流行最先端女子たちは、ときどき仲間のうちの一人をハブきたくなるらしい。最近は芽衣という子が仲間はずれにされていて、一人になってしまった芽衣は、今までほとんど存在を無視していたはずなのに、急に私と千波に話しかけてくるようになった。私は別に、誰かを嫌ったりするために学校に通っているのではない。だから、私は千波と一緒に食事をするとき、ときどき芽衣も誘うようになった。


「わぁ、美味しそう」

 私の家でテーブルを囲んで待っていた千波と芽衣が、同時に声をあげる。私が運んだ土鍋には、鮭や貝が煮込まれていて、たくさん入れたジャガイモはホクホクになっているはずだ。立ち上る湯気は甘めの味噌の香り。本当に美味しそうだ。

「どうぞ、召し上がれ」

 最近北海道に引っ越した叔母さんが石狩鍋セットを送ってくれたのだ。一人では到底食べきれず、友達を呼んで一緒に食べる。だいたいいつも千波と食べるのだが、最近は芽衣も呼ぶ。叔母さんが三、四人前の鍋セットを送ってくるのは、私が誰かと一緒に食事を楽しんでほしいという願望の現れなのだろうし、それは今でも叔母さんが私を心配している証拠でもある。私は、叔母さんに何か食べ物を送ってもらったときは、食べている写真を撮ってメールで送ることにしている。それは感謝の気持ちと、叔母さんを安心させるための両方の意味を持つ。

「ねえ、沙湖んちって、鍋つかみないの? ミトンっていうの、あれないよね」

 芽衣が言う。私は一瞬表情が硬くなったことを自覚する。それを紛らすようにカセットコンロの火加減を調整する。言われるまでもなく、私の家にはミトン型の鍋つかみはない。あえて持っていない。今も、厚手の布巾で土鍋を持って運んだ。

「最近よくご飯ごちそうになってるから、プレゼントしようか?」

 一瞬目を閉じる。息をはいてから「いいよ、いらない。大丈夫」と答える。雨の音と草の匂いが一瞬で私を覆う。緑色の毛先をいじりながら気持ちを整える。耳鳴りが来ないように、細心の注意を払う。

「けど、ミトンあると便利だよ~」

 芽衣が話す邪気のない声をかき消すように、ざぁーざぁーと耳鳴りが始まりそうになる。私は落ち着くために深呼吸をする。目を閉じて唇を噛む。

「どんな色のミトンが──」

「いらないって!」

 自分でも驚くほど鋭い声が出てしまった。楽しそうに話していた芽衣が怯んだ顔で私を見ている。

「ありがとう。でも、鍋つかみは持たない主義なんだ。布巾で十分」

 冗談めかせて、無理して笑顔にしてみせる。耳鳴りが始まってしまう。噛みしめる奥歯が痛い。

 黙って私たちを見ていた千波が、一人で鍋を食べて突然「うんまぁー!」と大きな声を出した。

「これめっちゃうまいで。はよ熱いうちに食べよ」

 千波がへらへらしながら促し、私の鋭い一言はうやむやになり、私も芽衣もなんとなく鍋をつつく。 

「わ! ほんと、これすっごい美味しい!」

 芽衣が表情を緩めてくれたから良かった。

「よかった、いっぱい食べてね」

  私は耳鳴りを遠ざけ、一生懸命口角をあげる。今日叔母さんに送る写真を撮るときは、表情に気を付けなければいけない。耳鳴りがしているときは、よほど意識しないと笑顔にはなれないのだし、私の微妙な表情の変化を、叔母さんは見抜いてしまえるんだから。

 私は、美味しそうに鍋を食べてくれている友達を眺めて、何もかも全て誰かに打ち明けられたらどんなにか楽だろう、と思うときがある。それは決して、叶わぬ望みなのだけれど。


 就職活動は思っていたよりスムーズに進んだ。服飾関係の会社に絞って、説明会を聞きに行ったり、OB訪問をしたり、面接を受けたり、パンツスーツがまだ涼しい初夏になる頃から積極的に動いた。面接は苦手なタイプだと自分で思っていたけれど、好きなことについて喋るというのは苦痛がなかった。どんな服をどんな風に作りたいか、どんな風にマーケティングしたいか、どんな人に着てほしいか、言いたいことはいくらでもあった。学校のように、熱意を白けた目で見る同級生もいない。就職活動は、私にとって難しいことではなく、むしろ楽しいくらいだった。そして、夏には私は大手服飾会社の下請けデザイン事務所の内定が決まった。

「あなたみたいに、センスもあって熱意もある人、ほかにとられる前に早く決めておきたいわ」

 オリジナルデザインのデッサン画を見せた上で、面接の最後に言われた言葉が忘れられない。こんな私でも、必要としてくれる場所がある。それは信じられないほど、自分の価値観を変える出来事だった。何もできないと思っていた自分。ただ好きだからという理由で勉強させてもらっていたデザイン。進学を勧めてくれた担任の先生。進学させてくれた叔父さんと叔母さん。私は少しだけ、今まで支えてくれた人たちにとって、「支えなければ良かった」と思われずに済むような人間になれるかもしれないと思った。もとい、私がどんな人間になったとしても「支えなければ良かった」なんて思う人たちではないのだけれど。

 北海道の叔父さんと叔母さんに、就職内定の報告をするととても喜んでくれた。

 何か、漠然といろんなことがうまくいくような気がしていた。千波のおかげで学校も楽しめている。授業で自分の技術が認められるのも嬉しい。就職活動でも、私の熱意を買ってくれた人がいた。芽衣と鍋を食べた春以来、耳鳴りもしない。何かが、うまくいくような気がしていた。人生は、おしなべれば平等と言うではないか。私の人生は、ここから、良い方向に向かうのだ。そんな気がしていた。


