間話 Message---
時は、揺蕩うように流れゆく。
青かった大学ノートの表紙は、だんだんと日に焼けて、くたびれて、茶色く褪せる。
人も、町の景色もまた、それぞれの色を重ねていた。
桜木姫 二十九歳
♥
スマホの全国普及率が九割を超え、SNS全盛の時代。
とあるインスタグラムのアカウントがあった。
Be_AlbuM21
白背景に女性の顔写真のアイコン。
アルビノ特有の白い肌、白みがかった茶髪。右に薄桃、左に水色のオッドアイ。過度なメイクや加工はせず、元ある個性的な素材の強みを活かしている。
投稿 1103
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桜木姫 芸術家 タレント
ブレイク中の芸能人のアカウントでありながら、その内容は趣味に振り切れていた。
投稿されているのは、すべて桜木姫が作った作品の写真。
絵画、彫刻などの一般的な芸術から、一から作った雑貨やぬいぐるみ、卓越した技術で装飾された爪、髪、化粧、大きなものでは部屋の内装、料理までもを創作物の一種と考え、高頻度でアップしている。
王道で華やかなモノもあれば、前衛的で攻めたモノまで、特色は様々あった。
有名な投稿は、『傷口の作品』と『家の作品』の二つ。
前者は文字通り、切り傷をデコレーションした作品。
料理中に切ってしまった人差し指を、流れる血液の赤まで利用して丹念にカラーリングし、きらびやかに飾りつけたものだ。
発想が斬新であることや、ケガを積極的に活用する前向きさがウケた。
後者も名前の通りで、二階建ての平屋を用いた作品だ。
壁紙の色から家具の配置、そもそもの間取りから全体のフォルムに至るまで、プロの手を借りながらありとあらゆる魔改造を施し、桜木姫は何でもない一軒家を、奇々怪々ながら不可思議な迷宮へと変貌させたのである。
家屋も土地もそのためだけに買い、専用の業者もそのためだけに雇って、かかった費用は億を超えている。また、SNSにアップしただけなので広告費等もつかず、有料の展示物として売り出すようなこともしていない。
絵に描いたような金持ちの道楽はいっそ清々しく、作品自体が傑作なことも相まって一時期のメディアを賑わせた。
他にも名作がゴロゴロあり、それをいつでもどこでも鑑賞できる。
本当に、それだけのアカウントだった。
ロケ先での自撮り、共演者とのツーショット、訪れた店や買った商品、メッセージに至るまで、余分なものを一切アップしていない。つい先日、何度目かの個展が開催される旨の告知が一つあったくらいで、それ以外はサッパリだ。ついでに、サブアカウントでもない。
ただただ、彼女が作ったものを彼女の好きな時に共有するだけの遊び場、写真集。
ゆえに、アルバム。
このSNSの使い方に対するファンの意見は様々で、『自分を貫いててカッコいい』というものもあれば、『もっと私生活を見せてほしい』というものもあった。
♥
電気を消した暗い部屋で、一人。
少女は、ベッドの上で体育座りをしながら毛布にくるまっていた。
彼女はスマホの画面をスクロールして、何周も何周も、桜木姫の作品を見返している。もう二時間はそうしていた。時間が溶けていく。
その少女は特別な人間ではない。
桜木姫の大ファンで、ただの女の子だ。
若く、青く、まだ何者でもなく、挑戦したことがないために、平凡かどうかすらもわからない。無味無臭で、ある種、可能性の塊とも言える。
そんな、普通の女の子だ。
彼女はよくこうして、憧れの人の作品から勇気をもらっている。挑戦するための勇気だ。
重苦しくて、嫌な焦りが常にあった。
挑戦しなければならない。挑戦したい。若くてエネルギーにあふれている時間は少ししかなくて、自由に使える時間は限られているのだから、今すぐにでも走りださなくてはならない。そんな、漠然とした焦りが。けれど――。
少女は毛布を頭からかぶって、うずくまった。
ガタガタ、ガタガタと、震える。
怖い。
笑われないか、バカにされないか、後悔しないか、暗い未来が待っているのではないか。
怖くて怖くて仕方なくて、いつまでも動き出せない。
彼女は少しだけ、人の目と未来に臆病な子だった。
