三 琴瑟

 貂が御所の門の近くまで来ると狸吉たぬきと合流する。

「見てみろ、貂。町には呪詛使が放った化け物が溢れてきている」

 あちらこちらに火が上がり、化け物と魂喰の戦火が交わる。いつも平和で賑やかな京の町が混沌に包まれる。こんな地獄絵図を誰も想像はできなかった。

「化け物など魂喰にかかれば高が知れているものを。どうして呪詛使はそこまでして……」

「目的は世の混乱。それに便乗して出来る限りの手を尽くすつもりだろう。なんとしても帝の側につかなければ、長州は終わる。そればかりは呪詛使と利害一致したようだな」

「長州は会津から、呪詛使は魂喰から帝を奪いたいと」

「まさに勝てば官軍負ければ賊軍。それ、ついに来よったわ」

 狸吉が見つめる先に長州兵が陣を張り出していた。貂が息を呑み身構えた時だった。轟音が轟いたかと思うと、御所門の前に布陣していた会津兵目掛けて大砲が撃ち放たれた。それが御所の塀を打ち砕く。砲声が開戦の合図となった。

「さて、こちらも内裏に入ってこんとせん化け物を祓おうか」

 狸吉が手印を組み、祝詞を唱えるとそこここの化け物が痺れたように固まる。貂が短剣を手に飛び上がると化け物に飛び移る。芯を衝くと身を翻し次の化け物に乗り移る。宙を返るように真っ二つに斬り裂き降下すると、地に伏せていた化け物に短剣を突き刺す。翻る反動で胴を斬り裂いた。それはまるで蝶が舞う舞踊のようで、藤堂が惚れ込んだそれのままだった。狸吉も思わずじっと貂の舞を見つめる。塀にしゃがみこんでいた狸吉の横に貂が舞い戻る。

「狸吉さん、聞きたいことがあります」

「なんだ、こんな状況でも余裕だな」

「はい、平助と約束した手前、手こずることは出来ませんから」

 大きくなった貂に感心しながら狸吉が「何が聞きたい」と促した。

「狐火様と帝の事です。あの二人の絆はどこから」

 「なるほど」と狸吉が唸った。

「貂、手は緩めるなよ」

 帰穢きえが使える魂喰がいない今、化け物が黒い煙となり空に立ち上っていく。それはまた兇魂となり人に憑くのか世を彷徨うのか。しかし今ばかりはそれも気にしてはいられなかった。次々と湧いて出てくる化け物を斬り裂き、その一方で御所の門では長州と会津の合戦が繰り広げられていた。

「儂や狐火がまだ子供だった時」

 血みどろの惨状となっている渦中には似合わない、狸吉が懐かしむような声で語り始めた。


 ▼▼▼


 さかのぼること二十年前。清涼殿の御簾の前に突き出されたのは幼い狐火だった。

 当時の魂喰は化け物を狩る道具。化け物の忌み子として生まれた者はその運命から逃れる事はできなかった。道具として朝廷を守る。命を落とせば替えるだけの使い捨ての道具。魂喰はただそれだけの存在としてあった。

「みこの宮様、この者が化け物の警護を怠りましたことにより、この度は瘴気にあてられ病に……」

 御簾の奥ではすっと浄い空気を纏った煕宮ひろのみや(後の孝明天皇)が坐していた。先日まで瘴気に当てられ寝込んでいたが、祈祷により無事に回復したところだった。化け物が御所に入り込んでの事であったが、もちろんその責は幼い狐火にあるはずもなく濡れ衣であった。魂喰に預けられた頃より強い力を持っていた狐火は処して当然という空気が魂喰内でも流れていた。ただの妬み。しかし煕宮が倒れたことは狐火を疎ましく思う者からすれば好機だった。狐火も幼いながらに自らの立ち位置を理解してか逆らうことはしない。運命を受け入れる準備は出来ていた。

 狐火の頭をつかんだ魂喰の男がそのまま畳に打ち付け押し付ける。抵抗することもなくされるがままに畳に打ち伏せた。その様子を狸吉が離れた背後からただただ見つめていた。

「最後に一言謝辞の言葉も申さぬか!」

 あまりに冷静に状況を受け入れる狐火に男が苛立つ。

「このわっぱはすぐに処分させます故」

 頭を掴み上げても、面の奥の表情は無と静に覆われていた。狐火の態度にいよいよ激昂した男が狐火を蹴り上げる。蹴られた衝撃で狐火がころころと二回転床を転がるとその場にうずくまった。蹴られた腹を抱え悶える。

