六 空
「さて、京の大火のおかげでこの屋敷もとんだとばっちりを受けたわけやけど」
狐火の機嫌がすこぶる悪い。
「三日間もの間延焼しましたからね。まずはこの屋敷周辺が無事だっただけでも奇跡です。本当によかった」
貂がほっとしたように話しても「何もようない」と狐火はむすっとした態度を崩さない。その様子に猫尾もあきれ果てる。
「狐火がおった御所は
「そっちは他の魂喰の援護もあったやろ。御所ちゃんの身に何かあってみ。考えただけでも心労甚だしかったわ」
「京の魂喰を御所周辺に集めておきながら、よう言うわ」
まるで愚痴を言い合うかのような狐火と猫尾の珍しい姿。貂が落ち着きなく二人の顔を行ったり来たりと見遣っている。
「あの、呪詛使はあれ以降なにも?」
貂が口を挟むと狐火と猫尾が勢いよく貂へと振り向く。その圧に貂の体がぴくりと跳ねた。
「会津公は? 体はどうや」
狐火が猫尾に問う。猫尾は長州の御所襲撃以降、会津藩邸周辺を巡邏していた。
「其時は瘴気に当てられながらも鎧をまとい本陣邸に座っておったわ。指揮など取れる余裕などないのに。しかし上の者、指揮官、
「あの……」
貂が言いにくそうに口をはさむと、猫尾が「なんじゃ」と促した。
「天王山で真木和泉が言っておりました。呪詛使の狙いは帝を味方につける事ではなく、魂喰自体なのではないかと。魂喰を目の敵にしているが故に動いているのではないかと」
扇をパチンと閉じた狐火は平然としていた。
「魂喰にとって帝の存在は絶対。帝なくして魂喰は生きて行けん。そういうことか」
「しかし長州を失くせば呪詛使も後ろ盾をなくす。今後朝廷がどうでるかやなあ」
貂が心配そうに狐火を見つめる。狐火は相変わらず事もない涼しい顔で前を向く。
「御所ちゃんと話そうか。それと、今回京にはびこった呪いも一掃せんとな」
「一掃?」
妙に楽しそうな狐火に貂が首を傾げた。
長州の襲撃から一ヵ月ほど経つと、京の街並みも徐々に活気を取り戻してきた。町中が大火にのまれ、長州は自ら長州藩邸にまで火をつけた。おかげでここ最近は浪士たちの目立った動きもなく、束の間穏やかな時が流れていた。そんな中、藤堂と山南が顔を見せたのが角屋だった。
「また二人の顔が見れて嬉しいわ」
本当にうれしそうに明里が笑う。島原の被害も甚だしかったが、苦労は見せずただただ二人の無事を喜んでいた。
「私は前線に出ていませんでしたから。平助が無事で本当によかった」
今目の前に座る藤堂にほっと息をつく。しかし藤堂の心中は安堵した気持ちだけではなかった。
「大変でした、いろいろと。成せなかったこともありました。悔やまれることもありました。それでもこうやってまた明里さんに会えて、今は心がほっとしています」
明里の瞳にはあたたかい色が宿り、その視線が藤堂を包み込む。静穏な時間が流れる。辛く胸を締め付け重くしていた鎖も今はほどけて軽くなるような、そんな時間だった。
「そうだ、今日は平助の祝いの席でもあるんですよ」
山南が思い出したように声を張り上げる。いつも物静かな山南の大きな声に藤堂と明里もつい驚く。
「平助はん、なんかおめでたいことがあったん?」
「新選組での噂は江戸にまで広がりましてね。平助が持っている刀の話が江戸の津藩邸に届いたのですよ」
そう言われても明里には何のことやらわからなかった。首を傾げていると、興奮した山南を抑えるように藤堂が補足する。
「私の持つ刀は
「まあ」と明里も目を丸める。
「真実かは定かでないにしろ、刀のこと、平助の産まれの地、生まれた時期、条件はそろっている。江戸の津藩邸が平助を迎え入れたいと言ってきたのだよ」
「まあまあ」とさらに明里が驚く。
「それじゃあ、ほんまにお武家さんになるんやね」
自分の事のように喜ぶ明里に藤堂も照れたように頭を搔く。
