第19話 報復のアリア(前編)
目覚めると、目に入ったのは白い天井だった。
白野
なぜ自分がこんなところで寝ていたのか、ここはどこなのか。自分は何をしていたのか。はっきりと思い出せない。
ベッドから降りる。足が冷たい。靴下もなく、靴も見当たらない。直に床の冷たさが伝わる。
八畳ほどの広さの部屋は、全て白。天井も壁も床も、全て白。
正面に鏡があるので近づいてみる。
そこに映るのは、白いブラウスとグレーのパンツスタイルの自分の姿。
年齢の割に若く見られ、結婚前もその後も、男性の注目を集めていた。
だが、よく見ると綻びが見える。目尻の皺が気になる。ほうれい線もいつの間にか濃くなった。首筋にも年齢が滲み出ている。化粧を落とせば血色の悪くなった唇が露わになることも知っている。
(嫌になる……)
年齢を重ねたことを改めて実感し、気を落としながらも真尋は部屋を出た。
薄暗い通路が続くが、進める方向に進む。
突き当りになり、どうしようと周囲を見回すと、闇が割れた。
扉が開いたことに気付く。
恐ろしかったが、前に進むしかないと思い、真尋は扉をくぐった。
見るからに仕事帰りといった服装で、困惑しながら周囲を見回し、怯えを隠せずにいる様は滑稽に思えた。
母の姿が小さく見える。
距離があるせいだけではない。きょろきょろと、一歩ずつ踏み出しては様子を窺う格好が、扉が閉まってびくりと体を震わせた様が、とても矮小な存在に思えたからだ。
今回の会場は、黒い鉄板が敷き詰められている。
真尋が出てきた扉から反対側の壁まで二十五メートル、横幅五十メートルの長方形で、緑の壁に囲まれている。
『皆さま、長らくお待たせいたしました。本日のショーの開演です』
会場に響く、男性の声。
真尋はばっと顔を上げるが、当然声の主を見つけることはできない。
『本日の主役は、病院経営者です。五年前、夫を亡くし、その跡を継いでいらっしゃいます。しかし、彼女には秘密がありました』
朗々と読み上げられる、落ち着いた中にも湧き上がる感情を抑えきれないといった口調の男の声が、場の空気を温めていく。
『彼女には罪があります。五年前、自分の手で夫を亡き者にしました。病院を自分のものにするために』
真尋が大声を上げた。
「違う、
異常な状況下に置かれながらも、全力で否定した。
雪姫は父の死の真相を知らない。母が殺したというのはあくまでゴシップで、この場を盛り上げるためのシナリオだ。父の死を金持ちや権力者のエンタメにすることに抵抗はあったが、相手もボランティアでやっているわけではないので、雪姫の希望を通すための妥協点として割り切った。
『それにとどまらず、彼女は実の娘を二度も殺そうとしたのです。苦しみ悶えながら死ぬといい、必ず探し出して息の根を止めてやる、と息巻きながら』
仮面を着けた観客から「とんでもない女だ」「狂気の沙汰だ」と非難の声が上がる。その口角を上げながら、嬉々として蔑みの眼差しを向けて。
『それでは、ルールを説明しましょう。簡単です。目の前にある扉を開けて脱出していただければクリアです。ただし、彼女の足元のホットプレートは、毎秒一度ずつ加熱されていきます』
真尋は思わず自分の足元を見る。
ホットプレート。
黒い床面を見れば、確かにそう見えなくもない。
これが加熱される?馬鹿な。何の冗談だ。
加熱されるというが、どちらかといえば裸足でいるせいでひんやりしているが。
周囲を見回せば、劇場のボックス席のような場所から仮面を着けた男女がこちらを見下ろしているが、こんなことがあるだろうか。
まるで、見世物ではないか。
『では、スタートです』
よくわからないまま、開始宣言がされた。
こんなおふざけさっさと終わらせたい。
そう思い、真尋は早足で歩き出す。
視線の先には反対側の扉。二十メートル以上の距離があるが、早歩きならば二十秒程度見込めば辿り着ける。
こんなお笑い芸人みたいなマネは屈辱だと、真尋は足早に対面の扉へ怒りを滲ませながら歩を進める。
まだ、大規模なイタズラくらいにしか思えていないため、危機感は抱けていない。
足元がどんどん熱くなるというが、十秒経ってもまだひんやりした感触だった。
更に十秒して、真尋は扉に辿り着く。
「なんなのよ、もう」
苛立ちながら、ドアノブを回す。
押す。
引く。
だが扉は開かない。
「なによ、開かないじゃない!」
更に苛立ち、両手でガタガタと扉を前後させるが、どうやら施錠されているようだった。
この無様を周囲の人間に笑われていると思った真尋は周りを見回し、仮面を着けて笑っている観客を睨む。
雪姫は苛立つ母の姿を見下ろし、
「お願いします」
誰にともなく呟くと、会場の照明がほんの僅かに照度を落とされ、代わりに雪姫のいるボックス席が僅かに照度を上げられた。
必然的に、そのボックス席が、周囲を見回していた真尋の目に留まった。
雪姫は仮面を取る。
離れていてもわかるその姿に、真尋は怒りの感情そのままに喚き散らす。
「あなた、そんなところで…!なんのマネ!?早くここから出しなさい!」
他にも罵詈雑言がこれでもかと吐き出されるが、雪姫は無視して左手の人差指である一点を指す。
釣られて真尋が視線を向けると、左側の壁に照明が当てられていた。
『さて、ここから出るには鍵が必要です。無事に鍵を手に入れて脱出することができるでしょうか』
先の男のアナウンスが状況を伝えた。
これから左端まで行って鍵を取ってこなければならないらしい。
真尋はじんわりと汗を滲ませながら、壁に向かって走っていった。
左壁中央に照明が当たり、微かに光っている。きっとあれが鍵だろう。
雪姫は足元に設置されたディスプレイに視線を移した。
汗を滲ませながら走る、アップにされた母の姿。
右上の表示は、『44℃』となっている。
あの汗は熱された鉄板のせいだろうか。それとも緊張や羞恥、運動の結果か。
どちらにしろ、そろそろ辛くなるだろう。
三十メートル先への移動、裸足で固い鉄板の上を走るには足が辛いはずだ。十秒以上はかかるはず。
母が壁に辿り着いた。
表示される温度は『59℃』、感覚としては砂浜に立っているときと同じくらいだ。
熱くて同じ場所に立っていられない。
真尋は鍵がある壁に辿り着いたはいいが、床の温度に足をバタバタと交互に上げ下げしていた。まるで夏のビーチだ。とても足を直につけていられない。
おまけに鍵はざっと二.二メートルの位置にフックで提げられている。身長一六〇センチの真尋が取るには思い切り、それこそ垂直飛びの測定の如く跳び上がらなければならない。そんなこと、この高熱の鉄板の上でできるのか?
