伸手/久志木 梓 への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルから簡単な感想を置いています。全ての作品に必ず感想を書くというわけではありませんのでご注意ください。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 またネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。




伸手/久志木 梓

https://kakuyomu.jp/works/16817330654652941795


フィンディルの解釈では、本作の方角は北北西です。久志木さんの宣言と同じですね。


本作は、中国歴史物としては強めのエンタメストーリーと中国歴史物としては強めの難解語彙叙述が同居しているように感じました。前者は北的、後者は非北的です。

冷静に読書に取りかかるとすごく読みやすいエンタメストーリーなのですが、頻繁に出る難解語彙を調べつつでないとなかなか読みきれないので、そこで圧倒される読者は少なくないかもしれません。

一般的にエンタメ小説(小説に限りませんが)では、読者が小さな読書モチベーションしか有していなくても読破できるような作話を目指します。冒頭で掴んだり続きを気にさせたりして「ちょっと興味あるな」のワンクリックで訪れた読者の心をいかに掴むか、ここに技術を注ぎこみます。これは非常に大衆的で、真北を強く指します。

逆に言うと真北以外の方角では、読者側に「この作品を読もう、楽しもう」という大きな読書モチベーションをあらかじめ用意してもらう作品が少なくありません。「作品側が楽しませますから、読者は何も考えずふらっときてください」ではなく「確かな面白みや意義は用意しますので、読者も積極的に楽しむ意思を準備してきてください」という作品ですね。むしろ作品鑑賞という行為を考えるなら、後者のほうが基本で、前者が派生行為であるようにも感じます。作品鑑賞とコンテンツ消費の違いですかね。


本作は中国歴史物らしい難解語彙叙述が贅沢に使われている(=読者が積極的に楽しみにきてください)一方、舫縄の義人の死の演出や「七 旭日」の見せ方など続きを気にさせるエンタメストーリー(=作品側が読者を楽しませます)も見られますので、真北ではないものの北がかなり強く、北北西か北北東だろうと考えられます。

そして本作の「読者が積極的に楽しみにきてください」は作品独自の実験性ではなく中国歴史物というジャンルが標準的に備えている難解語彙叙述によるものですので、北北西が妥当だろうと考えます。

なおモデルとなった歴史事象のマイナーさは、本作については方角に影響を与えないものと思います。マイナーであることが読みにくさに影響を与えているようには感じられませんでしたから。


「中国歴史物だからって、読みやすいはずのエンタメストーリーをわざわざ難しい語彙を使って読みにくくさせることに意味があるのか」と感じられる方もいらっしゃるかもしれません。

ただフィンディルとしては本作の難解語彙の用い方やあり方には、技術と意義を感じています。

まず技術なのですが、久志木さんは「読みにくいなかの読みやすい」をしっかり意識されていることが窺えます。

「劫灰」や「酸鼻」などその語彙そのものは知らなくても文字から何となく意味を察せるようにしたり、「陋屋と豊屋の区別なく火を放って」の文脈から「陋屋」「豊屋」の意味が何となくわかったり、

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しかれば帝王の慣例にならい、貴君を冊封し宗廟を継がせ、臣として迎え入れるために来たのです」

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調べても意味の掴みにくい「冊封」「宗廟」などでは、直後に「臣として迎え入れる」を入れることで台詞の趣旨を解説しています。

筆力の確かな歴史物では基本技術なのかなとフィンディルは感じているのですが「わからなくても何となくわかるようなかたちでわからない語彙を頻繁に用いる」という処理を丁寧に行っているのです。

「暑さ対策を何もしていない夏日(25℃)」と「暑さ対策をしっかり施した猛暑日(35℃)」ではもちろん前者のほうが圧倒的に涼しいのですが、涼しさについての思考量と技術レベルは圧倒的に後者のほうが上です。

フリガナのオンオフについてはさらなる精度の向上が期待できるようにも思いますが、全体的に「読みにくいなかの読みやすい」の表現についてはかなり高品質を示しているように思います。非歴史物作者のなかで「難しい語彙を使いたいけど、読みにくいと言われるんだよね」と思われている方がいるのならば、是非とも参考にしてほしい技術です。


