三章 十年前 沙湖 二十歳

 いつまでもしつこくへばりつくような残暑がようやく過ぎて、窓から入る風が少し涼しく感じる。何かの花の香りが混じっている空気は、湿度も幾分下がってきて、過ごしやすい。

 私は授業のあと、教室に残ってえんぴつ画を描いている。一年生後期のデザインデッサンの課題だ。「今季の冬に着たい服」というテーマの課題で、今私はアウターのデザインを描いている。芯の硬い薄い色のえんぴつが好きだ。滑らかな質感の細目の紙に、硬めのえんぴつで細く描く。紙独特の木の皮みたいな匂いと、えんぴつの芯の削れる感覚、音。その中で自分が思い描いているものを絵にしていくという作業は、時間も食事もトイレすら忘れてしまうような、没入する時間だ。少し個性的なデザインのライダースジャケットにしようと思っている。素材を変えてフードをつけたらかわいいかもしれない。私は描くことに没頭する。

「水島さん、まだデッサンの課題やってるの?」

 突然話しかけられて振り向くと、同じ服飾学科の女の子がいた。

「あ、うん。まだ完成しなくて」

「ふーん。水島さん、真面目だもんねぇ。いつも成績良いんだから、ちょっとくらい手抜いても大丈夫なんじゃない?」

 嫌味ったらしいことしか言わないのなら、話しかけないでくれ。思ったけれど何も言わず、黙ってデッサンを続けた。


 デザイン学校というのは思っていた以上に面倒な場所だった。入学して、数ヶ月もすれば、自ずと気付かされた。世の中の人たちは、どうしてこうも他人と比べたがるのだろう。うんざりする。

 高校三年の進路相談のとき私は、進学するつもりはない、と言った。実子でもなく、姉のように頭が良いわけでも、やりたいことがあるわけでもなかったから、私は高卒で全然構わなかった。姉の美湖ちゃんは簿記会計の資格がとれる専門学校を卒業して、地元の信用金庫で働いている。私は取り立てて長所のない人間だし、やりたいことも別にない。でも、もともと美術だけは成績が良く、デザインや洋服に興味はあった。そんな私に、担任の先生が、デザイン学校を紹介してくれたのだ。叔父さんも叔母さんも、もともと進学させてくれるつもりだったらしく、私がデザイン学校に興味を示したことを喜んでくれた。だから、受験してみた。

 でも、実際に入ってみると、思っていた以上に面倒だった。授業はおもしろい。イラストやアニメの学科もあるが、私は服飾学科を専攻した。一年生のときは、基本的な勉強がメインで、生地について学んだり、デッサン技術、縫製技術を学んだりしている。それ自体は楽しくて、夢中になった。

 でも、高校のときより人間関係が複雑で、それが面倒くさい。実技もあるから、優劣が出る。それが気にくわない女子集団がいて、馬鹿みたいなスクールカーストを作りたがる。正直、鬱陶しくて学校を辞めたいとも思った。私は、デザインも実技もわりと成績が良く、いつも奇抜な服を着て髪を緑色に染めているから、悪目立ちしたのかもしれない。お洒落アパレル店のマネキンが着ていそうな服装の、流行最先端のモテ系女子たちから少し引かれていた。別にデザインと服飾の勉強ができれば友達なんかいらない。学校を辞めないなら孤立は覚悟だな。もともと友達とわいわいするのが好きなタイプではないし、それで全然構わない。そう思っていた。

 そんな私に普通に話しかけてきたのが、千波だった。猛暑の最中、エアコンの効いた学食で、一人で昼食を食べていたときだった。

「その服、かわいいね。どこの?」

 千波は長い髪にチリチリのパーマをかけて、ゆるめのアフロヘアのような髪型だった。色白の頬にそばかすが目立つ、にも関わらず、すっぴんだった。私はその日、派手な幾何学模様のカラフルなTシャツを着ていた。

「この服? 古着屋で買ったの」

 私は授業料を出してもらえているだけでありがたいから、服などはなるべく安くすませるため、古着屋をよく利用していた。ビンテージものなどは高額だが、掘り出し物で個性的なかわいい服が安く買えることも多い。

「どこの古着屋? 安いん? 今度連れてってや」

 どこの訛りなのかよくわからないイントネーションで千波は言い、にへっと笑った。裏表のなさそうなその笑顔を見て、もしかしたら孤立というほどの状況には至らないかもしれないな、となぜか予感した。そして、服を褒めてもらったのに、ありがとうと言い忘れた、と気付いた。遅れて感謝を述べられるほど、私は器用じゃなかった。


 少なくとも孤立せずに済んだ夏が過ぎ、秋が近付いてきた今、私は後期の課題をやっている。細目の紙に硬いえんぴつで線を引く。夢中になれることが見つかるのは良いことだ。「ネガティブの対義語はポジティブじゃなくて夢中だ」と言ったのは誰だったか。本当にその通りで、没頭できることがあるだけ、私はネガティブな感情から離れていられる。そのこと以外考えなくていい、という時間は本当に大切で、おもしろい小説を読んでいる時間に似ているかもしれない。あっという間に全く知らない世界に連れて行ってくれて、何もかも、どうでもよくなる。それを「現実逃避だ」などというような論破野郎とは気が合わない。現実逃避の何が悪いんだ。過酷な現実に真っ向勝負するような生き方してきたんだ。たまには逃げ道を作ったって、いいじゃないか。