 夏の終わり頃、芽衣から、合コンに誘われた。

「沙湖、合コンって興味ある?」

「合コン?」

「うん、合コン。ドタキャンされちゃって、人数足りないの」

 芽衣は、明るいピンクに塗った爪をいじりながら言った。ノースリーブの肩がつやつやしていてきれいだ。

「私、行ったことない」

「まじ? じゃ初合コン行こうよ」

「合コンって、どんな感じ? なんか緊張するんだけど」

「そんな堅苦しく考えなくていいんだって。特に今回はピンチヒッターだし、人数合わせの気軽な気持ちで来てよ」

「わかった」

 漠然と何か良い方向に向かっている気がしていた私は、行ってみてもいいような気がした。ドキドキしていた。新しい自分に出会えるかもしれない。もしかしたら、私にも恋ができるのかもしれない。


 合コンを週末に控えた木曜の夜、久しぶりに美湖ちゃんに会った。

 叔父さんと叔母さんが北海道に引っ越したのを機に、私も姉の美湖ちゃんも一人暮らしを始めた。一人暮らしをするとき、叔父さんと叔母さんは私と美湖ちゃんが一緒に暮らしたらいいのではないか、と気にしていたけれど、私たちはお互い一人暮らしを選んだ。おそらく、姉妹で暮らし始めたら、一生離れられない気がしたのだ。それは悪いことではないけれど、良いことでもない気がした。それでも、あまり離れてはいられなかった。美湖ちゃんの職場と私の学校の中間地点くらい。お互いの新居は、歩いて三十分くらいの場所に落ち着いた。


 一人暮らしを始めてから、美湖ちゃんとは月に一回は会うことにしているけれど、最近は私の就職活動があって難しかった。久しぶりに会う美湖ちゃんは、ファミリーレストランの端の席で、約束の時間より五分早くついた私よりも早くから居て、ひっそりと気配を消すように座っていた。周囲にいる人たち誰からも見つけてほしくない、といった不思議な雰囲気で、姉は俯いて文庫本を開いている。黒髪を後ろで一つに結う、化粧っ気のない姉の顔を、少し眺める。灰色のサマーニットに、たぶん下はいつも履いている黒いサブリナパンツだろう。二十四歳。その年齢より年上に見える。落ち着いている、という言い方もできるし、老けている、という言い方もできる。妙にくたびれている、という言い方もできる。フレッシュさがない、ということだ。事実、姉は真面目でおとなしくて静かで、どこかくたびれている。

「美湖ちゃん」

 小さく声をかけると、はっと顔をあげる。自分の存在が外部から見つかってしまった、というような、少し怯えた驚いた顔をするのだ。そして、声の主が私であると知ると、心底安堵したような、柔らかい表情になる。

「さあちゃん、久しぶり」

 美湖ちゃんは文庫本を鞄にしまいながらうっすら微笑む。そしてメニューを私に見せてくれる。自分の頼むものはもう決めてあるのだろう。私はメニューを決め、テーブルの呼び鈴を押す。

「さあちゃん、就職内定、おめでとう」

「ありがとう」

 私にとって姉の言葉は、いつも心にまっすぐ届く。何の憶測も裏も装飾もない、姉の素直な言葉。

「服飾系の会社なんでしょ? 良かったね」

「うん、内定決まるの、結構早いほうだったみたい」

「そう。良かった。さあちゃんなら大丈夫だと思ってたけど、うまくいってほっとしたわ」

 そう言う姉の微笑は儚げで、風が吹いたら壊れてしまいそうだった。いつもそうだ。美湖ちゃんと一緒にいると、私は姉を守らなければならない気持ちになる。それと同時に、どうしようもないほど、切ないような、姉に抱き付いて甘えたいような、子供のような気持ちになるのだ。

「美湖ちゃんは、仕事、どう? 忙しい?」

 姉は心持ち首をかしげ、「うーん、そうでもないかな」と言った。

「忙しいと言えば忙しいけど、窓口の終わる時間は決まってるから、そんなに大変じゃないよ。お金が合わないときは残業になるけど、そんなことほとんどないし」

 私は、姉がまっとうに働いてまっとうな大人として生活しているのを見るたび、心から安心する。姉は、私が大人になりたくないと願っていた子供のときから、すでに大人だったのだ。大人にならざるを得なかった。それは、安らかなことではなかっただろう。私みたいに、未熟な精神で我がまま放題人生に抗うほうが、楽だったのかもしれない。姉は全てを静かに受け入れ、全てを背負った。そして、今なお、静かに大人として暮らしている。ひっそりと、誰にも見つからないよう、騒がず、泣かず、甘えず、自立している。そんな姉を見ると、私も大人として生きて行けばいいんだ、と思わせてもらえる。大丈夫。大丈夫だから一緒に大人になろう。いつか、姉に言われた言葉通り、私は大人になることに抗うことをやめた。大人として生きていくことを受け入れた。それは、姉がいてくれるからできることなのだ。

「さあちゃんは、最近何かいいことあった?」

「うん、なんか、学校も楽しいし、友達もいるし、就職も決まったし、いい感じ」

 そう言ってにっと笑ってみせると、姉は本当に嬉しそうに微笑んだ。店員が注文をとりにくる。

 姉に、合コンに行くことは話さなかった。


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