エピローグ アイデンティティ

 桜木姫 三十歳 今日は、芸術家


 自宅の棚には、数十冊の一日一善ノート。



       ♥



 回廊のような個展だった。

 細長く閉鎖的で、真っ白な一本道。飾り気なく殺風景な内装と淡いライトの趣は、地下通路を思わせる。


 展示される作品については様々な予想がされていた。

 扱える分野の幅やサイズが作家の中でもとりわけ広く、新しい技術、新しい個性の探求に余念がない桜木姫の作る空間は、毎度独特で、違う驚きと面白さがあると評判だった。

 藝大時代の作風から、本人が展示されることも考えられる。


 それは、絵画のみのギャラリーだった。

 通路の右側に、キャンバスが間隔をあけてずらりと並んでいる。

 最も一般的で、芸術に触れていない人間が第一に想像するであろう美術館。


 奇抜さが際立つ彼女の印象からして、オーソドックスなあり方はむしろ珍しい。

 一枚一枚の大きさが異なったり、縦、横、斜めなど展示の仕方に多少の差はあるが、特筆するほどの違いはない。

 数ある武器の中から、彼女は最も得意な分野を真っ直ぐにぶつけることにしたのだ。



 個展は、三十枚の絵画からなる。

 一つ一つが独立した作品であり、三十枚で一つの作品だ。


 最初の一枚は、黒を基調としたカラフルな悪魔の絵から始まる。

 洗練された技術や計算がありながら、形や色使いは枠に捕らわれず自由で奔放。小さな子どもが描いたような絵だった。


 客はその禍々しさに惹きつけられる。

 暗く毒々しい迫力は視神経を通して脳を侵食し、認識と想像を作り替えた。

 ふと絵画から視線を戻すと、地下通路のようだった回廊が洞窟のように見える。

 姫の世界観に触れて、景色が別物になる。


 その瞬間から彼ら彼女らは、桜木姫のファンから芸術鑑賞者の一人へと意識が塗り替わり、本来の自分たちとは関わりのなかった、芸術の世界を幻視する。


 今だけ、私の『眼』を貸してあげる。


 そう微笑まれた気がした。

 フラフラと誘われるように、次の一枚へ。


 順路に沿って歩く観客たちは、たくさんの出会いをしたことだろう。

 具体的なモデルがなく、強い色だけをぶちまけたとにかくインパクトの強い一枚。

 正統派の風景画で、ノスタルジーが刺激される情緒的な一枚。

 姫らしい奇抜なアイデアが凝縮されたユニークな一枚。

「変なの」と思わずクスリと笑ってしまうような一枚。

 圧巻の上手さにうなる自画像の一枚。


 ただの一枚絵で、同じ作家が筆を取って、ここまで違うものが、色んなものが描けるのかと、見た者はキャンバスと絵の具の可能性を再認識し、発見し、感慨を抱く。

 中には、胸打たれた者もいたかもしれない。

 絵はこんなにも自由で、面白い、と。


 桜木姫の本職は芸術家であるが、タレントとしての知名度の方が圧倒的に大きい。ゆえに、個展に足を運ぶ客の約半数は作品でなく作者のファンなのだ。


 だからこそ絵画。

 あえて奇をてらわなかった。

 素人の感動を呼ぶのに、これほどわかりやすいものはない。


 私の作品を通じて、少しでも多くの人に芸術を好きになってほしい。

 なんて殊勝な考えは毛頭ない。

 私の好きなものを、私のファンも好きだったら最高でしょ?

 彼女の中にあるのはそれだけで、どこまでも利己的である。


 ただ、その利己心を押し通すための手段を他者に合わせられるようになったことは、進歩として著しい。

 以前までの姫であれば己の実力を絶対的なものとし、力づくで振り向かせるという乱暴なやり方をしていたことだろう。振り向かない人間のことをまったく理解できないばかりか、センスがないと一蹴する姿がありありと思い浮かぶ。


