十四 暮雲春樹

 文久三年 十二月二十六日。


 野口が処される前日、藤堂が前川邸を訪れる。ゆっくりと中庭を見渡せる廊下を歩く。何かを考えているような、何も考えていないような、ぼうっとした頭で歩いていると野口がその時を待つ部屋の近くへと行きついた。見張りを任されていた永倉が藤堂に気付く。

「入るなら早く入れ。土方さんに見つかっちまう」

 藤堂と野口の仲の良さは誰もが知っていた。永倉が背にしている障子を少しだけ開ける。知らないふり、それが永倉が二人に出来る唯一の事だった。藤堂は少し戸惑ったが、滑り込むように部屋へ入った。

 浅葱色の袴を纏った野口が背筋を伸ばし坐していた。その目の前に藤堂が座る。野口同様、ぴんと胸を張り、友を見つめた。

「怒られちゃうよ?」

 言葉とは裏腹に野口のほほに少しうれしさが滲み出た。その声を聞いてぎゅっと下唇を噛む。何かを伝えに来たわけでも話しに来たわけでもない。気が付けばここに来ていた。静かな時間が流れる。この時間が出来るだけ続けばいいと、それだけを考えていた。


「平助あのね」

 静寂の中優しく柔らかく聞こえて来たのは野口の声だった。名前を呼ばれると腹から喉から感情がこみ上げる。

「僕は近藤さんに付いていく気なんてなかったんだよ。僕は芹沢先生が好きだった。人を馬鹿にするときも、問屋に押し入るときも、一点の曇りないまなこで笑うあの人が好きだった。少し乱暴だけど、新選組ここの中で一番信念を持ち、まっすぐな人だった。僕はその思いを伝える事が出来た。だから、僕の役目はここで終わり。ただそれだけ。だから平助は誰も恨んじゃいけないよ」

 その人を思い出す目に追慕の色が宿る。

「土方さんは時間もくれた。こんなにりっぱな装束も用意してくれて――」

 気が付けば野口の肩口に顔をうずめる藤堂がいた。野口の肩がじわじわと濡れていく。



「平助、泣いてくれて、ありがとう――」



 流れていく雲を眺めながら二人の会話を聞く影が屋根の上にあった。藤堂の見ている世界が明るければいいと、そう願いながら目を閉じた。


 ▼▼▼


 文久三年 十二月二十七日。


 斎藤から介錯をすすめられたが断った。最後まで野口の顔を見届けたかった。それは立派に、彼の務めを果たした最期だった。

 事が終わり一度部屋に戻った土方が再び外に出ると、そこには床に手をつき頭を下げる藤堂の姿があった。その姿に土方が表情を曇らせる。

「何の真似だ」

 声を掛けられても藤堂は頭を上げなかった。

「お前に恨まれても感謝されることなんざねえよ」

 それでも尚藤堂は頭を下げ続けた。

「分かりますから。土方さんの立場も、野口の心も。分かりますから」

 顔を伏せたまま藤堂が話すと、「そうか」と短く言い放ち土方が去っていった。しばらくそのまま動けずにいたが、他の隊士たちの声が聞こえてくると藤堂もゆっくりその場を離れた。


 野口の葬儀が終わると、少しずつ野口の死を受け入れられた。それでも虚しさはまだ晴れなかった。

 八木邸の土間に腰掛け、どこでもない一点を見つめているとよく聞いた声が藤堂を呼んだ。

「こんなところにいた。どこにもいないから探した」

 声の方に振り向くと、貂が扉から逆さまに顔をのぞかせていた。しかしいつもなら笑顔で呼び返してくれるその声はない。

「屋根に来るか? 今日も気持ちいい」

「寒いからいかない」

 ぶっきらぼうに返された言葉にため息を付くと、ひょいっと器用に土間へと降り立った。

 藤堂の傍まで近づくとぐいっと拳を付きだした。

「ほら」

 突き出された拳に何かを握っているようで、それを受けるように両手をかざす。貂が拳をゆるめると、藤堂が手で作った器にガラス玉がぽろっと落ちた。透明で綺麗に透き通った小さなガラス玉。これは何かと藤堂が貂を見上げる。

「野口さんの」

「狐火さんが玉にしたの?」

「いや、魂喰が喰えるのは怨の宿った魂だけ。そうでない魂を喰う事は触祟といって魂喰は死に至る。通常魂は身体を抜け出すと世をさまよいそのまま玉になって地に潜む。いずれ消えるものだけど、昨日追いかけて見つけた」

「勝手に持ってきていいの? 野口がそこに留まりたいと思ったんじゃないの?」

 つい責めるように放ってしまった言葉に貂がたじろぐ。

「ま、まずかったなら戻してくる」

 玉を取り上げようとした貂の手を「いい」と振り払った。手のひらに転がった綺麗な玉をじっと見つめる。

「ねえ貂、こんなに透き通っているってことは、野口に怨はなかったんだよね」

 貂が藤堂の隣に腰掛ける。

「もし恨みや怨を持って死ねば必ず黒く濁る」

「そっか」

 「よかった」と藤堂が玉をぎゅっと握ると胸に当て、上半身を折ってうずくまった。

「おい、平助? もしかして腹でも痛いのか!?」

 狼狽える貂にずずっと鼻をすする音が聞こえた。こういう時どうしていいのか分からない、何て声をかければいいのか分からない。貂には経験のない事だった。

「……武士ってのは、辛いんだな」

 ただ傍にいるだけ、見守るだけしかできなかった。

「それでもね、私は新選組と共に在りたいと、近藤先生についていきたいと、そう思ってしまうんだ」

 どうして自分だけと責める気持ちが溢れる。

「当たり前だろ!」

 いきなりの大きな声に藤堂が驚き顔をあげた。

「平助は言っていただろ。近藤さんは光だって。他のみんなは家族だって。俺にはよく分からないけど、それならそう思う事は当たり前だろ」

 ずっとモヤモヤとした気持ちがくすぶっていた。自分の中で消化しなければいけないと思っていた事を、初めて真正面から肯定された。

 いつも澄まして冷静な貂が感情的になっている状況にじわじわと可笑しさがこみ上げて来た。思わずふふっと笑いが漏れる。

「なんだよ、変なこと言ったか?」

 藤堂がふるふると横に首を振る。

「野口にちゃんと報告できるように、私は私の思う道を生きなくちゃ」

 「ね」と向けられたその顔はいつものように無邪気に笑っていた。ようやくいつもの藤堂が戻ってきたことに貂も安心する。お互い何も語らず、しかしどうしてか心が落ち着いていく。そんな時間を二人で過ごした。


 年を跨ぐことを許されず、芹沢の思いは散った。これからやってくるのは嵐か晴天か。今は誰もが疑わず自分の道を進んでいく。誰かの思いを背負い、または忘れ――。

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