第8話 発覚

 白野しろの真尋まひろは病院の理事長室で一人、作業に追われていた。

 翌年度の事業計画――経営方針と事業規模に費用策定、業績達成指標K P I目標達成指標K G Iの設定などなど、やることは山ほどある。

 経営者になって四年近くなるが、まだ慣れたとは言い難い。表から裏からあらゆる手を使って、急逝した夫から今の地位を引き継いだが、隙あらばこの座から引きずり降ろそうとする勢力は未だ内外にいる。外科部長一派と内科部長一派への牽制が大きな課題だ。最近は近隣の大学病院にも警戒が必要になっている。対して味方といえば総務部くらいのものだが、頼れる味方かと問われれば、全力で頷くのは難しい。だからこそ自分の手で、各部から提示された事業計画を、整合性を取りつつ、減収減益見込み故の懐事情を加味しながら取り纏めている。ここを怠れば銀行融資だけでなく協力企業との関係にも影響が出る。信用低下に繋がることは僅かでも避けなければならない。

 パワーポイントの資料作りに追われる中、コーヒーを一口含み、顔を上げた。

 壁にかかった時計を見ると、時刻は午後十時を回ったところだった。

 理事会まであと二週間。

 雪姫の始末―――面倒事の一つが片付いたことがせめてもの救いだ。警察の捜査が入った時には焦ったが、実行犯は始末済みで、直接繋がる証拠はないはずだ。世間的にも、真尋は「誘拐された娘を心配する母親」として認識されている。油断はできないが、この点については問題ないだろう。

「帰ろう…」

 真尋はパソコンをシャットダウンし、理事長室を出る。

 エレベーターを待つ間、自分のスマートフォンを取り出す。

 シルバーの端末、その画面には、チャットアプリの通知が届いていた。


『振込確認 またどうぞ』


 一日で履歴が全て削除されるチャットアプリを眺めながら、真尋はエレベーターに乗り込んだ。

 他の通知を見ると、キャリアメールが十件以上届いていたが、いつも通り無視して通知欄をスワイプして消し去る。どうせお得なキャンペーンだとか商品広告だから見る必要はない。

 その中に『決済完了のお知らせ』が入っていたことも、まだ気づいていなかった。




「シロネコ運輸でーす」

 雪姫は待ちに待ったインターホンの鳴動を受け、玄関の扉を開けた。

 緑色の制服を着た若い男性から、大手化粧品メーカーのロゴが入った小さな段ボール箱を受け取る。『白野』と雑なサインをして、嬉々としてリビングへと戻る。

 段ボール箱を開封すると、緩衝材に挟まれている洗顔料と化粧水、クレンジングオイル、乳液にリップクリームと、先日注文したものが違わず入っていた。

 久々に手にしたスキンケア商品の数々に、どこか安心感を覚えた。

 ここに来てから洗顔はぬるま湯を使って妥協していた。ボディソープで代用する気にはなれず、保湿に気を遣わなければならないシーズンなだけに、段ボールの中に収められた複数のチューブやボトルを見ているだけでホッとした。

 雪姫はいつもよりウキウキしながら夜を迎え、風呂上がりのスキンケアに勤しんだ。テンションが上がったせいなのか、男たちへの奉仕も一段と気合が入っていた。


 更に三日後、雪姫はまた通販サイトで買い物をした。

 今度は下着をはじめとした衣類だ。なにせ着の身着のままの状態で山間の家屋に辿り着いた故に、これまでは男たちにコンビニで買ってきてもらったサイズの合わない下着と、やぼったいスウェットと制服の着回しで過ごしていた。自分のサイズに合った下着や肌触りのいいシャツが欲しかった。

 本当はもっと衣類を充実させたかったが、支払いの限度額はそう高くない。

 だから、仕方なくブラジャーとショーツのセット二組と、シャツやブラウス、それに合わせたワンピースなどを選んだ。それに生理用品を合わせると、今月の買い物はこれ以上は厳しいだろう。

 本当はもっと買いたい。

 こんな退屈な生活を続けるには、この居住空間は何もなさすぎる。

 母への報復手段を考えつくことができずにいる今、そのストレスが、やることのない怠惰の日々が、物欲を掻き立てる。

「早く来月にならないかな」

 今は母への報復よりも、次に何を買おうか。そんなことばかりが頭を満たしていた。




 そこから更に二週間が経過したある日の理事長室でのこと。

 真尋は何げなく自分のスマートフォンを見た。

 どうにか事業計画策定を乗り切り、理事会での面倒事も峠は越えたと思えた頃のことだった。

 いつも通り、画面上部には大量の通知が来ていた。それを、これまたいつも通りスワイプで消し去ろうとしたのだが、一番上の通知の文字を見て、その手を止めた。


『決済完了のお知らせ』


 月々の利用料金のことかと思ったが、『決済』という言葉が引っ掛かった。

 通知をタップしてメールアプリを起動する。

 未読数百件のメールの中からタップした『決済完了のお知らせ』メールが開かれる。

 約二万円が、月々の携帯電話料金に合算される形で請求されるようになっていた。

 誰が?

