七 物換星移

 長州藩が御所に向け大砲を放ったことは重大かつ深刻、そして決定的な一打となった。長州藩が正式に朝敵とみなされ、もはやこれ以上朝廷には手出しも出来なければ対話も遮断された。

 そのことはいち早く魂喰の耳にも届いていた。

「ついに呪詛使も後ろ盾をなくしたか」

 猫尾が珍しく機嫌よく狐火に話しかける。

「まあ当分は派手な動きは出来んやろね。今動けば決定的に朝廷に嫌われる」

「せやけど呪詛使が残していった呪いが未だ京の町にこびりついておるからなあ。会津公の容体もよくならん」

 松平の事をどこまで心配しているかは分からないが、猫尾にとって呪いが支配している状態は自尊心が汚されたままも同然だった。

「なあ猫尾。呪詛使が手出しできひん今、呪いを一掃しようと思うんやけど」

 ちらりと猫尾が横目で狐火を見遣る。狐火が誰かに何かを願おうなどと天と地がひっくりかえってもなかったこと。珍しいその状況は猫尾にとっても気分が悪いものではなかった。

「面白そうなことなら乗るのも悪くない」

 猫尾が楽しそうにふふふと笑った。



 朝早、藤堂が新選組屯所を出る日は晴れやかだった。しかし山南の心は少しばかり曇っていた。明るく清々しく送り出してやるつもりが、どうも心がつっかえる。それが寂しさという感情だと山南が気付いている様子はない。

 そろそろ準備も整っただろうと藤堂が待つ部屋へ向かう。いつもの穏やかな笑顔を作るとガラっと襖を開けた。しかしそこで山南は予想外の光景を目にする。部屋の真ん中に姿勢よく坐しているのは新選組を出る準備などせず、いつも通りの恰好、いつも通りのいで立ちの藤堂。傍らには藤堂の刀が置かれていた。襖が開いたのに気づくと藤堂がこちらに顔を向けた。

「平助……何をしているのです。準備をしないと」

 山南が状況を飲み込めずに突っ立っていると、藤堂が立ち上がり駆け寄って来る。そのまま体当たりをする勢いで山南に抱きつきしがみついた。

「行きません。私の父が誰であろうと、心の父は山南さん一人です」

 山南の服を掴む手にぎゅっと力が入る。

「何を言っているのです。これは遊びではないのですよ! 平助の将来が――」

「考えました、一日。山南さんの気持ちも、貂の気持ちも、新選組を離れるということも」

 藤堂が額をぐっと山南に押し付ける。

「私の決意だったのです。平間さんを斬った事。それは新選組であるための」

 山南の胸に埋められた頭をそっと撫でる。

「――この、バカ者」

 決して本気ではないその叱咤に藤堂の顔がほころぶ。

「はい、私はバカ者です。慕う人が引いてくれた道さえ一人では歩けないバカ者です」

 先ほどまで山南の心を曇らせていたものが晴れていく。それなのに山南の笑顔は悲しそうだった。その顔を藤堂は見ることはない。まだ慕う人の傍にいれると、それだけが藤堂の心を満たしていた。



 藤堂が津藩行きを取りやめると、沖田や永倉たちも残念がるふりをして嬉しそうに藤堂を囲む。激しい戦火の後、以前の光景にもどった屯所は賑やかさを取り戻す。これからまたいつもの日常に戻っていく。そんな久しぶりの平穏を期待するように和む者たちの裏では、またしても不穏が渦巻き始めていた。

 藤堂たちとは離れた部屋に会していたのは近藤、土方、そして山南だった。山南は最近では新選組の動向に口を出すこともなくなってきていた。しかしこればかりは賛成できなかった。

「西本願寺に屯所を移転するなど、私は反対です」

 山南のひたむきな発言も今の近藤や土方には通じなかった。

「山南さん、あそこは先の長州侵略の際も逃げた長州藩士をかくまった。あまつさえ西本願寺の侍臣は長州と手を組もうとしていると噂に聞く。禍根は潰して当然だろう」

 土方が煙管の灰を灰落としへ捨てる。

「しかし西本願寺はそれを良しとしているのですか」

「西本願寺の意向は関係ない。俺らは幕府が動きやすいように働くだけ」

「いつから新選組は幕府の小間使いになったのです」

 無意識に口調が強くなる。今まで黙っていた近藤が口を開いた。

「山南さんはまっこと尊王攘夷の志をお持ちなのですな」

 その言い様に愕然とした。まるで山南だけが異なる意思を持っているかのよう。突き放し、隔てた口ぶりに感じた。

「今まで私たちはその志を持ちここまで来たのでは――」

「山南さん」

 土方の声が山南の叫びを遮る。

「報国の意思はなんも変わっちゃいねえよ。しかし何を選び、何を守るか。それによって今後の新選組の進退が決まってくる」

「あくまでも近藤さんは会津と共に歩んで行くと」

 近藤のまっすぐな目は変わらない。昔から変わらないと言えばそうであるが、その向いている方向は山南の知るものとは違っていた。

「昔から変わっちゃいないよ、近藤さんは」

 土方にとって近藤はもはや「かっちゃん」ではない。局長近藤勇なのだ。それは山南も望んでいたはずなのに、ほんの小さな齟齬を感じた。その齟齬に気付けば瞬く間に大きく膨れ上がる。その異物感を山南も感じていた。だからこそそれが少しでも自分の中で膨らむ事を抑えるため、今は口を噤むしかなかった。

 部屋を後にする土方を追いかける。どうしても土方に確認しておきたいことがあった。

「平助を津藩に行かせるよう許可したのは、平助を守るためだと考えたからではないのですか?」

 歩みを止めたのはその問いが心に刺さったから、そう山南は思った。

「なあ、山南さん。人の心は一所にはとどまらねえ。兇魂だってそうだろ。空を彷徨い、世を彷徨い、次は誰につこうか、それとも時を待つか。しぶとく此岸に居座り続ける。あれは人間の心そのものだ」

 それだけ言うと再び歩き出す。山南の思い違いだったのか。土方の背中は前よりずいぶん遠く、手が届かず計り知れない存在になってしまったようだった。



 そんな折、朝敵となった長州を征伐する旨を将軍徳川家茂に伝える為、松平から近藤に江戸への派遣が命じられた。この機にさらに新選組拡大を狙った土方が江戸にて隊士を募集する案を打ち立てる。そこで目を付けたのが江戸で剣の名手と名高かった伊東甲子太郎の誘引だった。武家出身で江戸でも数多の門人を抱える伊東の入隊は新選組の格を上げると踏んでのことだった。

「山南さん、行ってまいります」

 藤堂が明るく挨拶をする。伊東と同じ玄武館で剣術を学び、伊東道場にも出入りしていた藤堂が説得の役として先に出立することとなった。

「平助、頼みますよ」

 「はい」と快活に返事をする藤堂を前に、山南の心の中には渦巻くものがあった。近藤や土方のそれとは違う、伊東誘引の思惑が心中にあった。それを今は藤堂にも見せず、いつもの朗らかな笑顔で見送った。

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