十 煙寺晩鐘
元治元年 大晦日
師走になると商人も島原もてんやわんやと慌ただしくなる。大晦日は年を跨ぐ頃になりようやく一息ついたような、そんな一日だった。
陽も落ちた冷たい空気の中、貂は屋敷の屋根でその時を待っていた。辺りからは夜になっても人の気配がなくなることはない。いつもの大晦日。それは徐々に取り戻されていた平穏であり、聞いていても心地いい雑音だった。人々の音に耳を傾けていると、時を告げる音が鳴り渡った。喧噪も包み込むような大きく重々しく厳粛な音が響く。それは空気を伝い京の町を走って行く。音の振動は家から家へ、大きな道から狭い道へ、戸を震わせ家々に入り込み、部屋の中にいる人々にまで触れ渡る。すべての人の体内に入り込む。
祈祷のこもった除夜の鐘が京の町に鳴り響いた。
貂がその響きに狐火の祈りを感じ取る。数日間祈祷のためにひたすら祈り続けた狐火の息の緒を感じた。深呼吸をしながら鐘の音を肺いっぱいに吸い込む。まるで力を分けてもらったかのように、体の中から浄化され力が湧くようだった。ゆっくりと息を吐き切ると澄んだ夜空を眺める。そして寝静まることのない町を見渡した。
「平助はどうしてるだろう」
こんなにも長い間会わないでいることは初めてだった。しかし貂は藤堂が江戸に留まっている事にほっとしていた。今の新選組からは少し耳障りな音がする。そんな噪音を藤堂には聞かせたくなかった。元気であればそれでいい。平和で明るい藤堂の顔を思い浮かべ、再び鐘の音に耳を傾けた。
年も明け数日経つと、明らかに町の雰囲気が変わっていった。それを直に感じていたのが新選組だった。
「なあサノ、つまらんほどに浪士たちがいなくなった」
袖手した永倉は襟巻で顔を口元まですっぽりと隠す。その横で白い息を吐きながら原田が歩いていた。新年を迎えた町は一層賑やかさを増し人々は活気づく。去年の事はなかったかのように和気藹藹とした笑顔が溢れている。
「魂喰さんたちの作戦? 成功したのかな。長州は大阪からも撤退したそうだよ」
体温が高いのか、原田は永倉と反対にほくほくとした顔で寒い空気の中を歩く。
「いよいよ俺ら新選組も幅を利かせだすのかねえ」
「今日も伊東さんを引き入れて近藤さんと山南さんたちが話し合ってるみたい」
何かが解せない様子の永倉が顔をしかめる。
「近藤さんと土方さんはこれより先何をなしたいと考えているのか。どこへ向かおうとしているのか」
「俺には新ちゃんが向かう場所がいつも正解だけどね」
原田の言葉に呆れた顔をみせる。しかし原田がそう思ってくれていることが永倉の支えでもあった。だからあえて今日は言い返すことなく放っておいた。
「どうして山南さんは平助を江戸に置いて来たんだろな」
ぽつりと零した永倉の問いに首を傾げる原田。
「まるで遠ざけたいみたいだね」
原田を見る永倉の瞳が見開かれる。
「お前ってほんとに――」
するどいところに気が付くと、言いかけたところで止めた。代わりにため息を付いた永倉の様子に再び原田が首を傾げた。
狐火の作戦が功を奏したのか、松平の容体もみるみる回復していた。この機を逃さんとするのは会津藩だけではなかった。新選組もいよいよと勢力を拡大せんとはかっていた。
「もうこの機会しかねえ。会津公が戻られた今、反幕派を一気に抑え込む。その為に屯所を移すのは今しかねえって言ってんだよ」
なんで分からないのかと土方が苛つく。
「私もトシの意見に賛成だ。国の為には反幕派の駆逐、そして広い屯所が必要と考える。それを叶えられるのが西本願寺ではないかな」
山南にとって訴えが通らない事への覚悟は出来ていた。しかしどうしても自分で見定めておかなければいけない事があった。もう反論はしない、そう諭すような穏やかで、しかし芯の通った面持ちで口を開いた。
「やり方が間違ってはいませんか?」
土方も近藤も静かに、弛むことなく、硬い表情をぴくりとも動かすことはなかった。
「私ももう少し考える余地はあるかと思いますよ」
「この話ばかりは伊東さんが何と言おうと変えるつもりはねえ。あんたが来る前から決めていた事だ」
伊東の助太刀もあっけなくへし折られる。突き放すように話すと土方が腰を上げる。開けた襖を強く閉めるとそのまま部屋を出て行ってしまった。これ以上は何を言っても無駄。仕方がないと伊東も二人に頭を下げると部屋を出ていった。
部屋に残された二人が気まずさを感じる事はない。それほどに長い付き合いであったし、お互いに腹をくくっていた。ただ、相手が心の底で何を考えているのか、それだけがその時は察することが出来なかった。
「もう以前の新選組ではないのですね」
皮肉じみた言葉に近藤が反応する。近藤が今まで見せなかった感情の起伏を初めて見せた。
「山南さん、貴方はどれだけ近くで見てきましたか? 己を貫き通し、散っていった志を。その心を全て背負おうっていうんです。汚れ役を果たしているトシを、誰が責められますか」
山南が目を伏せる。言い返す気も咎める気持ちもない。ただ、その言葉が聞きたかった。
元治二年 二月二十一日
角屋には山南の姿があった。伊東が新選組に参入し、隊の編成が変わると慌ただしい日々が続いていた。明里に会うのは年の暮れ以来だった。
「まあ、山南はんったらお久しゅうやわ」
相変わらずどれだけ世が荒れようと、そこには温雅な花が咲く。
「すみません。最近忙しくて」
「その言い訳、聞き飽きました」
ぷいっと顔を背けると山南が困った表情をする。それを明里が楽しんでいた。食事を摂り酒をかわし、周りではどんちゃん騒ぎも聞こえだしてきた頃。山南がどこか遠くを、果てない空を見つめるようにして言葉を零した。そこには天井しかないのにと、明里が不思議そうにその言葉を聞く。
「明里。明里は私が士道に背くように思えるかい?」
「思いまへん」
あまりにも分かり切った質問に拍子抜けした声が漏れる。
「私が金策をすると思うかい?」
「思いまへん」
「仲間内で争いごとをするとは?」
「思いまへん」
明里の声が次第に確信を得たものへと変わっていく。真剣な顔になる明里とは反対に穏やかな顔を崩さぬまま山南がふふっと笑った。
「じゃあ、道は一つですね」
「そんなことせんでも、同志なら口で言わはったらええのに」
怒りのこもった声に山南が困ったように眉をひそめる。
「どうして出来ないのでしょうね。それが出来ないのですよ。私たちは」
「分かりまへん!」
明里が山南の袖を掴み、腕に顔をうずめる。「すまない」と何度も謝りながらその日はずっと明里の背中をさすっていた。
元治二年 二月二十二日 山南敬助 新選組を脱走。
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