2 キャベツ味の間接キス


 その日の夕飯は俺の当番だった。榎木は塾の講師のバイトをしていて、帰って来るのは八時半くらいなので、俺はのんびりスペアリブにサラダ、コンソメスープという献立に挑戦していた。


 ピンポンとドアホンが鳴るので出ると、隣のホモカップルで下になっていた方の、綺麗っぽいにやけた男だった。

「何ですか、鈴木さん」

 覚えたての名を呼ぶと、にやけた男は少し口を尖らせて訂正した。

「俺は山田だ。山田隆司」

 じゃあ上で乗っかる方が鈴木か。


「君一人?」

「はい」

 山田は勝手に部屋に入ってくる。俺よりちょっと年上で、俺よりちょっと背が高くて、ああいう場面を見てしまったので、つい余計な気を使ってしまう。どういう顔をしていいか分からないし、何を話していいか分からない。


 とりあえず、やりかけのキャベツを刻んでいると、後ろから俺の手元を覗き込んだ男が言う。

「晩飯作ってんの?」

「はい」

 榎木、早く帰って来ないかな。すぐ後ろにいる男の気配が気になって――。

「つっ」

 意識が逸れた俺は、キャベツではなく自分の指を包丁で刻んでしまった。切った左の人差し指から見る見る血が盛り上がる。


「うわっ、大丈夫か!!」

 山田は驚いて俺の手を掴むと、血が滲んだ俺の指をぱっくりと口で咥えた。

 ぎょえっ!?

 舌が怪我した傷口を舐める。

 うわあ、何すんだよこのヤロウ。


 そこにピンポンとドアホンが鳴った。山田の手を振り切って、やれやれと玄関に出ると、そこに居たのは隣の鈴木だ。背が高くてがっちりした身体は、少しどころじゃないほど威圧感がある。

「やあ、山田来てない?」

「あ、来てますよ」

「どうしたんだ?」

 鈴木が俺の頬に手をやる。

「真っ赤だ」

 そりゃあ、あんなことをされれば誰でもびっくりする。あんたの山田を早いとこお持ち帰りしてくれ。大体、怪我をしたのは山田の所為なんだぞ。


 しかし、お持ち帰りどころか、二人は俺の前で喧嘩をおっぱじめてしまったんだ。

「こんな所で何をしている、山田」

「何もしてねえよ。俺は真面目なんだ。あんたみたいな浮気な奴と違う」

「何だと俺がいつ浮気をした。お前こそ、こんな可愛い子に変なちょっかいなんか出すな」

「ちょっかいなんか出してねえよ。お前と違ってな」

「だから、それはどういう」

「今日、営業の加藤と仲良さそうに話していたろ。あのヤロウ、お前の肩にこう手を置いて――」

 また痴話喧嘩か。話の内容からして彼らは同じ会社のサラリーマンらしいが。

 うう……。いい加減にして欲しい。俺ってダメだな。はっきり言えたらいいのに。


 そこにやっと榎木が帰ってきた。

「ただいま」

「榎木ー!」

 俺がすっ飛んで玄関に榎木を出迎えに行くと、喧嘩をしていた二人は、ふと顔を見合わせて肩を竦める。

「邪魔したな、坊や」

「彼氏に謝っといてくれ」

「だから違うって言ってっだろっ!!」

 俺が喚いても聞いちゃいない。

「可愛いねえ」

「俺たちもあんな頃があったなあ」

 勝手に納得して、勝手に帰ってゆく。


「何があったんだ?」

「何も……」

 いい加減疲れて、脱力気味に榎木を見る。

「篠原、指怪我してる」

 そういや、そのままだ。また血が盛り上がっている。榎木が俺の手を掴んだ。

「うわっ」

 何と、榎木は山田と同じように俺の指を咥えたんだ。舌がぺろりと俺の傷を舐める。

「絆創膏貼っとけよ」

「う、うん……」

 榎木がまさかそんな事をするなんて……、ていうか、榎木と山田の間接キス……?

 ……、うげえ。


 俺が余計な事をぐるぐると考えながら絆創膏を貼っていると、榎木はさっさとスペアリブを焼き始めた。

「ごめん」

「いや、腹減った」

 言われた途端に俺のお腹がグウと鳴る。隣の奴らに引っ掻き回されて、俺は晩飯どころじゃなかったんだ。榎木の横で俺は切りかけのキャベツに取り掛かった。



「あいつら、何で来るんだろうな」

 晩飯を食った後でポツリと零す。

「困るよな。勝手に誤解して」

「隣の? 面白がってるんだろ。ほっとけよ」

「う、うん」

 榎木はわりとマイペースだけど、俺って影響受けやすい人だからなあ。

 ……。影響受けたらどうなるっていうんだ?

 ふと、左の人差し指に意識が行く。怪我した指を二人の男に舐められた訳だが……。チラッと榎木の口を見た。意志の強そうな引き締まった口元。

「顔が赤いけど、熱あんの?」

 榎木が俺の額に手を伸ばしてきた。慌てて首を横に振って立ち上がる。

「ないない。今日の体育、グラウンドだったから日に焼けた」

 カチャカチャと音を立てて食器を片付けた。

「そっか。篠原、色白いからな」

 榎木は別に気にもせずに風呂掃除に行く。

 色白って、生っ白い風に聞こえて何か嫌だ。食器を片付けながら、一人で拗ねた。



 俺のバイトは、榎木と違ってスーパーのレジだ。週三回、一日四時間程度働いている。

「篠原君は可愛いわね」

 バイト先のオバちゃんに可愛いと言われるのは別に嫌じゃない。

「あら、可愛い子ね」

 お客のオネエサンに言われるのはちょっと嬉しい。

「やあ、篠原。今日も可愛いな」

 しかし、男に言われるのは――。

 売り場主任の夏目さんは、最近俺にそう声をかけてくる。時々肩やら腰やらに手が当たるのは偶然だよな。変な隣人が居ると余計な事を考えてしまう。

 あいつら本当に何とかならないだろうか。そろそろ実害も及んできそうな気配だが。

 隣人のことを考えていたら、本当に店で見かけた。

「あれ。こんにちは、鈴木さん」

「俺は山田」

「あ、スイマセン、山田さん」

 にやけた感じの俺の指を舐めた男は、ベージュのジャンパーを着てネクタイを締めている。台車に乗せているのは冷凍食品の段ボール箱だ。

「やあ、この店でバイトしているのかい」

「はい。山田さんは何で」

「担当を変わったんだ。よろしく」

 山田は食品会社の営業だったのか。

「彼氏元気か?」

 こんな所で、その手の冗談は止めて欲しい。

「篠原君。彼氏居るの?」

 オバちゃんが先輩と俺の話に割り込んできた。

「冗談ですよ。一緒に住んでいるだけで――」

「あら、一緒に住んでいるんだー」

 オバちゃん。何でそんな嬉しそうに言うんですか。

 まったく――。


 今日は榎木の当番だ。面倒くさがり屋なくせに、手順を覚えてしまうと簡単だとか言って作る榎木のレシピは豊富で、スパゲッティやら炊き込みご飯、餃子や炒め物等どれも美味しい。今日は何が待っているか、バイトが終わると、俺はわくわくして帰ったんだ。

「腹減ったー、榎木。晩飯何ー」

 そう言ってドアを開けると、長い茶髪が目に入った。女が居る。

 俺は部屋を間違えたんじゃないかと慌てて外に出て、ドアの部屋番号を見直したが間違っていない。

 部屋には榎木が一人じゃなかった。

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