライパンに触れ続けることを想像すれば、その惨状は想像に難くない。

 体力的にすぐ動くことなどできなかった。できたのは、転げまわることだけだ。

 申し訳程度の汗が鉄板の上で、ライデンフロスト現象で蒸気を上げながら形状を保っている。


「フフ」

 そんな母の姿を見て、雪姫は笑っていた。


 焼かれて床の鉄板に張り付いた肌が転がることでべりべりと剥がれ、直に真皮を、神経を焼かれ、筋肉と脂肪を熱せられ、熱さと激痛でまたのた打ち回る。

「あ゛ぁぁ――ぁ――ぉぉぁぁ――」

 叫びたいのに、叫べない。出てくるのは掠れた声だけだ。

 小さくなる真尋の悲鳴と裏腹に、観客の熱量は最高潮となる。

 食い入るように見る者や指差し笑う者、股間を隆起させて叫ぶ者など様々だ。

 焼かれることで異臭が上がるが、観客までは届いていない。

 

「フフ、クッ、ハハ――」

 雪姫は半月状に歪めた唇で、声を上げ、笑っていた。


「あ゛あ゛……」

 とうとう誰にも聞き取れないような蚊の鳴くような悲鳴しか発せらなくなった。

 全身が赤茶けた真尋の体が、右半身を下にして固まった。まるで抱き枕でも抱いて眠っているかのように。

 しばらくそのまま固まって、ごろりと仰向けになった。

 こんがり、を通り越し、赤黒くなった右半身が露わになる。顔の三分の一が真っ黒になっていた。

 皮膚が捲れてもすぐに焼かれるため出血はあまりなく、したところですぐに焼かれて、焦げ跡として真尋が転がった跡をなぞっている。

 とうとう動かなくなり、何も発さなくなった女の姿に、観客たちはさっきまでの興奮はどこへやら、興味を失い静かになった。

 何の反応も示さない『死体』になど興味はないとでも言うかのように。


「フハハ、クフフ、ハッハハ――」

 そんな中、雪姫だけは笑い続けた。


 ただ時間だけが過ぎ、とうとう床の鉄板温度が『400℃』と表示された。

 真尋だったものから染み出した動物性油脂が発火した。

 うっすらと煙を上げながら、人の体が燃えていく。

 その頃には、興味を失った観客の多くが退席していた。

 炎に包まれる母親の体を、変わらず雪姫は見下ろし続ける。


「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――――」


 白けた会場のボックス席で、雪姫はまだ笑い続ける。

 一条は立ち上がり、雪姫の肩に手を置く。

「もう帰ろう。全て終わった」

 この時ばかりは、一条の笑顔もややぎこちないものになっていたかもしれない。

 雪姫が振り向く。

「ハ、ハハ」

 目を大きく開け、目尻から止め処なく流れる涙を頬に描きながら、白い歯を見せて笑っている。

「クハッ、フ、ハハハハハハハ――――」

 まるで壊れた人形みたいに、ただただ涙と笑い声を吐き出し続ける存在となって、


「ハハハ、ク、ハハ、ハ……」


 白野雪姫は、願い続けた復讐を遂げた。


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