独尊/水木レナ への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルから簡単な感想を置いています。全ての作品に必ず感想を書くというわけではありませんのでご注意ください。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 またネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。




独尊/水木レナ

https://kakuyomu.jp/works/16817330653740388742


フィンディルの解釈では、本作の方角は北北東です。


初見すると「何だろうこの作品は」と感じられるかもしれませんが、落ち着いてみるとシンプルな作品な気がしています。

本作のボリュームパートである「第3話 ひとやすみ」ではAとBによる論争が繰り広げられています。

「天上天下唯我独尊」は「人として生まれた私達は、それだけで尊い」というような意味だそうです。比較や差別を否定する言葉ですね。Aはこれを「一人ひとりの個人を尊ぶべき」という主旨で用いていると思います。これに対してBは「大宇宙のあり方・変化に比べれば、個人など取るに足らない」という旨の反論をしています。個人を尊重するか全体を尊重するかという、よく聞かれる対立です。それから「宇宙が人を産んだのだから人の価値は宇宙にとって大事VS価値を価値と定めるのは飽くまで人であって宇宙にとって価値という概念はない」「自らが生きていくために環境を守る自己防衛は肯定できるVS美辞麗句を使って自分達の生存ばかり考えるのはわがまま」「貧しいから悪事を働き、人は産まれながらに貧しいので悪事を働くのは仕方ないVS貧しいから悪事を働くなら貧しさを撲滅するのが正しい道だ」「人が悪事を働くのは貧しさ以外に悪徳もあるから教育が大切VS徳とは時代によって変わるから、SDGsなどで縛ろうとするのは宗教のようなものだ」みたいに対立構図が流れていっています。

こう見ていくとそれぞれのスタンスが移り変わっていっているように感じます。個人を尊ぶと言ったあとで教育が大事と言ったり、全体に比べれば個人は取るに足らないと言ったあとで貧しさを押しつけられた個人はどうなるんだと言ったり。

とにかく論争・問答という形式を維持することが重要で、両者の価値観の一貫性や立場の明瞭さについてはあまり重視されていないように感じます。


この論争・問答の様からフィンディルは二点の印象を持ちました。

まずは、まどろみの感じ。「第3話 ひとやすみ」を読んでて、羊を数えているのに近しい印象を覚えました。羊を数えているなかで睡魔が強まってくると、段々と「羊を数える」骨格が溶けだすんですよね。今何匹目なのかとか、羊はちゃんと脚を使って跳んでるのかとか、このあたりの思考が覚束なくなる。これが、上述した論争・問答における両者の価値観や立場が移り変わる様と重なるように思いました。

ですので単純に「考えるのって眠たくなるよね」「考えてるとよく眠れるからいいよね」ということを実践的に表現しているのかなと思います。

もうひとつが、人が行う「考える」という動作について。人々は一生懸命考えたり議論を重ねたりしているけど、それって死ぬ(眠る)までの時間を潰しているだけなのではないか。お金もかからないし、時間は潰せるし。

それは決して「考える」という動作を馬鹿にしているわけではなくて、「考える」ことに一生懸命になれる人間って面白いよね、楽しいよね、良いよね、これって人間にしかできないよねみたいなことなのかなと思います。

「天上天下唯我独尊」には「人として生まれてきた私達には、人にしかできない使命がある」という解釈もあるみたいですので、それが「考える」なのではないかという表現も見てとれると思います。

みたいなことを本作から感じました。


そのうえで判断が難しいのが方角です。

ただでさえ方角の判断が難しいのですが、小説ではなくエッセイということでなおのこと判断が難しいと思います。ではどうして北北東判断なのか。

まず論理的な解釈をしっかり差せる感触があるという時点で北半球はおよそ間違いないと思います。

また第一印象が「何だろうこの作品は」となりやすいという点で、真北もおよそないだろうと考えられます。

そしてここで小説とエッセイの違いが出るのかなと思います。本作は「考えるを考える」という考察があてられている作品だと思うのですが、小説において考察が存在感を見せると方角は北西くらいになるだろうと思います。SFなんかではそういう作品多いですし。ただことエッセイとなると、考察を行うことはそんなに大衆から外れないのではないかという印象があります。「〇〇を考えてみる」というエッセイはまま見かけるものですから、エンタメから外れない読み物なのではないかと思います。“大衆的”というのは作品が決めるのではなく読者(=大衆)に依存する概念ですから。ですので「考えるを考える」小説なら北西程度なのですが、「考えるを考える」エッセイとなると必ずしも西に寄るものではないと判断します。

東はどうなのかなると、ほんの少しの東があるように感じます。というのも本作は「考えると眠たくなるよね」の考察を並べているのではなく、「考えると眠たくなるよね」を実践しているんですよね。実践してみたので羊を数えるような気持ちで「第3話 ひとやすみ」を読んでみてください眠たくなりますよね、というような。そしてそれをボリュームパートにしている。そう考えるとエッセイとしても実験性があるように感じました。そのうえで本作は「考えると眠たくなりますよね。実践してみます」という実践概要がしっかり告げられていますので、その点において大衆を意識したエンタメ的な枠が設置されていると思います。もっと東だと「第3話 ひとやすみ」だけでエッセイを構築するもので、それ以外のページは省かれるものと考えられます。ですので実践をボリュームにした実験性はありつつも、その実践を説明する枠が配置される大衆性も確保されている、とフィンディルは判断します。

ということで北北東が妥当かなと考えます。ただし、判断が難しいかつエッセイなので精度は低いと考えられます。

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