「この駒が! 調子に乗りやがって」

 皇子の御前ということも忘れ汚言を吐き捨てる。これには狸吉も腰を浮かせ身を乗り出そうとした。しかし暗鬱と淀んだ空気を凛と清らかに張った声が引き裂いた。


「駒ではない。狐火である」

 その声にその場の皆が驚き、まるで神に叱られたかのような気高い戦慄が背に走った。声の主は煕宮だった。一同が手をつき頭を下げる。狐火もすぐさま煕宮に向き直り頭を下げた。そして一番驚いていたのは狐火自身でもあった。

 皇族が名前を呼ぶ。それはその一人を個ととらえ、唯一無二の存在へと据える行為。その存在に許しなく手を掛けるなど出来はしない。煕宮の一声が狐火を助け、男が悔しさと憎さで唇を噛んだ。

 それ以来どうしてか煕宮は狐火を呼ぶとたわいもない話の話し相手をさせた。魂喰の手柄の事、御所の外の事、狐火の事、煕宮の事。狐火より少しだけ年上だった煕宮だが、懐いていたのは煕宮のようだった。

 そんなある日、いつものように二人がお喋りに花を咲かせていると、部屋の端に控える年老いた廷臣が居眠りを始めた。若い二人の話はどうも退屈だったようで声を掛けても目を覚まさない。すると煕宮がふふっといたずらに笑った。

「狐火よ」

 御簾の隙間から手をだすとちょいちょいと狐火を呼びよせる。キョロキョロと周りを警戒しながら狐火が御簾へと近づいた。すると煕宮がおもむろに御簾を持ち上げようとする。

「御所ちゃん、それはあかん」

 狐火がそれを制止しようとしたが遅かった。御簾から顔をのぞかせた煕宮がにこにこと楽しそうに笑っている。皇子の顔を見るなど、殿上人と同等の扱いを受ける魂喰であれど許されてはいない。しかし煕宮の顔を見た狐火はそれから目を離す事が出来なかった。

 春に茂る和草にこぐさのように温かく優しい表情、五十鈴川のごとく澄んだ瞳に撫子が咲いたような頬。それはまさしく人非ざるもの。神だった。

 煕宮が狐火の面に手をかける。

「御所ちゃん、うちは……」

「うん、知っておるよ」

 魂喰に預けられて以来他人に初めて素顔をさらした。こんな目は誰が見ても恐れ忌み嫌う。煕宮にだけは嫌われたくはなかった。


「なんと荒ぶった猛々しい瞳」

 煕宮が目を細め、狐火の瞳を覗き込む。

「怖ないん?」

「まるで人非ざるもの」

 狐火が目を丸くする。煕宮もまた自分のことを同じように思っていた。狐火が煕宮を思うと同じように。二人はお互い立場は違えども、お互いが人非ざるもの。

 煕宮の言葉はどうしてか人の心臓を突き刺す。攻撃するのではない。自分自身が目を逸らそうとしていたものを捕えすべて受け止める。これまで感じたことのない器の大きさを憶えずにはいられない。狐火の目からつうっと一筋水粒みつぼが伝った。頬に流れた涙の跡を煕宮が優しく指で拭う。

「もし御所ちゃんを傷つけるものがいるなら、うちが許さん」

 突然殺気立った狐火の顔に驚いたが、すぐに穏やかに目を細める。

「頼もしいこと」

 傷つけるもの、それは化け物のみならず人の邪心や企み。この世に渦巻く穢れすべて。それを狐火は背に負うと決めた。


 ▼▼▼


 貂が最後の一体を斬り裂いた。

「魂喰は後の世に血を繋ぐことは考えていない。狐火様が守りたいのは帝だけ。それなのに呪詛使は……」

狐火あれにとって帝はただの友よ。だからお前に藤堂平助という友が出来たことが嬉しいのだろう。表には出さんがな」

 藤堂の名前を聞いた貂がその顔を思い出す。今まさにどこかで戦っている友が無事でさえいてくれることを祈った。



 長州が放った大砲の音を聞きつけ、ついに動き出した新選組。藤堂と永倉たちが九条河原から北へ上がり、御所の堺町御門へと駆け付けていた。そこで鉢合わせたのが真木和泉、久坂玄瑞ら率いる長州兵だった。

 両者が一斉に刀を抜いた。

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