 疑問が浮かぶ。

 自分は買い物の覚えはない。普段の買い物は全て家政婦に任せているので食料品どころか日用品の買い物すら自分では行っていない。ましてや通販など、これまで利用したこともない。

 ウィルスにやられた?

 一瞬そう疑ったが、よく見てみると、請求先は真尋になっていたが、購入者の名前が違っている。

「しろの……、ゆ…、き……?」

 理解が追い付かなかった。

 あの子は死んだはずだ。あり得ない。

 誰かが不正利用をしている?いや、あの忌々しい娘のスマートフォンは真尋の部屋にある。端末からの直接操作は無理なはずだ。ならばやはりウィルス感染による端末の不正利用か?

 そこまで考えて、真尋は自分が現実逃避していることに気づく。

 もっともあり得そうな可能性を、排除してしまっていたことに。

「あの子が、生きている…?」

 いや、確かに実行犯から血に塗れた死に様の写真を見せられたはずだ。

 だが、自分で死体を確認したわけではない。

 それらしい写真を用意して…、それこそあの小娘の色香に惑わされて、雇った男たちが殺さずに見逃して、殺したと虚偽の報告をして報酬だけ貰っていたとしたら?

 証拠隠滅のために、実行犯にはすでに消えてもらっている。金に困った半グレに雪姫を始末させ、闇サイトで雇った人間にその半グレを始末させる。証拠は残っていないはずだ。あれからひと月近くが経過しているが、警察の捜査はまだ真尋に及んでいない。

 だが、もし雪姫自身が生きているとしたら?

 実行犯の二人は、実に頭の悪そうな様相だった。興奮して余計なことを口にしている可能性は十分考えられる。例えば、「母親からの依頼だ」とか。

 ただ聞いただけでは証拠としては弱いだろう。動揺させるためにいい加減なことを言ったと言い張れるかもしれない。音声データが残っていれば証拠になるだろうが、最も使えそうな機器である雪姫のスマートフォンは自宅にある。実行犯である半グレの男たちが持ってきたものだ。解約しようと考えたが、世間的にはまだ雪姫は行方不明のままであり、生存を願っている母親という立場では、解約はおかしな行動になる。電池が切れそうだったので、充電器に挿したままにしてある。そこで、一ヶ月近く充電しっ放しだったことを思い出した。


 まだ日中だったが、真尋は自宅へと急いだ。

 通いの家政婦には、仕事を持ち帰っており個人情報を含んだ業務用の書類が多いことを理由に私室への入室を禁じている。本来は業務情報の持出は禁止なのだが、どこの企業でも多かれ少なかれやっていることだ。おかしなことではない。

 慌てて自室に駆け込んだ。

 デスクの書類をどかすと、白いスマートフォンが充電ケーブルに繋がれたまま、ひと月前と同じ状態で置かれていた。上部のランプは青い点滅を繰り返し、いくつものメッセージやメール着信、アプリ通知があることを主張している。

 画面を操作する。

 しかし、登録パターンの解除がいまくいかない。パスワードも同様だ。これは以前に何パターンも試したのでうまくいくとは思っていない。

 何の気なしに、ダメ元で入力してみる。

「—―え?」

 暗めの画面がさっと明るくなった。

 入力したパスワード—―正確には四ケタ数字のPINコードが認証され、画面ロックが解除された。

 雪姫の誕生日、出生年、自宅電話番号、携帯番号などなど。

 思いつくものはすべて試し、連続ミスによるロックを避けるために遠慮していたが、ロックされたらその時だと思って何となく入れてみた四桁の数字は、『1126』。

 亡き夫の誕生日だった。

「あの子は…!」

 忌々しさが再燃する。

 まだ夫と娘が繋がっている。そんな気がして、真尋は表情を歪めた。

 数百件のキャリアメールを次々に流し見る。先ほど気づいた二万円の決済通知を見つけた。更に遡ると一万円のもの。先月にも二度、キャリア決済が通知されていた。慌てて自分のスマートフォンを取り出し、日付を目印にメールを探すと、確かに決済メールが届いていた。

 自分の間抜け具合に呆れてしまう。こんな大事なものを見過ごしていたなんて。

 再び雪姫のスマートフォンを手に取り、決済の詳細を確認する。

 買い物は、スキンケア用品や衣類――下着だった。

(盛りのついた犬め…!)

 唇を引き結び、奥歯に力がこもる。

 注文したサイトに接続する。IDとパスワードの入力省略設定がされていたため、あっさりログインできた。

 注文の詳細画面に飛び、そこから発送設定を開く。

 発送は明日で、到着は三日後。届け先はここから車で一時間ほどの場所だった。住所を検索してみると、完全に山の中に見えるが、ここに雪姫がいるということか…?

 

 真尋は自分のスマートフォンのチャットアプリを起動した。

 一日で履歴が全て削除されるチャットを介し、長々と文章を打ち込んだ。

 真尋が打ち込むと、一分と経たずに短い文章が返ってきた。

 何往復かのやりとりの末、相手から『契約成立』の文字が返ってきたことで、真尋は手にしたスマートフォンをデスクに置く。

「今度こそ……!」

 眉間に皴を寄せながら、生きているかもしれない娘への呪詛を吐き捨てた。

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