 実際、今でも彼女は、自身の作品に関心を寄せない人種をあまり理解できていない。

 それでもほんの少し、欠片くらいなら、気持ちを汲んでやろうという心がけを、彼女は覚えた。


 些細な変化の積み重ねが結晶となって、この個展はできている。

 少しずつ。少しずつ。


 観客のおおよそ半数が気づいた。

 一枚一枚、重ねるごとに、絵に含まれる『白』の割合が多くなっていることに。



 回廊の先には、広い部屋があった。

 狭苦しい空間から抜け出した者たちは、解放感にあてられて大きく呼吸する。

 そして、その中心に見た。


 最後の一枚。

 縦に約二メートル、横に約三メートル。

 壁を埋め尽くす、圧巻のF300号。


 まさしく、純白と呼ぶのがふさわしい、真っ白な絵だった。


 ホワイトドレスを可憐にまとい、幻想的な美貌を振り撒く、お姫様の絵。

 絵とは、どこまで突き詰めても絵の具の塊である。

 色はただの色であって、光源はない。

 なのに、どうして。


 光が見える。


 光に支配される。

 その先に、真の『白』を理解する。


 強すぎる光だ。

 直接見ると、目が焼かれる。

 無防備に触れると、皮膚がやられる。


 だから一枚目で、『眼』を貸した。

 残りの二十八枚で、芸術という広大な海を注ぎ、浸し、慣らし、疑似的な『肌』を与えた。

 開かれた視覚と触覚に、全身に、眩い光を。


 太陽を見よ。


 過ぎた高潔から逃げるな。純真から目を背けるな。

 この一枚に込めた言語をそのまますべて。

 真っ直ぐに、伝われ。


 どうすれば『白』になれるのか。

 どうすれば『姫』になれるのか。

 ずっとずっと悩み続けてきた、人生の命題。

 けれどその答えは、すでに姫の中にあった。最初から、姫の中に眠っていた。



 ヨーグルト。

 一日一善。

 自分を愛すること。


 母は言った。

『少しずつ成長しなさい』


 母は、姫に変わってほしかったのだと思う。

 そのままの姫でいるといずれ孤立してしまうことを最初から知っていたのだ。

 母はいつも姫の心配をしていた。

 だから、変わるための方法を教えてくれた。


 まず、体が健康であること。

 甘い物や揚げ物ばかり食べる姫の食生活を正そうと、あれこれ工夫してくれた。

 次に、心が豊かであること。

 友達の作り方だったり、危ないこと以外の楽しいことを見つけようとしてくれたり、礼儀を教えてくれたり、色々だ。


 その多くはうまくいかなかった。

 野菜はいつまでたっても嫌いで、お菓子の誘惑には抗えないで、友達は傷つけてしまうし、堅苦しい作法も守れなかった。


 結局残ったのは、ヨーグルトと一日一善。

 体調は、毎日整っているような気がした。

 悪い心も、少しずつ薄まっているような気がした。

 気がした、の連続。けれど、それこそが大切だった。


 たくさんの栄養を摂った。

 たくさんの善を積んだ。

 何年もかけて、たくさん優しくなった。

 少しずつ。少しずつ。

 変わりたいって思えたなら、変われるって知った。


 父は言った。

『どんな姫でもいいんだよ』


 父は、姫にそのままを愛してほしかったのだと思う。

 違うものになろうとすることは辛いことだと最初から知っていたのだ。


 父はいつも姫を褒めてくれた。

 できる姫もできない姫も、たくさん褒めてくれた。

 だから姫は真似をして、自分のことをたくさん褒めてみることにした。たくさん愛してみた。


 その癖は、人格の根幹に強く根づいた。

 嫌な思いをした時、寂しかった時、うまくいかない時、どんなに自分のことを嫌いになっても、ふと鏡を見た瞬間に姫はまた姫のことを好きになれた。

 何度でも。何度でも。

 変わらなくても、変われなくても、素晴らしいと知った。



 もう遠くになってしまった思い出が、そっと教えてくれる。

 変わろうと、そのままでいようと、二人にとって姫はずっと『姫』なのだ。


 たとえこの世にいなくても、二人の想いは姫を導く。

 姫の一番深いところに道標としてずっとあって、彼女を支え、見守ってくれている。


 この『白い絵』は、まだまだ理想とはほど遠い。

 けれど、それでいいのだ。

 白くないのなら、何度でもその上から白を重ねていけばいい。

 どうしても白くなれなかったら、その部分も愛せばいい。

 理想を目指して、色んな色と出会って、感化されて、自分を染めてみては届いたり、届かなかったりする。

 届いたら最高だし、届かなくても素敵だ。

 そこからまた理想を思い出すのか、少し立ち止まってみるのか、自由自在。

 何だってできるし、何にだってなれる。


 人の生き様って、アートだね。


 簡素で清潔な、白のワンピース。

 白く染めた髪、白を際立たせた肌、薄桃の右目と水色の左目を、宝石のようにきらめかせて現れる。


 神秘。

 時間を忘れて立ち尽くす観客の前に、姫は降り立った。


「皆様、本日はご来場いただき、誠にありがとうございます」


 精霊のように幽美に舞い、いつもとは違う丁寧な口調と所作で一礼する。

 サプライズの登場に場は色めき立ち、彼女はいたずらっぽく、今日も笑う。


「個展『I be』、何周でもお楽しみください」



 ああ、これが私。

 私が大好きな、私。


 弾ける笑顔は、純粋な色をしていた。

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現代アート「私」 雪村 緑 @greenest1

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