 ふーっと一つため息をつく。フード付きライダースジャケットのデッサンは、いい感じに仕上がった。既に外は暗い。秋の日は釣瓶落とし。ことわざを考えた人は比喩の天才だな、と思う。

 

 二年生になると、実技の授業が増えるとともに、就職活動が始まった。今日は、就職活動の説明会に特別ゲストとして、学校出身者でデザイナーとして名前が知れているカズマという人が講師として教壇に立った。カズマはシックなデザインで手頃な値段のブランドを立ち上げ、中高年のお洒落な女性たちから指示が高い。本人も、自身のブランドのメンズの黒いジャケット姿で、着こなしはさすがというところ。春にしては色が重いんじゃない? と思ったが、素材が軽めで、そりゃ素人の私なんかがいちゃもんつけるような存在じゃないか、と思ったりした。教壇に立つカズマは、少し緊張した顔をしていたが、それより母校で講演できることを喜んでいるように見えた。最初こそ声が上ずっていたが、元来お喋りなのか、どんどん饒舌になった。

「チャンスの神様は前髪しかなくて、後頭部はツルツルの禿げ頭」という、今更何の新鮮さもない話を熱弁していた。

「みなさんがぼーっとしていて、あれ? 今のはチャンスだったのかな? と振り向いても、チャンスの神様の後姿しか見えません。でね、チャンスの神様はツルツル禿げですからね、あれ? と手を伸ばしても、後ろからじゃ掴めない。ツル! ツル! ってね」

 カズマは何度も宙を掴むようなジェスチャーを繰り返している。前列にいる女子学生の何人かがクスクス笑っているのが嬉しいのだろうか。

「だからね、みなさん、チャンスが来たら、どーんと正面から構えて、ガシーっと前髪を掴んでやらなきゃいけないんです。いつチャンスが来てもしっかり前髪を掴めるように、日々コツコツと努力して、備えておかなければならない」

 熱弁しているが、聞き古した、誰にでも言えるような薄っぺらい話だ。就職に有利な資格や通っておくと良い習い事なども説明しているが、そんなことちょっと調べれば誰でもわかる。

「いいですか? 人生のチャンスを逃してはいけません。しっかり準備して、目をカーっと見開いて、構えておくのです」

 目を見開いて、のところでカズマは実際に目をかっと大きくして、前列の女子たちがまたクスクス笑っている。

 目を見開くも何も、人生など目隠しをされたまま地雷原に投げ出されるようなものじゃないか。目隠しの下でどんなに目を見開いても、見えるのは闇だけだ。恐る恐る手探りで一歩ずつ進んでも、一瞬で爆発して、体ごと吹っ飛ばされることばかりだ。万が一、地雷を踏まずに進めたとしても、油断した瞬間に足を踏み外して、到底自力では這い上がれない深さの穴に落下するのだ。登ろうとしても暗く湿った土は脆く崩れて、土を掻いた爪が汚れるだけで全く登ることはできず、はるか遠く頭上に見える空を仰ぐだけだ。

 カズマの話はつまらなくて退屈だな、と思いながら、講義室の窓から見える蒼天を眺め、ただ時間が過ぎるのを待った。


 講師のカズマとの親睦会と称して行われた飲み会の席で、千波に地雷原の話をすると「沙湖は怖いこと考えるね」と言って、ビールを飲んだ。千波はアルコールが強い。

「沙湖が穴に落ちたら、私が上から頑丈なぶっといロープ垂らしたるわ。力づくで引っ張り上げてあげるから、ちゃんと掴んどき」

 千波はチリチリのパーマをふわふわ揺らしながら笑った。私はそのロープがカンダタの頭上に降りてきた蜘蛛の糸に思えた。私は他人を蹴り落とさずにいられるだろうか。アルコールを飲まない私は、いい加減ウーロン茶でお腹いっぱいになり、仕方なくストローでグラスの氷をぐるぐる回す。そんな私を見て千波が「なんか悩んどんの?」というから、「別に」と言い、「でも、ありがと」と、千波のグラスにビールを注いでやった。照れ隠しに、緑に染めた髪をいじる。

「何がありがとなん?」

 ビールを飲みながら千波が言う。

「私が奈落の底に落ちたら、ロープ垂らしてくれるんでしょ?」

「あぁ、そのことね。うん、まかしとき。意外と力あるで」

 にへっと笑って言う千波はどこまで本心なのかわからないけれど、少なくとも、奈落の底に落ちた私に手を差し伸べると言ってくれる他人は、千波だけだろう。素直に感謝しないといけないな、と思いながら、私は煙草を咥えた。


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