西風/えーきち への簡単な感想
応募作品について、主催者フィンディルから簡単な感想を置いています。全ての作品に必ず感想を書くというわけではありませんのでご注意ください。
指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。
そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。
またネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。
西風/えーきち
https://kakuyomu.jp/works/16817330653414633384
フィンディルの解釈では、本作の方角は真北です。
妻が亡くならなければ北北西だったと思います。厳密に言うと、妻の死という事実開示をラストに行う構成にしなければ、ですね。
唐辛子を育ててペペロンチーノを作っていく流れは起伏がなくて生活が滲んでくるもので、かつ「美味しいペペロンチーノを作る」というわかりやすい目的があることで読みやすく、妻の死を無視すればまさに北北西だったと思います。
ただ本作は妻の死をラストの事実開示に持ってきているので真北と判断します。
えーきちさんに、妻の死を隠す意図があるとかバレる前提であったとかは、あまり関係ありません。
大事なのは読者の注目がどこに向かったかということです。読者は本作をどのようにして読んだのか。これが大事です。
「僕」が交通事故に遭ったくだりで「これ妻は亡くなっちゃったんだろうな」というのがわかったあと、変わらずに唐辛子を育て続ける「僕」を見てフィンディルは「唐辛子を育て続けることで妻の死をあんまり考えないようにしているんだろうなあ」と感じました。
それまで、ダンゴムシのくだりでは「あー暗いままにしておくとダンゴムシに食べられちゃうのか」と感じ、夏の水やりのくだりでは「夏は水をあげる時間帯も大事なんだな」と感じていたのですが、唐辛子の花が咲いたくだりでは「唐辛子を育て続けることで妻の死をあんまり考えないようにしているんだろうなあ」と感じ、唐辛子を収穫するくだりでは「唐辛子を収穫することで妻の死をあんまり考えないようにしているんだろうなあ」と感じ、ペペロンチーノを作るくだりでは「ペペロンチーノを作ることで妻の死をあんまり考えないようにしているんだろうなあ」と感じたのです。
育苗ポットを買ってきたくだりやダンゴムシのくだりはよく覚えているのですが、ペペロンチーノを作る流れなんかはほとんど覚えてないんですよね。「そろそろ妻の死が明かされるんだろう」と思ったことしか覚えていません。
妻の死をラストに示す構成にしている以上、「僕」が何をしても「唐辛子を育て続けることで妻の死をあんまり考えないようにしている夫」という描写に変換されてしまうのです。
エンタメとしてはそれでもいいと思います。
唐辛子を育ててペペロンチーノを作る叙述は「唐辛子を育て続けることで妻の死をあんまり考えないようにしている夫」の表現としては十分です。「妻の死という事実開示をラストに行うエンタメ作品」としては、唐辛子を育ててペペロンチーノを作る叙述は相性が良いと思います。「つらい」と「からい」のテクニックも、ラストを彩るためにフォーカスされたものです。
しかし「唐辛子を育ててペペロンチーノを作る作品」としては、妻を亡くならせてその事実をラストに明かす構成は致命的に相性が悪い。唐辛子を育てる流れもペペロンチーノを作る流れも全て「唐辛子を育て続けることで妻の死をあんまり考えないようにしている夫の描写」にしかならないからです。「つらい」と「からい」も、事実開示の構成ありきの印象を加速させます。
仮にえーきちさんが本作を「妻の死という事実開示をラストに行うエンタメ作品」と思って執筆されたならその面白みはしっかり伝わっていると思いますが、「唐辛子を育ててペペロンチーノを作る作品」と思って執筆されたならその面白みはあまり伝わっていないと思います。
事実開示のエンタメ構成にはこういう側面があります。読者の注目を集めすぎる。作品を読む読者の頭を支配してしまう。作品の面白みを塗り替えてしまう。
だから非エンタメを目指すなら事実開示の構成は採用しないのが無難ですし、仮に採用するならその塩梅には細心の注意を要します。
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