二 狼煙

 手に持った手紙を鼻にあてがう。狐火こっこがくんくんとにおいを嗅いだ。

「やっぱりにおうわな」

 手紙を開くとそこには京を追い出されて尚、帝のために働きたいと切に願う文字が書きしたためられていた。哀願書に目を通した狐火がそれをそっと閉じる。しばらくの間屋敷の部屋から庭を眺めた。庭園に架かる透廊が静かに高雅にその景色を魅せる。

 長州は大義を掲げて来た。それをこちらも大儀で返す。それは大きな戦火を巻き起こす。それでも狐火には必ず守らなければならないものがあった。

 すくっと立ち上がると部屋を出る。部屋の外に控えていた従者に声を掛けた。

猫尾びょうびに伝えてくれるか。各地の魂喰を呼び戻す」

 その言葉に従者が目を剥き驚いた。恐る恐る狐火へ問う声が少し震えた。

「一体なにが……」

「だんないだんない。用心や用心」

 従者の不安を拭うようにいつもの軽い調子で言い残すとそのまま屋敷を出た。向かった先は禁裏守衛総督、一橋慶喜ひとつばしよしのぶの元だった。


「狐火はどう考える」

 一橋が手紙に視線を落としたまま問う。狐火がぼうっと宙を仰ぐ。真剣に考えているのかいないのか、いつもの掴みどころがない様子で返事をした。

「長州はんの大義名分は分からんでもないよ。でもあっちは呪詛使と手を組んどる。会津候にも呪いかけとる。そんな奴らを許すのはどやろなあ?」

 「たしかに」と一橋が手紙を畳み手前に置いた。

「私も貴殿と同じく御所を守る身。帝に危険が及ぶ事態は避けて当然」

「それにな、御所ちゃんもやっぱり長州には入ってきてほしくないんよ。物騒やろ、あの人ら」

 狐火の物言ものいいがおかしいのか一橋が咳払いをし気持ちを整えると改めて背筋を伸ばした。

「この哀願書は長州へ突き返す。狐火も良いな?」

 何が良いかと言えばこの後の長州が起こすであろう暴動への覚悟であった。

「うん、魂喰はそれで準備をすすめようと思うてます」

 固く頷いた一橋が手前に置いた手紙に再び視線を落とす。はあっと息を吐き切るようにため息をついた。



 元治元年 七月十八日


 会津藩本陣金戒光明寺ではすぐにでも出陣せんと藩士たちが武具を着込み待機する。そこへ一人の藩士が矢のように駆けてくると一目散に松平のいる部屋へと向かった。未だ寝込み起き上がる事もままならない松平が藩士を迎え入れる。その傍には獅狼しろが松平の容体を固唾をのんで見守っていた。

「殿! 四条河原に新選組誹謗の高札を立てた者が。長州に違いないと」

 汗を垂らし振り乱した藩士が松平に伝える。

「昨日一橋候が長州からの哀願書を突き返されました。それを受けて長州が動き出したものかと」

 青白く顔色が悪いままの松平が上半身を起こそうと動く。一人では起き上がれないその体を周りの従者が駆け寄り支えた。

「長州は来る……狙いは御所。……出陣せよ」

「は!」

 力なく命を下す松平の言葉に藩士が駆け出す。松平は傍で見守っている獅狼の方を向いた。

「お主も行け」

「しかし私は……」

「呪詛使も長州と共に攻めてくるのだろう? 魂喰にはお主の力が必要だ。私は大丈夫。行ってくれ」

 獅狼が一度深く頭を下げると部屋を駆け出し屋根や木々を伝い瞬時に消え去る。その姿を見送った松平が力を振り絞り従者に命じた。

「余も準備をする」

 「いけません」と周りが焦り出し、立ち上がろうとする松平を制止する。しかし力強くその手を振り払った。

「今会津が一丸となり長州を討つ時! 藩主である余が床に伏せているなどあるまじきさま!」

 その力のこもった目に、凛とした背に、我が藩主を見た藩士たちが滾らずにいられるはずはない。

「殿の、殿の甲冑を用意しろ!」

 勝ち鬨を上げた会津藩士たちがいよいよ長州に迎え撃つべく動き出した。



 元治元年 七月十九日


 九条河原に陣を張る新選組の元に島田が駆け付ける。

「近藤さん! ついに長州が動き出した。八方に布陣を敷いていた長州兵が御所に向けて出陣している」

 島田の報告にも近藤はどっしりと構えた態度を崩さない。

「先生、俺らの出陣はまだなのかよ! 前線ではもう戦いが始まってるかもしれないんだぜ!?」

 沖田がもう待てないと近藤に呼びかける。

「会津からのお達しを待つのだ。今はまだ動く時ではない」

 胸を張った近藤は少し前よりも大きく見えた。それは以前よりも増した威厳と貫禄。自分自身をも内側から律する心胆を隊士たちも感じていた。以前ならそれでも楯突いていた沖田も大人しく身を引く。次は近藤の言葉を待つ。そんな空気が九条河原の陣には流れ出していた。



