反転/水涸 木犀 への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルから簡単な感想を置いています。全ての作品に必ず感想を書くというわけではありませんのでご注意ください。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 またネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。




反転/水涸 木犀

https://kakuyomu.jp/works/16817330653909966663


フィンディルの解釈では、本作の方角は真東です。


本作では“あらゆるものが反転した世界”として「文を右から左に読む(なお左寄せ)」「文章を下から上へ読む」といった文体が採用されています。左寄せ・文章を下から上へ読むといった点で、戦前の右横書きとは異なります。文章の何かしらを反対にするという文体アプローチは、東向き作品においてはオーソドックスな発想だと思います。

なお「文を右から左に読む」については一文目でわかりますし、「文章を下から上へ読む」についてもある程度話を読み進めれば気づけるものと考えます。


本作を読んで、向上を期待できるところが大きく二点あります。

ひとつめ。「反転」の徹底・追求が物足りない。

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かいたりあで間人なんど

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文が左右反転していることを踏まえたうえで、「間人」をあえて読むなら何と読むか。「げんにん」と読んだ人が少なくないんじゃないかと思います。フィンディルは「げんにん」と読みました。

しかし冷静に考えると、これは反転としては中途半端な読み方です。「げんにん」ではなく「んげんに」と読むのが反転として筋が通っているからです。「二文字以上で読む漢字の読みについては反転を免れる」のは反転として中途半端な処理でしょう。「にんげん」なら「んげんに」だが「人間」なら「げんにん」というのもおかしな話です。しかしそうだとしても「間人」と出されて「んげんに」と読むかというとそれは別の話です。「だ誰は私」を「だれだはしたわ」ではなく「だだれはわたし」と読んだ読者が大多数のはずです。

反転を徹底して「間人」を「んげんに」と読んでもらうにはどうすればいいか。本文の最初の「私」に「したわ」とフリガナをつけるだけで読者に伝わります。読者が実際に読むかは別として、反転の表現は徹底できます。(本当は小タイトルの「転反」に「んてんは」とフリガナをつけるのがスマートなのですが、カクヨムのシステム的に難しそうです)

他に作中世界にもさらなる追求が期待できます。“あらゆるものが反転した世界”では性別や利き手や身長が反転しているようです。では「問う」は「答える」に反転しないのか、「頷く」は「首を振る」「見上げる」に反転しないのか、「言葉」は「身振り」に反転しないのか、「笑み」は「泣き」に反転しないのか、「片隅」は「中央」に反転しないのか。仮にこれらが反転していればやりとりは倒錯を極めているはずです、逆に言えば文・文章を反転するだけで意味が問題なく通るということはこれらは反転していないのでしょう。要は“あらゆるものが反転した世界”にしては反転しているものが少なすぎる。

上述したものは例です。つまり「文の反転をどれほど徹底させられるか」「あらゆるものが反転した世界とはどういう世界なのか」これら徹底・追求が甘いので、物足りなさを感じました。これら徹底・追求ができればより色鮮やかな倒錯表現を提供できるはずです。


二つめ。本作から作業量・技術が見えてこない。

端的な言い方をすると、本当に本作は反転しているだけなんですよね。

他の方の感想では上から読んでも意味が通るという話もありますが、およそ水涸さんとしては意図されていないでしょう。仮に上から読んでも意味が通るように作話していれば、上から読んだときの面白みはこの比ではないはずです。もちろん左から右へ読んだときに意味が発生するように執筆していれば、そこにある面白さもこの比ではないはずです。しかし本作にはそのような面白みが感じられない。「反転したときにすごく面白くなる文章を頑張って書いた」というような作業量および技術が本作からは見えてこなかったのです。

「文章を書いて反転する」と「反転するための文章を書く」は全くの別物です。「偶然性に任せる」のと「偶然性を取りいれた表現をする」も全くの別物です。いずれも後者にこそ東の面白さが宿ります。機械的な反転処理は(仮に手作業であっても)大したものではありません。やればいいだけだからです。反転の発想自体はオーソドックスなものですからコロンブスの卵もおよそ期待できないでしょう。

「文章を反転する」のはすごく簡単です、思いつくのも簡単ですし作業そのものも簡単です。しかし「反転したときに面白くなる文を書く、反転したときに面白くなる世界を作る」のはすごく難しいです。だからこそ面白くなるし、だからこそ楽しいのです。

エンタメですごく奇抜な設定を思いついたとして、それだけで作品が面白くなるかというとそんなことはありません。その設定が活きるようなキャラ表現、ストーリー表現、文章表現、これらを技術を駆使して脳に汗をかいて作業量を費やして生みだすことで、初めて作品は面白くなります。初めて執筆は楽しくなる。東も同様です。


方角が真東なのは、作品内容が北も南も強くないからです。手法を純粋に楽しむための添え物のようなストーリー、これは真東相当の物語としては合っていると思います。手法を従にせず、手法の邪魔もしないストーリーは良いと思います。

ただフィンディルの率直な気持ちとして、これで東に満足してほしくはありません。東はもっともっと楽しいのです。

どうすれば反転を徹底できるか、どうすれば反転を追求できるか、どうすれば反転を活かした面白い作品が作れるか。

そのためならいくら読みにくくなってもいいと思います。大衆エンタメではないのだから。しかし本作の反転からは“あらゆるものが反転した世界”の一演出以上の面白みを見つけられませんでした。“あらゆるものが反転した世界”だから文章を反転しただけだ、と。それにしては読書コストが高すぎるように感じました。

「あらゆるものが反転した世界とはどういう世界なのか」「反転したときに面白くなる文とはどんな文なのか」「反転したときに面白くなる世界とはどんな世界なのか」、これらを技術を駆使して脳に汗をかいて作業量を費やして考えて生みだしてみると、東の創作世界の入口に立てるんじゃないかなと期待します。楽しいですよ。

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