どうしても、やりたいことがある。
小学生の頃そのことを両親に匂わせたことがあって、軽い雑談のつもりだったそれはしかし、烈火のごとく猛反対された。その場では「ウソだよ、ウソ」と取り繕ったが、後で部屋にこもって泣いたことは、ずっと嫌な記憶として残り続けている。
以来、心の中で膨らみ続ける『やりたいこと』について、することも言うことも怖くなってしまった。ちょっとしたトラウマなのかもしれない。
ダンゴムシのように丸まった少女は、そこだけ明るいスマホの画面を見る。
ふと、こんなことを思った。
もし、
もしも、
大好きな人が、こんな私の背中を押してくれたなら。
なんて出来心から、ダイレクトメッセージを送ってしまった。
『突然のDMすみません いつも楽しみに作品を見させていただいてます
私は高校生の女なのですが、どうしても叶えたい夢があるのにすごく怖くて踏み出せません
心の弱い私に激励をいただけないでしょうか』
一瞬で正気に戻り、後悔した。
気分が落ち込んでいたとはいえ、こんな意味のわからない文言を書き込んでしまうなんて。
そもそもとして、芸能人へのダイレクトメッセージは推奨されるものではなく、迷惑行為ですらある。そんなことを、仮にもファンを自称している自分がしてしまうなんて。
すぐに消そう。と指を動かした矢先、
既読がついた。
終わった、と思った。
腹の底が冷えて、どうしようなどと思考するゆとりもない。
唯一の拠り所だったのに、もうファンですらいられないかもしれないと悲しみが押し寄せかけた、しかし次の瞬間、
『わかる~』
と、返信が来た。
とても現実とは思えなくて、固まる。
本人から? 本人からだろう。だって本人のアカウントだし。いや、そんなことよりも。
共感、してもらえた。
それだけですべてが報われたような気がして、泣きそうになった。
『いや わかんないんだけどね』
一瞬にして裏切られた。
思わず「え!?」と声を上げて、混乱する。
感情が迷子になってどういうリアクションをしていいのかわからず、なんだか無駄に慌てふためく。
ただ、そんな掴みどころのないキャラクター性はテレビで見る桜木姫そのもので、振り回されているというのに嬉しかった。
彼女からのメッセージは続く。
『でも、夢が怖いモノだっていうことは知ってるよ』
それは意外な言葉だった。
少女のイメージにある桜木姫は、天上天下唯我独尊。破天荒で、常識にとらわれないで、どこまでも我が道を行く。
そんな人にも怖いものがあるのかと、少し驚いた。
『くわしく教えてくれない?』
気まぐれだったのかもしれない。
暇つぶしだったのかもしれない。
桜木姫はそう言ってくれた。
少女はその言葉に甘え、恐る恐る自身の夢のことや心の内を吐き出した。
不思議な時間だった。
実感がなくてフワフワしている。
憧れの人と普通にやり取りをしていることが信じられず、何度も夢かと疑った。
一時間くらい話していただろうか。
真面目な相談から雑談まで、色んなことを伝えたし、色んなことを伝えてくれた。
だんだん慣れてきて、なんだか友達と話しているような気分になってきて、すごく楽しかった。
桜木姫は生粋のエンターテイナー。
作品だけでなく文字でも人を楽しませ、望めば勇気も与えてくれる。
少女はそのメッセージの、一つ一つと真剣に向き合った。
『大きな挑戦って怖いよね
人が一生のうちに味わうような山と谷を、五年とか十年とか、もっと短い時間に凝縮して味わうことになるから
もう色々ついていかなくて、心の中がめっちゃくちゃになって、アイデンティティぐっちゃぐちゃになっちゃうことも、あるかも』
その文章はスッと染みて、針のようにチクリと刺さる。
少女の抱えるトラウマが、また暴れ出す。
やっぱり、怖い。
『今度の個展、あなたには来てほしいな』
それでも、この人と話していて、彼女はまたこの人に憧れ直した。
こんな人になりたい、こんな風にキラキラしたいって、強く思った。
エンジンが動き出す。
『私の答え、見せてあげる』
少女は立ち上がり、部屋のカーテンを開け放った。
朝日が昇っている。
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