そしてそのような技術を施してまで難解語彙を用いる意義。それはやはり現代の語彙相場と明らかに一線を画することによるタイムスリップ感、歴史実感にあるだろうと思います。

本作は洛陽を逃れようとした帝は捕虜になり、その過程で宦官は亡くなっています。本作の歴史の主役が帝ならば物語の主役は宦官であり、その宦官があのように死ぬのは救いがありません。

仮に本作が非歴史物のエンタメストーリーだと「さすがに救いがなさすぎる」として受け入れがたい気持ちが湧くかもしれません。ストーリー全体はファンタジー物としても通用するような強いエンタメなわけですから。

しかし本作の終わり方に対して「さすがに救いがなさすぎる」と感じた読者はおよそいないと思います。何故ならば「これが歴史か」という強い納得感があるからです。その納得感を与えているものは何かというと、「これは歴史物だから実在の歴史を土台にしているんだ」という前提意識もあるでしょうが、タイムスリップ感・歴史実感の強い難解語彙による叙述が果たしている役割も大きいだろうと考えます。

またこれはフィンディルの予想で裏取りをしたわけではありませんが、およそ史実ベースの帝に対して、本作に出てくる宦官はおそらく創作ベースであるだろうと思います。永嘉の乱からイメージを膨らませて、久志木さんが生みだしたキャラと顛末であろうと想像します(宦官自体はいたでしょうが)。これで語彙が平易(現代の語彙相場に合致)だと、宦官にオリジナルキャラ感が出て「さすがに救いがなさすぎる」という見え方になりやすいだろうと思います。「作者次第では」の香りが出てくる。しかし難解語彙を贅沢に用いて、宦官を含めた作品全体にタイムスリップ感・歴史実感を演出することで、宦官および宦官の顛末に強い説得力を持たせているように思います。

そして永嘉の乱という歴史事象の凄惨さを、エンタメに過度に阿ることなく小説作品に落としこむことができているものと考えます。

よくよく考えられていると思います。良いと思います。


気になった点としては細部でいくつかあるのですが、ひとつだけ紹介します。

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 男はまた仏図澄を呼ぶ。仏図澄の掬い抱えたる骸の、白く膨れし顔に髭なきを見て、仰天している。

「其は宦官です」

 仏図澄は構わず骸を抱きかかえ、水から揚げた。すでに揚げた屍の隣へ横たえると、等しく閉眼合掌させ経を唱え、冥福を祈った。

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宦官は「去勢を施された(男性)官吏」のことです。去勢することで男性ホルモンが分泌されず、髭が生えません。ですので「髭なきを見て」の叙述だけで、宦官の死が示唆されています。ただこれだけでは読者には伝わらないので「其は宦官です」とわざわざ明言させているのだろうと思います。

「歴史の知識がある人にも、ない人にも伝わる」ことを意識されているのだと思いますが、「髭なきを見て」だけで伝わる人からすると「其は宦官です」は(作者の意図はわかりながらも)野暮と感じるのではないかという懸念があります。おそらく久志木さんも本当は「髭なきを見て」だけで済ませたいのではないか、とも推測します。締めの演出と考えると、ダブつきを感じさせる明言ではなく示唆に留めるほうがオシャレですから。つまり「其は宦官です」は作品的妥協であるとフィンディルは推測します。

ここの両立(知識がない人には伝わるし、知識がある人も満足させる)はもっと模索してみてもいいかなと思いました。

たとえば、本作は「髭なき→其は宦官→等しく弔う」という流れになっていて「其は宦官です」に「髭がないからこの遺体は宦官ですね」という解説のニュアンスしかなくて作中における発言の必然性が乏しい(=野暮)わけですが、これを「髭なき→等しく弔う→其は宦官」にすると「この遺体は宦官のようですが、他の人と同列に扱うのですか?(宦官は帝の側近であることが多く、地位が高かったらしい)」という確認や問いかけのニュアンスで宦官という言葉を出せるようになり作中における発言の必然性が担保されます。

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