「せやけど、新選組って抜けたらあかへんのやろ? 大丈夫なん?」
「近藤さんや土方さんにも話した。津藩からの願い出だ。断るわけにもいかないでしょう。お二人とも快く承諾してくれたよ」
「沖田さんや永倉さんは、少し寂しそうでしたけど」
藤堂が目を伏せると山南が肩を強くたたいた。
「行きなさい、平助。平助は藩士として生きるのです、これからの人生」
山南の意想外な真剣な目に藤堂が息を呑む。まさかそれほどまでに山南が同じているとは思ってもみなかった。藤堂を突き刺すまっすぐな目に、一体なぜとは聞けなかった。
「ほんで、出立はいつで?」
「あ、明後日です」
「まあ」
今日だけで何度聞いたかと思う明里の驚嘆が漏れる。そうかと思えばふふっと楽しそうに笑いだした。
「せやから、名残惜しんで来はったんやね」
明里の言葉に藤堂と山南が首を傾げる。
「ちゃんと三人分、お代はもらいますから」
満足げな明里にますます傾げた首が傾く。
「気付いてへんの?」と明里が窓の外、屋根の上を指さした。すると気まずそうな顔が窓からひょっこりと覗いた。
「貂! どうして」
藤堂が声を上げると明里がどうぞと貂を部屋の中へと促した。貂が居心地悪そうにしながらもするりと部屋の中に飛び込む。明里が配膳係に目配せすると膳が貂の前に置かれた。
「すみません」と貂が頭を下げると明里が笑顔で首を振る。
「俺も山南さんに賛成だ。平助は江戸へ行くのがいい」
藤堂を思っての言葉だと分かっていても、寂しい気持ちが襲ってくる。そして山南に答えを求めるように問いた。
「山南さんは、もう前線には出られないのですか? 刀はもう、振るわないのですか?」
困ったような切ないような、垂れた目じりからそんな感情が伝わってきた。
「力でねじ伏せるような刀は、これからは抜かない方がいい。平助が津藩に入れば今のような殺生にまみれた生活からは逸脱できる。私はそれを望みます」
「平助は刀で国を変えたいと言った。でも無駄には斬らないとも言った。今、新選組で平助の本当にやりたい事は出来ているのか? 見えている世界は、あれからずっと明るいのか?」
二人があまりにも藤堂の心を見透かすものだから、藤堂自身が言葉に詰まる。いかに自分の事を心配してくれているかを噛みしめ、本当の気持ちをゆっくりと吐き出した。
「山南さんの言う通りです。私は少し疑問を抱いていました。本当に国を変えるために刀が必要なのかと」
貂の真剣なまなざしが藤堂に刺さる。
「でも、寂しいです。山南さんと離れることも、貂と会えなくなることも」
山南の横では明里も悲しい目で三人を見守っていた。
「離れることは悲しい事ではありません」
山南が目を細め微笑む。
「たまに京に来ればいい。俺も江戸になら会いに行ける」
まるで手向けのような言葉に藤堂が複雑そうな顔で笑い返した。
出立前日。藤堂が八木邸の部屋に寝そべる。障子を全開にした部屋からは縁側を隔てて庭が見える。畳の匂いを感じながら中庭を眺めていた。そしてごろんと仰向けになり天井を見上げると、そこには染みついた血痕が黒く色を変え広がっていた。
「思い出すなあ、もう遠い昔みたい」
親しくなる前の貂、心を通じ合わせた頃の貂。その姿を順番に思い出す。
「貂には話せなかったなあ。本当の事」
芹沢一派粛清の時、心配そうな貂の顔に思わずついてしまった唯一の嘘。
『私は斬ってないよ。沖田さんが丁度ばっさりいったところで血しぶきをあびちゃった』
芹沢襲撃の時に飛び散った血痕が今も天井に残る。
「……最後に
吐いた嘘を、信じて疑わない貂のを顔を、それらを遮るようにそっと瞳を閉じた。
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