 新選組が九条河原で静観して待つ間、御所へと集結していたのが魂喰だった。各地から呼び戻されていた魂喰たちが京の町に控え潜む。獅狼や術を使える魂喰が御所を囲み結界を張っていた。御所内の地に張られた結界のお陰で、地から這い出る手の影が静まる。狐火たちが禁裏へと降り立つと清涼殿へと駆け出す。外ではすでに長州がすぐそこまで攻め込んできており、会津と衝突寸前となっていた。

「お前たち、まずは帝の安全を確保や」

 狐火が告げたのはその後ろに付き走る貂といたちだった。

「猫尾様は会津藩邸周辺を守られているので?」

 貂の問いに狐火が頷く。御所の外は空も町も黒く染まり、兇魂が溢れ出てきていた。

「呪詛使めが。兇魂を世に放ったか。その上この戦禍。討ち死にした者からも兇魂が抜け出す。溢れてくる兇魂やばけもんが集まってくるのは時間の問題。碁盤の目の中心やからなあ。獅狼らが結界張っとるとはいえ、御所ちゃんの安全が確認でき次第お前たちも御所の塀を守れ」

「門を破ってくるのは化け物だけとは限りませんよ」

 鼬が零した言葉に狐火もため息をつく。

「ほんまに、厄介なことしてくれるな」

 狐火たちが清涼殿へと飛び込む。そこで見た光景に狐火が目を剥いた。帝が廷臣に連れられ建物の奥へと誘われている。

「貂、廷臣あれには呪詛使の呪いが入っとる」

 狐火の言葉に戸惑い動きを止めてしまったのは貂だった。呪いは斬るしか祓えない。緊張が走り、嫌な汗が吹き出る。

「そこまでして御所ちゃんを我が物にしたいか!」

 毛を逆立てる狐火に帝が気付く。振り返ったところで廷臣たちが強引に帝を引きずり去る。

「貂!」

 上がる息を抑え、短剣に手をかけようとしたところで突き飛ばされた衝撃でよろける。

「どけ、無能」

 貂の傍らを鼬が駆けていく。まるで獣のような体捌きで廷臣たちに近づくと、次々とためらうことなく喉元を搔き切っていく。いつもは安穏しか存在しない清涼殿に血汐が舞う。目の前の惨劇に帝が「ひぃ」と声を上げた。

 その帝の背後、狐火がすとんと降り立つと後ろから手を回し袖で帝の瞳を覆った。


「目え汚してしもたね」

 耳元で聞こえた心友の声に帝のこわばった顔が少しほどけた。

「狐火か」

 安心しきったその声を聞くと狐火の肩の力も抜ける。駆け付けて来た他の廷臣に狐火が言い放つ。

「ええか、御所の周りは魂喰が結界を張っとる。ばけもんは入れさせへん。不逞な輩もな。御所ちゃんを安全な場所へお連れしい」

 廷臣たちが帝に伴い連れようとすると心配そうな顔で狐火を見つめた。

「だんないだんない。御所ちゃんは早よ安全なとこへ行き」

 そこへ表から大きな声が聞こえた。

「一橋候が、一橋慶喜候が参られた!」

 それを聞いた狐火が帝の背中をそっと押す。

「一橋はんか、ほならもう大丈夫やね」

「狐火よ、感謝する」

 帝は未だ心配気な顔を狐火に向けている。

「ええんよ」

 そう答えると狐火たちが振り返ることなく清涼殿を抜け出る。そのまま御所の門へと向かって姿を消した。

「兄者、申し訳ござ……」

ね、無能が」

 鼬が貂とは別の方向へと走り去る。貂が顔を俯けた。

「貂、狸吉と合流せえ。塀の外は百鬼夜行よ。各地の魂喰も総出で応戦する」

 「はい」と力なげに返事をする貂をちらりと見遣る。

「お前は約束したんちゃうんか、若虎と。共に京を守ると。恥じた姿をさらすか?」

 狐火の言葉に貂がはっとする。

「いえ、平助に恥じた姿は見せません」

 力強く一歩を踏み出すと貂が飛び出す。勇ましさが増した背中を狐火が見届けた。

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