砂漠にいるトカゲのように足をバタバタさせる様は、観客たちを大いに笑わせた。
病院の経営者と紹介されたが、地位も金もある人間が無様にもがく姿は、この客層には大変受けがいい。普段部下にどう接しているのか、叱責された部下がこれを見たらどう思うだろうかと、ボックス席から見下ろす観客たちはニヤニヤと笑い、指差し、嘲笑する。
と、ここで「おぉっ」と観客が沸いた。
熱さに暴れる病院経営者の女が、その白いブラウスを慌てて脱ぎ出したからだ。
真尋は知恵を絞った。
このままでは熱くてバタバタと暴れることしかできない。
ならばと、恥も外聞も捨ててブラウスのボタンを慌てて外した。そして、脱いだブラウスを鉄板に叩きつけ、その上に立った。
まったく熱くないわけではないが、かなりマシになった。
紫の生地に金と水色の刺繍のブラジャーが露わになるが、熱さだけでなく暑さも耐え難くなってきたため思ったほど羞恥は湧いてこない。
更にグレーのパンツスーツのホックを外しファスナーを下げ、急いで足から引き抜くと、同じく足元に敷いた。
上下とも紫の下着のみという姿になったが、羞恥心よりも命の危機が勝った。
そう、今になって、恐怖を感じ出した。
もうこれはおふざけではない。真尋の中にある幾許かの医療知識が、これは危険だと警鐘を鳴らしていた。
(こんなところで、死ねるか…!)
膝を曲げ、大きく腕を振って、理不尽な状況と、未だ拭えない娘への嫌悪を力に変えて、思い切り跳躍した。
指先を鍵が掠めるが、失敗。
もう一度跳ねる。
今度こそ、と伸ばした手が、鍵を弾き飛ばし、その手に収まった。
観客は大いに沸いていた。
その種類は大きく分けて二つ。
服を自ら脱ぎ出し、下着姿となった女が跳躍する様に興奮を覚える者。
露わになった体、そのはみ出た脇腹と膨らんだ下っ腹、垂れた尻と、年齢を重ねた老いの体を嘲笑する者。
ただのストリップならばここまで興奮することはなかっただろう。
自分の命がかかっている状態で無様に足掻く様を見たいと思っているからこそ、観客は盛り上がっているのだ。
そして、雪姫は無表情に、下着姿で跳ね回る実母を見下ろしていた。
画面の表示によると、現在の鉄板温度は『80℃』。
もう直に触れることは適わない温度だ。
鍵を手に入れた真尋だったが、振り返ると景色が歪んで見えた。
どれだけ時間が経ったかわからないが、直に足で鉄板に触れない方がいいと思い、左足にパンツスーツ、右足にブラウスを履いて、すり足に近い形で出口の扉へ向かっていった。遠目には忍者の水蜘蛛に見えなくもない。
「順調じゃないか」
雪姫の背中に、常の笑顔を貼り付けた一条が呼びかけた。
現在床温度は『95℃』。
布越しであれば、長時間加熱面に接触しなければそこまで温度は上がらない。ブラウスの生地がどこまで耐えられるかはわからないが、三十メートルほどの移動なら耐えられてしまうのではないだろうか。
『脱出』を謳ってはいるが、あくまでこれは相手の『死』を楽しむ催しだ。殺すのが前提であり、生き残ってはマズイ。
そんな焦りを笑顔の端々に滲ませる一条へ、雪姫は振り返りもせずに言う。
「冷静でいられれば、ですけどね」
雪姫は眼下の母から目を離さずに続ける。
「なまじ半端に知識があるせいで、
あの鉄板に焼かれたらどうなるかを知っているならば、そこを冷静に考えられていたならば、今取っているのは悪手であると気付けたはずだ。
最善手は、この部屋に入ってからずっと走り続けること。そして、一〇〇度を越えようがとにかく耐えて走り抜けること。少なくとも、それを実行できていれば足裏の火傷だけで済んでいただろう。これを選択できなかった時点で、白野真尋の死は着実に迫っている。
自分の手を汚すのが嫌で、自分が傷つくことを恐れていて、目先のことしか考えられない短絡的なヒト。
白野真尋という人間を知っているからこそ、雪姫はこの仕掛けをクリアできないと確信していた。
「さぁ、お母さま。死に怯え、苦痛に苛まれながら、侮蔑と嘲弄の視線の中で無様に悲鳴を上げて――」
無表情だった雪姫の唇が、綺麗な半月状に笑みを象った。
「わたしを殺そうとした報いを、受けなさい」
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