八 河津桜
藤堂が行く目の前には懐かしい光景が広がる。町人の街であったその辺りは商屋や宿屋が並ぶ。ところどころに武家屋敷が建ち、町は昼間から賑わう。一歩一歩と目的の場所に近づくたびに胸が高鳴った。
「おおーい」
遠くから手を振る人物とその声があまりにも懐かしく感情がじわっと溢れた。大きな隅田川に架かる永代橋。橋の向こう側にその人を肉眼ではっきりと確認できた瞬間、藤堂の目が爛と光った。
「伊東先生!」
駆け出す藤堂を伊東が目を細め嬉しそうに迎える。伊東の前まで走っていくと背筋を伸ばし折り目正しくお辞儀をした。
「お久しぶりです。伊東先生」
藤堂が顔をあげるとにこにことほほ笑んだままの伊東と目が合う。
「こんなところまで来ていただかなくても私から参りましたのに」
二人が肩を並べて歩き出す。
「いやね、平助が来ると聞いたらじっとしていられなくってね。散歩がてら迎えにきたのですよ」
「そうでしたか」
嬉しそうな藤堂の背中がうずうずとする。
「伊東道場も久しいです。私が試衛館に入った頃以来でしょうか」
「ああ、あの時は寂しかったなあ」
伊東がぽろりと零すと、「その節はすみません」と藤堂が謝る。冗談ですよと伊東が笑い返した。
隅田川よりも小ぶりな大島川。その傍らに伊東の道場が建っていた。道場の表をくぐると改めて伊東と藤堂がひざを突き合わせ座る。藤堂が道場を出てからずいぶんと大きくなったと伊東は感じた。それは身体の事ではなく、経験が藤堂に与えた人格。
「いろいろ大変なこともあったでしょう」
伊東が口を開く。ひとつ息を吸い、思いを馳せながら吐いた藤堂が「はい」とゆっくり返事をした。
「手紙にも書きましたが、近藤局長は伊東先生を新選組に引き入れたいとお考えです」
さっそく切り出した本題にふんわりとしていた空気が少し引き締まった。
「伊東先生は、どのようにお考えですか?」
固く腕を組み凛と背筋を伸ばした伊東。厳しい顔でも優しさを崩さなかった。
「私は
藤堂が言葉の一つ一つを真剣に聞いている。
「まずは近藤局長と話をしてからということになりますが、私が新選組に入る事になれば平助にも手伝ってほしいのです」
「私は、何を手伝えばいいのでしょう」
厳しい顔が緩み、にっこりと藤堂に笑いかける。
「近藤局長は私の刀や碩学を買ってくれているのでしょうが、私は人に刀を向けるのではなく、言葉を伝えることで思想を貫き通したいのです」
「言葉を伝える……」
「そのためには影響力のある新選組に属するのは有効だと考えました」
藤堂が難しそうな顔をしていると、その顔を見た伊東がおかしそうに笑う。
「平助の剣術は立派です。だからこそその刀は思いを守るために生かしてほしいのです。攻撃するためではなく」
「守るため」
藤堂が自身の刀にそっと触れる。
「伊東先生、私は守るために刀を抜いてきたと思っていました。しかしそれで正しかったのか、最近になって迷う事があります」
「経験をするだけ迷うこともあるでしょう。それでいいのです。迷った結果に答えがあるのですから」
固く組んでいた腕をほどく。
「私だっていまだにいろいろ悩みますよ」
「先生が!?」
「おや、私をなんだと思っているのですか」
拗ねたように口を尖らせる伊東に藤堂が吹きだす。ひとしきり二人で笑うと伊東が息を整えた。
「平助、私に力を貸してください」
「はい。私に出来る事なら」
再び穏やかな空気が道場内を満たし始めていた。
藤堂と伊東が試衛館へ向かうと、すでに到着していた近藤たちと合流する。京では土方が副長代理を任されていた代わりに山南が近藤に付いて来ていた。
近藤との話し合いは滞りなく終わったようで、伊東も晴れやかな顔で道場がら出て来た。そこへ声をかけたのが山南だった。
「伊東さん」
声を掛けられた方を向くと山南が丁寧に頭を下げる。伊東もならってお辞儀をした。
「貴方は副長の」
「山南敬助です。はじめましてですね」
どことなく空気感が似ていると、お互いがそう思った。挨拶だけで自然と打ち解け合うのを感じる。
「お二人は似ていますね」
二人の間に割って入るように藤堂がひょこっと顔を出した。キョトンとした山南と伊東を目の前に藤堂が二人の顔を順に見遣る。
「それがなぜだか嬉しいです」
藤堂がへらっと笑うと、山南が緊張の糸をほどいたようだった。
「平助、伊東さんと話がしたくてね」
空気を読んだ藤堂がふてくされた顔をしてみせる。しかし「分かりました」と機嫌よくその場を去っていった。
改めて山南が伊東を誘う。近藤たちが外出した隙に試衛館の庭に面した縁側に腰を下ろした。
「伊東さんは尊王攘夷の志が強いと伺いました」
山南が切り出した話題に、伊東がなるほどと趣旨を汲み取る。
「外国がこの国に流れ込んで来ている今、みなの向いている方向は同じでなければいけません。その為には帝を中心に動くのが最善だと、そう考えています」
その言葉に山南がたいへんに納得したという風に頷く。
「京に赴き、国のために勤める。こんな機会はないと、高ぶっております。これも平助のお陰です」
「その平助について、すこしばかり」
言葉尻を濁した山南に伊東が首を傾げる。
「平助の手紙にはよく山南さん、貴方の名前が出て来ました。とても慕っている、よき師がいるのだと少しばかり妬きもしましたが」
眉を寄せて目じりを垂らす。山南が聞いていた剣豪伊東甲子太郎とはだいぶと印象が違っていた。しかしその人柄に安心したのは山南だった。
「貴方のような人で良かった。私は平助の師ではなく、ただ傍にいてやっただけ。これからは伊東さんに頼みたいのです。平助の事を」
またしても「分からない」とばかりに伊東が首をひねる。
「どういうことで?」
「私にはやらなければいけない事がありまして」
「忙しくなるのですか?」
伊東の言葉に困ったように息をつく。
「そういったところです」
肩を落としたような山南の横で、伊東が初めてみる多摩の空を静かにじっと噛みしめていた。
近藤が徳川家茂へのお伺いから戻ると、伊東を連れ江戸を出立した。しかし山南は藤堂に江戸に留まるようにと説いていた。
「嫌ですよ、私一人だけ江戸に残るなんて」
開口一番不満が出ることくらい山南の想定内だった。
「怪我のこともあります。このところ戦い続きで平助の体はボロボロです」
どこかの誰かと同じようなことを言うものだと藤堂の顔が仏頂面になる。
「怪我はとっくに治りました。ここ数日は稽古もほどほどにして体も休めました。これ以上の休息は体に毒です」
出立の準備を整えた伊東が山南に助太刀する。
「私は上洛に伴って道場をしめました。妻にも面倒をかける。しばらく様子をみてやってくれませんか?」
仕事を与えれば少しは納得するのではないかという魂胆だった。二人に説き伏せられては藤堂も従うしかないと観念する。
「分かりました。いつまで江戸にいればよいのですか?」
「迎えにきますよ」
山南の代わりに伊東が答える。
「せっかく山南さん、伊東先生のお二人と新選組での仕事が出来ると思ったのに」
未だ得心できていないと愚痴をこぼす。そんな藤堂の頭をまるで子供を相手するように山南が撫でた。
「平助、元気で」
「元気ですよ、今だって」
憎まれ口を叩く藤堂を山南が微笑んで見つめていた。
藤堂を残し近藤たちが江戸を発つ。
「よかったのですか?」
伊東が山南に問えば、「よかったのです」とまるで自分を納得させるような言葉が多摩の空へと消えた。
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